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不潔さを女性に押しつける男達

ラブピースクラブの連載第三回、更新されました。
『歯みがきができない男達~男の不潔さを武器化する性売買の構造~』



わたしに梅毒をうつした男は、今も生きているんだろうか?
今も生きて、どこかで女を買っているんだろうか?


ひとはその長い歴史の中で、いろんな発見をしてきた。

火を焚くと暖かいとか、
農作物を栽培すると冬になっても食べるものがあるとか、
この世界はじつは大きな球体であるとか、
海の向こうにも人間が住んでいるとか、
病気の原因は小さな小さな細菌やウイルスであるとか、
手を洗うことで病気を予防できるとか。

清潔さを保つというのは、安全を守るということだ。
安全を守るとはとどのつまり、生命を守るということだ。

現代に生きるわたしはそれを知っている。
少なくとも2025年を生きる成人のわたしにとって病気とは、悪魔の仕業でも神様の罰でもない。
名前は知らなくとも病原体というものが存在し、それがひととひとの間で感染し得るということを、わたしは知っている。

清潔の保持は、現在の社会では常識だ。
食事の前には手を洗い、身体が汚れたら不快であると感知する。
子どもだってトイレに行けば汚れた尻を拭く。
誰もが自らの清潔を保持し、他人を汚染しないように配慮する。
それは社会の慣習であり、礼節であり、個人と共同体が病原体の危険を回避するために、人間が長い年月をかけて培ってきた知恵の結晶だ。

だからこそ分からないのだ。

なぜ?
なぜ性売買では、病原体の感染という危険を度外視して、男が生身の女性に性的な接触をすることが許されている?
なぜ、男がその不潔さと危険を女性に押しつけることが、黙認されている?
男の不潔さと病原体を他者に感染させ得る行為の強要が、なぜこの社会で容認され続けている?

現代社会では当たり前の清潔のための常識が、性売買の現場では簡単に放棄される。
女性が不潔(危険)を回避する権利は奪われ、相手を危険にさらす強権が男にだけ許される。

わたしが梅毒に感染したと知った時、わたしを雇っていたデリヘル店のスタッフは言った。
「治ったらまた出勤してね」
「どのお客さんが感染源か突き止めたりしないし、働いてる別の女の子にも梅毒が発生したなんて言わないよ」
こんな対応が当たり前なのだ。
こんなことが許されているのだ。
性売買では。

性売買における女性は、無防備であることが商品価値になる。
男に対しても病原体に対しても無防備に、無制限に、受け入れることを求められる。
コンドームで男を拒んだりしない、フェラチオの前にシャワーを浴びさせたりしない、キスの前に歯をみがけなどとつまらないことを言わない、そういう無防備さこそ価値が高いとされる。
男が買っているのは、女性が拒否できない状況であり、女性の身体と尊厳を侵犯してもいいという強権なのだ。

そして性売買では、男の不潔さは暗黙のうちに不問に処される。
それは危険がないからではなく、男の欲望は女性の生命と安全よりも優先されるという、社会の権力構造を最大化する場こそが、性売買だからだ。

女性を買う男の頭の中では「買った女が病気になるのは“おれのせいではない”」という理屈になる。
性売買で女がクラミジアにかかろうが、エイズになろうが、その責任は男ではなく、つねに女にあるのだ。


わたしに梅毒をうつした男が誰だったのかは、結局分からない。
でも、そいつが今も生きていれば、まだ女性を買っているかもしれない。治療していなければ、今も買った女性に梅毒を感染させているかもしれない。

性売買が容認される社会とは、男の不潔さが黙認され、男の射精と支配欲を満たすために、女性の生命が危険に晒され続ける社会だ。


それがわたしの生きてきた暴力的な性売買の構造であり、今も続くこの社会の現実なのだ。


この汚らわしい社会を容認し温存しようとする者達。


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