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Nothing Archive ないものとされてきた声

写真は、3月末の神田川。
無数の桜が、雨に打たれながら、川面に向かって重たげな枝をしならせ、きりもなく花びらを降らせていた。
黒々した水面に落ちた花びらは、夜空の星のよう。

あんまり綺麗で、長々と見とれてしまった。


ここに来るまで、どれくらい時間をかけたんだろう?


過去の苦痛を語るのは、いつも怖い。
どれだけ発信を続けていても、その恐怖は消えない。

自分の経験がどう受け取られるか、誰に届くのか、どう使われるか。
わたしにとってみればそれは、自分自身をどう受け取られ、どう使われるかということだ。
そういった怖さがあるにもかかわらず、発信の結果は、あとにならなければ分からない。

本当のことを言えば、自分に起きたことなど、とっとと忘れてしまいたい。
そうでなければ、もうこんな人生は早く終わってほしい。

梅毒の数値は安定し、危険水域になることはおそらくもうない。
切り取った子宮頚部に深刻な病変は見つかっておらず、半年に一度の経過観察にとどまっている。
クラミジアも、淋病も、疥癬も、歯周病も、諸々の傷も、治癒して久しい。
トラウマの瓶詰めになった脳みそと神経系は残ったけれど、注意深い環境調整によって、どうにか穏やかな生活を送ることができている。

なにもかも全部、遠い過去のことみたい。
なんだったら、いっそ嘘みたいだ。
もう、いいんじゃないかなあ。
だって疲れたし。
思い出すとつらいし。

そんなふうに音を上げそうになっても、こうしてしつこくしつこく語り続けているのは、この社会で女性を傷つける仕組みがまだ生きているからだ。

性売買の被害は今も発生し続けていて、その中に取り残された人がいる。
次の世代の被害者が生まれることも、現在のところ、残念ながら明白。
だからわたしは、沈黙することができない。
これは、使命感とかいう高潔な言葉では言い表せない。もっと切迫した、ほとんど強迫的な義務感に近いなにかだ。

かつてのわたしを孤立させ性売買へと誘導した社会というのは、多くのひとの黙認と無関心の上に成り立っていた。
男たちが密室の中に隠していた搾取と暴力。
それを男の当たり前の権利として黙認する社会。
それはそういうものだから、と、誰もが目を逸らしていた社会。

若くて無防備だった頃の自分を思い出す。
あの頃もわたしはいろんなことを考えていた。
ない知恵をしぼり、誰の手をも煩わせることなく自分でどうにかしようとあがいていた。自分が抱えた問題に対して。
そして、ごく普通に生きようとしていた。幸せとか、楽しいとかを求めて。

でも、わたしは滑り落ちてしまった。
無関心と黙認によって閉ざされた密室の中に。

わたしは許せないのだ。
制度の欠落や、政治の不作為や、男の特権や、悪意や、害意が放置されていることが。
それによって傷つく女性を鼻で笑って「そんなものに足をとられるほうが悪い」と切り捨てる社会が。
わたしが味わった苦痛の全部がないものとされていることが。
どうしたって、許せないのだ。

わたしはかつての自分に、無傷でいてほしかった。
少なくとも、くり返し性感染症にかかってほしくなどなかった。
乳首や膣に裂傷を負ってほしくなどなかった。
そういう苦痛は金を得るためには仕方のないことなのだと、あきらめさせたくなどなかった。

あの頃の自分を思う。
冬の日に生まれた自分を。
お絵描きが好きだった自分を。
ブランコから靴を飛ばしていた自分を。
数学が苦手で国語と歴史と音楽が好きだった自分を。
友達と授業中にらちもない手紙を回し合って笑っていた自分を。
ひとりの人間ではなく、男の支配欲と射精欲を満たすための物体におとしめられた自分を。

それらは、すべて同じ人間の身の上に起きたことだった。
悲しいことに、分けることはできない。


でも、だからといって、わたしはすべてをさらけ出して戦うことはしない。
告発のためだけに生きることも、しない。

これを限界の表明だと受け止める人もいるかもしれない。
だとしてもかまわない。

わたしはひとりの人間で、平凡な女で、無力な一市民だ。
実際、わたしにできることには限界があるだろう。
あってしかるべきだ。

なにもかもを犠牲にして、自身を変革と痛苦の戦いへと投入する――
それは、一見、社会正義に忠実な女の、理想の姿かもしれない。
でも、そういう“自己犠牲”や“気高さ”みたいな雰囲気が立ち上る時こそ、足を止めて考えたいのだ。

わたしが赤裸々に語る時、「社会は女の犠牲の上に成り立つ」という、男性優位社会のイデオロギーを、そのまま再現してしまってはいないか?

現実を生きる人間として、くり返しそう問いかけていたい。
面倒すぎてうんざりするけれど。
「悲劇に見舞われた女は美しく散るべきである」というような傍観者のカタルシスに応えてやる必要は、どこにもないのだ。

わたしが望むのは、そんな非現実的で刹那的なものじゃない。

女性個人が獲得できる幸福の幅を、少しでも広げること。
そしてそれを、自分自身が体現すること。
社会正義を求める女が、それでも幸福になれると示すこと。

だって、そうじゃければ、生きている意味がないじゃないか。

わたしには、
日々のささやかな喜びを享受する。
苦痛をできるだけ避ける。
友人たちに語ることができない陰惨で悲劇的な過去を遠ざける。
そんな権利があるはずだ。

雨にけぶる桜を気がすむまで眺めるような、そんなささやかな幸福が。


わたしはこれからも、性売買構造の告発と批判を続ける。
それは、"先に助かった性売買被害当事者"としてのわたしが、あとに残してきた多くの女性たちのためにできる、もっとも大きな貢献だと思うから。
そして、かつての溺れる自分に報いるためにできる、唯一のことだと確信しているからだ。

わたしは女性人権のために告発し、同時に自分の幸福のためにも生きる。
これは両立できるはずだ。
しなきゃいけないことのような気がするのだ。
たぶん、わたしを含めたすべての女性が幸福になることが、わたしの信じるフェミニズムだから。

これからも女性の人権が前進していくことを願ってやまない。
女性が身体を売らざるを得ない社会構造が、変革していくことを。
その日を目指して、わたしは今日も告発者として生きる。

それと同時に、社会構造の暴力と搾取から生存したひとりとして、今日もささやかな幸福を生きていく。


4月なかば、通勤途中に通る庭のモッコウバラがどっさり咲いている。
神田川の桜はもう散ってしまっただろう。
ひとつずつ重ね、遠ざかり、やがて忘れていく過去。
どうせなら、綺麗な善いものを選びたい。
選べる限りは。



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