【映画感想文】座頭市(2003)〜あの金髪は、答えだった〜
2003年の秋。映画館で観た座頭市は、時代劇のはずなのに、不思議と“違和感”がなかった。──ただ一つを除いて。
勝新太郎のシリーズを観たことがなかったから、というのもある。
私にとっての座頭市は、この映画が最初だった。
ただ一つだけ、どうしても引っかかるものがあった。
たけしの、あの金髪だ。
なぜ時代劇で、あんな色にする必要があったのか。
観ているあいだ、ずっとそのことが頭のどこかに残っていた。
けれど今思えば、あの違和感こそが、この映画の正体だった気がする。
その違和感は、ある場面で別の形に変わります。
賭場で、胴元のイカサマを見抜くシーンです。
座頭市は目が見えない。だからこそ、わずかな違いに気づきます。
「サイコロの音、変わったな」
そう言った瞬間、場の空気が一変します。
あのとき、私はようやく気づきました。
この映画は、“見る”ものではなく、“聴く”ものだったのだと。
それは、農作業の場面でも同じでした。
百姓たちがクワを振るう音が、いつの間にか一定のリズムを刻み始めます。
土を打つ音が揃い、身体の動きが揃い、
やがてそれは、まるで音楽のように聞こえてきます。
ここではもう、リアルかどうかは関係ない。
この映画の世界は、最初から“リズム”で出来ています。
そして、そのリズムは、やがて血しぶきにまで及びます。
斬撃の一つ一つが、妙に心地いい。
それは激しさというより、むしろ“整っている”感覚でした。
この映画は、人を斬っているのではありません。
この映画は、人を斬っていません。
一定のテンポで、何かを刻んでいるのです。
そのリズムは、物語の決着にまで及んでいます。
源之助(浅野忠信)との一騎打ちは、あまりにもあっけなく終わります。
積み上げてきた緊張が、一瞬で断ち切られます。
それは拍子抜けではありませんでした。
むしろ、あの“短さ”こそが、この映画のテンポだったのだと思います。
そして、最後に明かされる事実。
座頭市は、目が見えていたのです。
あの設定すら、この世界では絶対ではありません。
必要なのは、リアリティではなく、流れです。
だから彼は、頭目を殺しません。
目を斬り、「一生メクラで暮らせ」と言い放ちます。
残酷なのに、どこか“収まりがいい”。
それもまた、この映画が刻んできたリズムの中にあるのです。
そしてラスト、宿場町の人々が下駄でタップダンスを踊り出します。
あれを見たとき、もう驚きはありませんでした。
むしろ、ようやく腑に落ちた気がしました。
最初からずっと、この映画は音を刻み続けていたのです。
土を打つ音も、サイコロの音も、斬る音も。
すべてが積み重なって、最後に“踊り”になる。
気づけば、私の中にもそのリズムが残っている。
映画館を出たあとも、しばらくは消えませんでした。
あの違和感は、最初から“音楽の始まり”だったのかもしれません。
金髪は、そのためにあったのでしょう。

