何気ない日
ゆったりとした静寂の中で、目が覚めた。
薄いカーテンの隙間から、柔らかい朝の光が差し込んでいる。どこか遠くで車の走行音がかすかに聞こえるけれど、室内は驚くほど穏やかで静かだ。
〇〇はゆっくりと息を吐き、まぶたを開けた。
視界のすぐそこに、愛おしい顔があった。
隣で横になり、規則正しい寝息を立てているのは、同い年の幼馴染であり、高校時代から付き合っている彼女のいろはだった。
無防備に少し開いた唇、光を反射してキラキラと輝く綺麗な髪、そしてどこか安心しきった寝顔。布団を胸元まで引き上げ、すやすやと心地よさそうに眠っている。
(……可愛いな、相変わらず)
〇〇は静かに上体を起こし、伸ばした手で彼女の頬に触れそうになり、一度ためらった。起こしてしまうのはもったいないような、ずっと見ていたいような不思議な愛おしさが胸を満たす。
田舎の高校で出会い、放課後の教室で他愛もない話をしていた頃から、もう何年が経っただろう。共に上京し、こうして一つの部屋で暮らし始めるまで、色々なことがあった。けれど、目の前で笑ったり眠ったりしているいろはの存在だけは、いつの時代も〇〇の人生の真ん中にあった。
「ん……ふ……」
いろはが身じろぎをし、まぶたをうっすらと開けた。
視線が合わさる。とろんとした琥珀色の瞳が、ゆっくりと〇〇を映し出した。

「……あ、〇〇……おはよう……」
少し掠れた、朝一番の甘い声。
「おはよう、いろは。起こしちゃった?」
「ううん……違うよぉ。〇〇が起きた気配で、目が覚めたの……」
いろははごしごしと目を擦ると、布団の中でモゾモゾと動き、〇〇の腰のあたりにすっぽりと抱きついてきた。そのままお腹に額を擦り付けてくる。包容力のあるいつもの笑顔とは少し違う、朝だけの甘えん坊な姿だ。
「……もうちょっと、こうしてていい?」
「いいけど、お腹減らない?」
「ふふ、減るけど……〇〇の体温が気持ちよくて、離れたくないんだもん」
いろはは顔を上げると、にこっと満開のひまわりのような笑顔を咲かせた。その笑顔を見るだけで、〇〇の胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ねえ、今日はお休みでしょ? 何か予定あったっけ」
「ううん、特にないよ。二人で家でゆっくりしようって話してたじゃん」
「そっかぁ。じゃあ、急がなくていいね。……んーっ!」
いろはは大きく背伸びをすると、パッと布団を跳ね上げた。
「よし! 朝ごはん作ろっか、〇〇!」
二人で並んで立つキッチンは、少し狭いけれど心地がいい。
洗面所で顔を洗い、髪を整えてきた二人は、色違いのエプロンを身につけた。〇〇はシンプルなネイビー、いろはは淡いイエローのチェック柄だ。
「今日の朝ごはん、何にする? 冷蔵庫にはお豆腐と、たまご、あとしめじがあるよ」
いろはが冷蔵庫を開けて、ひょっこりと顔を出しながら尋ねてくる。
「じゃあ、お味噌汁と玉子焼きにしようか。俺、お味噌汁の出汁とるよ」
「本当? じゃあ私は玉子焼き焼くね! 〇〇、今日の玉子焼きは甘いのと、しょっぱいの、どっちがいい?」
「うーん……いろはの作った甘い玉子焼きが食べたいな」
「了解っ! 任せて!」
いろはは嬉しそうに胸を張り、ボウルに卵を割り入れ始めた。シャカシャカとリズム良く卵を溶く音が、トントンとお味噌汁の具材を切る包丁の音と重なる。
「ねえ〇〇、覚えてる? 高校生のとき、私が初めて〇〇にお弁当作ったときのこと」
いろはが懐かしそうに目を細めながら言った。
「覚えているよ。玉子焼きがちょっと焦げてて、形も崩れてたやつだろ?」
「あーっ! ちょっと、そこまで詳しく覚えてなくていいのに! あのときは緊張して手が震えてたんだから!」
「でも、すげー嬉しかったよ。美味しかったし」
「……もう、そういうことをサラッと言うんだから」
いろはは照れくさそうに笑いながら、フライパンに油を引いた。ジュワッという心地よい音がキッチンに広がり、香ばしい卵の匂いが立ち込め始める。
「はい、お味噌汁できたよ。豆腐としめじと、ネギも入れた」
「わぁ、美味しそう! こっちも玉子焼き焼き上がったよ。綺麗に巻けた!」
お気に入りのお皿に、黄色く焼き上がった玉子焼きと、ほかほかの白いご飯、湯気が立つお味噌汁、そして昨日の残りの漬物が並べられた。
二人でテーブルを挟んで座り、手を合わせる。
「「いただきます」」
箸をつけ、玉子焼きを一口食べた〇〇は、思わず笑みをこぼした。
「うん、美味しい。ちょうどいい甘さだ」
「本当? 良かったぁ。〇〇がおいしいって食べてくれる顔を見るのが、私、世界で一番好きなんだよね」
いろははお味噌汁を一口すすると、「ふぅ」と幸せそうな溜息をついた。
「上京して、こうやって二人で朝ごはん食べられるようになって、本当に良かったなっていまだに思うの。高校のときは、放課後にちょっと会うだけでも『帰りたくないなぁ』って思ってたでしょ?」
「そうだな。あの頃は、ずっと一緒にいられる未来がすごく遠くに思えてた」
「うん。だからね、今こうやって『おはよう』って言えて、一緒にご飯食べてる時間が、夢みたいに幸せなんだよ」
いろはは愛おしそうに〇〇を見つめ、優しく微笑んだ。
特別なごちそうではない。高級なレストランでもない。
けれど、二人で「美味しいね」と言い合いながら囲む食卓には、何物にも代えがたい温もりがあふれていた。
朝食を終え、食器を二人で手際よく洗った後は、家事の時間だ。
「よしっ、今日はお天気もいいし、お布団干して、部屋中ピカピカにしよう!」
いろはが腕まくりをして気合を入れる。
「じゃあ俺、掃除機かけるよ。いろははコロコロでラグのホコリ取ってくれる?」
「はーい! 隊長、了解です!」
敬礼してみせるいろはのお茶目さに笑いながら、〇〇は掃除機のスイッチを入れた。
ブーンという重低音が室内に響く。〇〇がリビングの隅から丁寧に掃除機をかけていくと、いろははベランダで敷布団をパンパンと叩いていた。
「〇〇ー! お布団、太陽の匂いしてきたよー!」
ベランダからひょっこり顔を出したいろはが、大声で呼びかけてくる。風に揺れる洗濯物と、その奥で見える彼女の笑顔が、まるで一枚の絵画のように美しい。
「転ばないように気をつけろよー!」
〇〇が声をかけると、「大丈夫だよー!」と元気な返事が返ってきた。
リビングの掃除機がけが終わり、スイッチを切ると、室内が一気に静かになった。〇〇が汗を拭っていると、部屋に戻ってきたいろはが、後ろからそっと抱きついてきた。
「むぎゅ」
「うわっ……びっくりした。どうしたの、急に」
「ふふ、なんとなく。〇〇がカッコよく掃除機かけてたから、ご褒美」
「ご褒美って、抱きつくだけ?」
「えー? じゃあ、もっといいご褒美がいい?」
いろはは〇〇の背中に顔を押し当て、楽しそうにクスクスと笑った。彼女の体温と、洗いたての柔軟剤のいい香りがふわっと広がる。
「ねえ、〇〇」
「ん?」
「私ね、〇〇と一緒に家事してる時間も大好きなの」
いろはは抱きしめる力を少し強めて、静かに語り出した。
「一人暮らししてたときはね、掃除も洗濯も『しなきゃいけないめんどくさいこと』だったの。でも、〇〇と一緒だとね、『二人で暮らす部屋をキレイにしてる』って思えて、すごく楽しいの」
「いろは……」
「〇〇が掃除機かけてくれて、私が洗濯物干して、二人で『綺麗になったね』って笑い合う。そういう何気ないことが、全部私の宝物なんだよ」
〇〇はクルリと振り向き、いろはの華奢な肩を抱き寄せた。
「俺もだよ。一人だったら、こんなにちゃんと暮らせてない。いろはがいてくれるから、ここが俺たちの『家』になるんだ」
「〇〇……」
いろはの瞳がうっすらと潤み、愛おしそうに〇〇の胸に顔をうずめた。
ぽかぽかと温かい日差しがリビングを満たし、二人の影を優しく重ね合わせていた。
「ねえねえ、今日の夜ご飯、何にする?」
午後になり、二人は近くのスーパーマーケットへと買い物に出かけた。
手を繋ぎながら、ゆっくりと歩くいつもの散歩道。上京したばかりの頃は右も左も分からなかったこの街も、今ではすっかり二人の生活の舞台になっていた。
「暑くなってきたし、サッパリしたものがいいかな。……ハンバーグとかは重い?」
「ううん! ハンバーグいいね! じゃあ、和風おろしハンバーグはどう? 大根おろしとシソをたっぷり乗せて!」
「いいね、それ。決定」
スーパーの店内に入ると、ひんやりとした冷気が肌を刺す。二人はカゴを一つ持ち、野菜売り場へと向かった。
「大根大根……あ、これ立派!」
いろはが大根を一つ持ち上げ、真剣な目つきで見定めている。
「〇〇、どっちがいいと思う? こっちの太い方と、長い方」
「うーん、みずみずしそうなのは太い方かな」
「よし、じゃあ太い方に決定! 〇〇の目利きを信じます!」
カゴに大根をポイと入れ、次はひき肉売り場へ。
いろははいつも、二人分の食費を計算しながら丁寧に買い物をする。しっかり者で、けれど楽しそうに食材を選ぶ彼女の横顔を、〇〇は隣で愛おしく眺めていた。

「あ、〇〇! 見て見て!」
お菓子売り場の近くを通ったとき、いろはが子供のように目を輝かせて指をさした。
「これ、地元のスーパーによく売ってたアイス! 東京にもあったんだね!」
「本当だ。懐かしいな、高校のとき、部活帰りに買って二人で半分こして食べたやつだ」
「そうそう! 懐かしいなぁ……買っていこ? 今日の夜、一緒に食べようよ」
「うん、買おう」
カゴの中に、小さな思い出のアイスが二つ収まった。
レジを済ませ、重くなった買い物袋を〇〇がひょいと持ち上げる。
「あ、〇〇、半分持つよ! 重いでしょ?」
いろはが心配そうに手を伸ばしてくる。
「大丈夫だよ。これくらい男の仕事。いろはは手ぶらでいい」
「もう……カッコつけちゃって。じゃあ、重い袋の代わりに、こっち持つね」
いろはは〇〇の空いている方の手に、自分の手をギュッと絡めてきた。指と指を交差させる恋人繋ぎ。
「これなら重くないでしょ?」
「うん。全然重くない」
ふたりで顔を見合わせ、自然と笑いがこぼれる。
夕方のやわらかな風が、二人の頬を撫でていく。袋に入った食材と、繋いだ手の温もり。特別なイベントは何一つないけれど、この日常の帰り道こそが、二人にとって一番の贅沢だった。
部屋に戻り、二人は夕飯の準備に取りかかった。
静かな夕暮れの室内。キッチンにはトントントンという大根をおろす音が響き、フライパンからはハンバーグが焼き上がる香ばしい匂いが漂っている。
「〇〇、大根おろし、水気絞っておいてくれる?」
「了解。ハンバーグ、いい色に焼けてきたね」
「ふふ、美味しそうでしょ? 隠し味に、少しだけお醤油入れてみたの」
お皿に、ツヤツヤと肉汁が溢れるハンバーグを盛り付け、その上にたっぷりの大根おろしと刻んだ青じそを乗せる。ポン酢を回しかけると、爽やかな香りが広がった。
副菜には、昼間買ったトマトとキュウリの塩昆布和え。そして、ワカメとお豆腐のお味噌汁。
「できたー! 和風おろしハンバーグ定食の完成です!」
テーブルに料理を並べ、電気を少し暖色系の明かりに変える。落ち着いた雰囲気が部屋を包み込む。
「「いただきます」」
ハンバーグに箸を入れると、じわっと肉汁が染み出してくる。大根おろしと一緒に口に運ぶと、肉の旨味とサッパリとしたタレの味が広がり、最高の味わいだった。
「……うまい! すごいな、いろは。お店のやつより美味いよ」
「本当!? やったぁ! 〇〇にそう言ってもらえるのが、一番嬉しい!」
いろははパッと表情を輝かせ、自分もハンバーグを口に運んだ。
「ん〜っ! 美味しい! 自画自賛だけど、大成功だね!」
美味しそうにご飯を食べるいろはを見ながら、〇〇はふと、胸の中に温かい感情が込み上げてくるのを感じた。
「ねえ、いろは」
「ん? なぁに、〇〇?」
モグモグと頬を膨らませながら、いろはが首をかしげる。
「俺たち、上京して……こうして一緒に暮らし始めて、本当に良かったな」
急な言葉に、いろはは一瞬フリーズし、それからゆっくりと箸を置いた。
「急にどうしたの?」
「いや……今日一日、朝起きてから、朝ごはん作って、掃除して、買い物行って、夕飯食べて。何一つ特別なことなんてしてないのに、すごく幸せだなと思って」
〇〇の言葉に、いろはの目が少しうるむ。
「……うん。私も、全く同じこと思ってた」
いろはは優しく微笑み、テーブル越しに〇〇の手の上に自分の手を重ねた。
「あのね、〇〇。私、東京に来るとき、ちょっとだけ不安だったの。地元を離れて、二人でちゃんとやっていけるのかなって」
「そうだったの?」
「うん。でもね、〇〇と過ごす毎日の中で、そんな不安、すぐ消えちゃった。朝『おはよう』って言って、夜『おやすみ』って言える相手が〇〇で……本当に幸せ。何気ない毎日が、私にとって一番の宝物なんだよ」
いろはの目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。けれど、その顔は紛れもなく幸せそうな笑顔だった。

「あ、泣いちゃった……うれしくて、涙出ちゃった」
「いろは……」
〇〇は立ち上がり、いろはの隣に移動して、彼女の体を優しく抱きしめた。
「泣かないで。これからも、ずっとこうやって過ごそう。何十年経っても、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、二人で美味しいご飯食べて、笑い合っていこうな」
「うん……! うん……! ずっと、ずっと一緒だよ、〇〇……!」
いろはは〇〇の胸に顔を埋め、嬉しそうに頷いた。
夕食の後、二人で買った思い出のアイスを食べながら、テレビを見て笑い合った。
お風呂に入り、髪を乾かし合い、電気を消してベッドに入る。
「〇〇、今日も一日、楽しかったね」
暗闇の中で、いろはの優しい声が聞こえる。
「ああ、楽しかった。明日も、いい日にしよう」
「うん。……おやすみなさい、〇〇。大好きだよ」
「おやすみ、いろは。俺も、大好きだよ」
そっと手を繋ぎ、互いの体温を感じながら、二人は深い眠りへと落ちていった。
特別なドラマなんてなくてもいい。豪勢な暮らしなんていらない。
互いを思いやり、寄り添い合える「今」がある。
二人で紡ぐ何気ない毎日は、これからも変わることなく、温かな光で満たされ続けていくのだから。
