【星の再編物語】|第2部|境界の薄明⑨ 《見えない岸》
《星の再編・境界の薄明》|第二部|境界の薄明 エピソード集⑨
|薄明化|6
エピソードNo.15 《見えない岸》
その日リゼは、川のそばを歩いていた。
そんなに大きくはないその川は、
街の輪郭に沿うように流れている。
その川の浅瀬では、ところどころ鳥が羽を休め、
水面には細かな光が揺れていた。
水の流れは穏やかで、
ただ自分の速度で、素直に進んでいた。
欄干に手を置いて立ち止まると、
風が水面を撫でた。
すると、川はたちまち別の表情になる。
静けさの上に、ごくかすかな動きがあらわれる。
川面には、空の雲が映っていた。
白く薄い雲は、流れに合わせてゆるやかにほどけ、また結び直される。
それは空の雲というより、水の中で生まれ直している別の雲のように見えた。
彼女はふと、向こう岸に目を走らせた。
木立があり、細い道があり、その奥にいくつかの家の影がある。
その見慣れた風景は、なぜだかその日だけ遠く思えた。
「見えない岸」
その言葉が、彼女の内側にそっと浮かんだ。
橋を渡ればすぐに行ける場所。
けれども、あの岸は
「まだ呼ばれていない場所」
に見えた。
「いまではない」と、世界が告げているように、
向こう岸だけが、薄い霞の奥へ退いて見えた。
彼女はしばらく、向こう岸を見つめていた。
すると、
水面の反射のあいだから、細い光の筋がひとつ立ち上がって見えた。
夕方にはまだ早い。太陽も高い。
それでもその光は、空から降りてきたというより、水の底から浮かび上がったように見えた。
まっすぐな線ではなかった。
ゆるやかに揺れ、途中でほどけ、また集まりながら、かすかな柱のような形を保っている。
彼女は息をひそめた。
あのとき見た、赤い線の上昇とは違う。
もっと淡く、もっと透明に近い光。
けれど、あの光と無関係ではないことだけは分かった。
上昇するもの。
境界を貫くもの。
見える層と見えない層を、
一瞬だけつなぐもの。
目を細める。
肌の表面に、ごく細かなざわめきが走った。
空気もまた、わずかに震えたように感じられた。
その瞬間、
光の柱の向こうに、誰かが居そうな気がした。
立っているようにも見えた。
けれど、その輪郭は淡く、定かではない。
人影、と呼ぶにはあまりにも曖昧だった。
風景に混じりながら、光の中に立つその気配は、昔、母のそばを漂っていたオーブと、どこか同じ気配を宿しているようでもあり、
そして何より、自分自身の遠い一部のようでもあった。
怖くはなかった。
ただ、
それを知っているような気がした。
自分がまだ言葉を持たず、今の形も持たず、ただ「感じる」ということだけで世界に触れていた頃。
水と光がまだ分かれていなかった頃の、古い感覚。
気配は何も言わなかった。けれど彼女には、
その沈黙そのものが、ひとつの意思を持っているように感じられた。
その瞬間、風が少し強くなった。
川面が揺れ、光の柱は、細かなきらめきにほどけた。
砕けた光は水の上を無数の粒になって走り、橋の下の影へと吸い込まれていく。
人影のようなものも、いつのまにか消えていた。
彼女は、しばらく動けなかった。
心のどこかが、静かに押し広げられていた。
見えない岸は、外にあるだけではない。
自分の内側にもある。
まだ意識が渡っていない領域。
まだ日常の言葉が届いていない場所。
けれどそこにも、すでに風景があり、水があり、誰かの気配に似たものがある。
それはもしかすると、愛や記憶や、まだ名づけられていない変化が、
個人の物語になる前の形で漂っている場所なのかもしれない。
彼女は以前ほど、すぐに意味へたどり着こうとはしなくなっていた。
わからないまま受け取ること。
名づけずに抱えること。
それもまた、見えない岸へ近づくひとつの歩き方なのかもしれないと思った。
橋を渡らず、彼女はそのまま川沿いを歩いた。
歩きながら、いろいろなことを思い出した。
かつて見たあの光も、あの螺旋もすべてこちら側の出来事でありながら、 どこか向こう岸から差し込んできたものでもあったのだろう。
だからといって、向こう側へ渡ってしまうわけではない。
完全に越境するのではなく、こちらとあちらのあいだに、細い橋が一瞬だけかかる。
夢でも現実でもなく、両方の岸が互いをうっすら見ている時間。
ビジョンとは、そういうものなのかもしれない。
川沿いの草が揺れた。
その匂いが風に混じる。
青い匂い。 土の匂い。 少し湿った、懐かしい匂い。
彼女はそれを吸い込み、ゆっくり吐いた。
呼吸は、もう怖くなかった。 むしろ、岸と岸のあいだを往復する小舟のように感じられた。
吸うたび、こちら側の世界が入り、
吐くたび、言葉にならないものが向こう側へ返っていく。
その繰り返しの中で、人は見えないものと共に生きているのかもしれない。
──
やがて、小さなベンチが見えてきた。
川に向けて置かれた、古びた木のベンチ。
彼女はそこに腰を下ろした。
空は少しずつ、午後の透明を深めていた。
鳥が一羽、低く横切った。
その影が一瞬、水に映る。
映った影はすぐに崩れ、ただの揺れに戻る。 けれど、その一瞬だけで充分だった。
何かは確かに、そこを通ったのだ。
彼女は目を閉じた。
そこに現れたのは、あの透明な器。 水のようなものをたたえた、静かな場。 その中で、今日は螺旋ではなく、岸のような地形が見えた。 こちらに白い砂のようなものがあり、向こうには淡い金の光を帯びた地面がある。 その間にある水は、越えられない境界ではなく、むしろ両方の岸をやさしくつないでいた。
見えない岸とは、断絶ではない。 「見えない」というだけで、すでにつながっている。
こちらからあちらが見えにくいだけで、 あちらからはこちらが、思っているよりよく見えているのかもしれない。
彼女は、何となくそう思った。
そのとき、内側の風景の中で、向こう岸に小さな灯りがともった。
ひとつ。 またひとつ。 さらにひとつ。
灯りは星のようでもあり、家の窓のようでもあった。
誰かがそこで待っている、という感じではない。 ただ、「ここには場所がある」と静かに知らせてくる灯りだった。
どこにも居場所がないと思う日でさえ、 見えない岸には、いつでも灯りがともっているのだろう。
まだ渡れないときにも、
まだ言葉にできないときにも、
まだ、自分が何者なのか曖昧なときにも。
彼女の胸の奥が、やわらかく熱を帯びた。
それは感動というより、安心に近かった。
たどり着かなくてはならない場所があるのではなく、
ここで良いのだという安心。
この世界で歩く自分。
見えない層を感じる自分。
過去と未来の気配に挟まれながら、いま、ここで息をしている自分。
そのどれもが、別々ではなく、一続きの存在なのだ。
目を開けると、川は変わらず流れていた。
向こう岸も、ただの向こう岸としてそこにあった。
けれど彼女の見方は、少しだけ変わっていた。
行ける場所と、まだ行かない場所。
見えるものと、まだ見えないもの。
触れられるものと、まだ触れられないもの。
それらの境は、思っていたより薄いのだろう。
そして、《境界の薄明》は、特別な一度の出来事ではない。
日々のいたるところに、淡く差しているものなのかもしれない。
──
彼女はベンチから立ち上がった。
帰るべき時間だった。
けれど今日は、「帰る」という言葉の意味も少し違って聞こえた。
家へ帰る。 日常へ帰る。 身体へ帰る。 そして、見えない岸の存在を知ったまま、こちら側の世界へ帰る。
それは後退ではない。
むしろ、両方の岸の存在を知った者にできる帰還だった。
歩き出す前に、彼女はもう一度だけ川を見た。
水面は静かだった。
けれどその静けさの内側では、たしかにごくわずかな運動が起こっていた。
彼女は微笑んだ。
世界はいつでも、見えるところより少しだけ深い。
そしてその深みは、遠いどこかにだけあるのではなく、 こうして橋の上、川のそば、風の匂いの中、 呼吸と呼吸のあいだに、そっとひらかれている。
見えない岸は、きっとまた現れるだろう。
夢の中で。 光の中で。 誰かの後ろ姿の中で。 あるいは、何でもない午後の水面の揺れの中で。
そのとき彼女はもう、 急いで渡ろうとはしない。
ただ立ち止まり、 風を感じ、 そこに岸があることを、静かに受け取るだろう。
リゼの頬を、風が撫でた。
川はいつものリズムで流れていた。
彼女は、ゆっくり歩き始めた。
――続く
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【星の再編物語】『境界の薄明』エピソード集①
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