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敬老パスの旅、十八区をめぐって 横浜散歩 #17保土ヶ谷宿・洪福寺松原商店街

10月4日、月曜日。台風一過の快晴である。敬老パスで市営地下鉄と路線バスを乗り継ぐこの旅も、残すところ保土ヶ谷区と神奈川区の2区となった。今日はそのうちの保土ヶ谷区を歩く。正直に言えば、保土ヶ谷という土地に対する私の印象は「坂道以外何もない」というものである。かつて2年ほど横浜で勤務した時期、保土ヶ谷の坂道ばかりを車で走っていた記憶があるが、坂の上り下り以外の記憶がまるでない。あまり期待しないで出かけたのだが、古くから栄えた場所というのは、歩いてみればやはり何かを隠し持っているものだった。

あざみ野からブルーラインで横浜駅へ。西口に出ると、シェラトンの高層が朝の光を受けて立っている。以前の職場はこのすぐ近くだったが、ここに来るのは実に20年ぶりである。バスターミナルの向こうに横浜天理ビルが見え、これがなんとも懐かしい。毎日視界の隅にあった建物は、20年経っても一目でそれとわかる。21番乗り場から神奈中バス横17系統・東戸塚駅東口行きに乗り込んだ。

保土ヶ谷町2丁目で降りるつもりが、車内アナウンスの「次は樹源寺前」という一言に釣られて、予定外の寄り道から今日は始まった。国道1号を渡って旧東海道に入ると、すぐ脇を東海道線と横須賀線がひっきりなしに走り、線路の向こうの急斜面には住宅がびっしりと貼り付いている。いかにも保土ヶ谷な眺めである。その坂下の樹源寺は、行ってみると意外に立派な寺であった。本堂かと思って近づいた建物は清正公堂で、中ではヨガらしきレッスンの最中である。加藤清正を祀る堂で現代の女性たちが体を伸ばしているというのも、寺の使われ方の現在形であろう。境内には滝が2筋落ち、池には鯉がたくさん泳いでいた。坂しかないと思っていた区の、最初の一歩からこれである。

国道1号に戻る。この先が箱根駅伝の権太坂だ。1年前の秋、#6の戸塚宿散歩は、この坂を上りきった境木から歩き始めた。武蔵と相模の国境の立場で、旅人が牡丹餅を食べたという、あの境木である。つまり今日の私は、あのとき越えた坂の江戸側の登り口に立っている。この散歩シリーズも17区目ともなると、かつて点として訪ねた場所が別の日の散歩と地面の上でつながり、一本の線になる、ということが増えてきた。今日は保土ヶ谷という土地の上で、その線が何本も交差することになった。

瀬戸ヶ谷橋を渡り、帷子川の支流・今井川に沿って歩く。川沿いには保土ヶ谷宿の松並木が復元されている。水は澄み切って大きな鯉が2匹、カモもたくさんいて、コバルトブルーのカワセミまで飛んでいた。宿場の松並木の下をカワセミが飛ぶというのは、江戸の旅人も見なかった贅沢かもしれない。外川神社の名木古木のケヤキを見上げ、社前の仙人橋を渡る。

上方見附跡に着く。ここが保土ヶ谷宿の京都側の出入り口で、ここから江戸方見附まで19町、約2キロメートルが宿場である。程ヶ谷宿は東海道五十三次の4番目、武蔵国最西端の宿場町であった。次の5番目が戸塚宿だから、私は宿場を一つ逆打ちで遡ってきたことになる。一里塚跡、茶屋本陣跡、旅籠屋・本金子屋跡、脇本陣が水屋、藤屋、大金子屋と続き、苅部本陣跡。天皇や将軍も立ち寄ったという本陣の跡には、今にも倒れそうな古い門が一つ残るきりで、往時を偲ばせるものはほとんど何もない。それでも旧東海道そのものには、今も車と人の活発な往来がある。建物は消えても、道だけは現役なのである。

昼食は宿場の中ほどの「櫻井中華そば」で、中華そば(醤油)850円。本陣や旅籠の並んだ宿場町で、今の旅人が暖簾をくぐるのはラーメン屋である。可もなく不可もなく、軽く腹を満たして散歩を再開した。

さて、ここからが今日の一大事である。旧東海道からいわな坂に折れた。保土ヶ谷に来たからには、坂道の一つくらいは登らないと格好がつかない。この急坂が、昔のかなさわ・かまくら道だという。かなさわ道と聞いて足が止まった。昨年11月、#8で上大岡から笹下へ辿った金沢道の、江戸側の起点が、この坂だったのだ。

坂の途中、急な階段の上にお堂が見える。御所台地蔵尊と呼ぶそうで、これに興味を持ったのが運の尽きであった。石段は湧き水で濡れて黒光りしている。「これは滑るな」とは登りながら思っていた。案の定、参拝を終えて下りにかかった一歩目で、足が宙に消えた。手摺りを掴もうと伸ばした手が、その瞬間ためらった。コロナである。他人の触った鉄の棒を握ることを、この一年で体が本能的に避けるようになっていた。掴まなかった。その判断が命取りで、あとはもう為すすべもない。傾斜35度の石段の脇の植え込みを、体がスローモーションのように2回転しながら、道路まで転げ落ちていく。妙なもので、落ちている最中は不思議と冷静で、「ああ、なんとも締まらない」などと考えていた。

道路に叩きつけられて、ようやく止まった。しばらく仰向けのまま動けない。月曜の午前、坂道には人影もなく、聞こえるのは自分の荒い息と、遠くを走る東海道線の音だけである。恐る恐る手足を動かしてみる。動く。起き上がってみる。立てる。打撲も骨折もない。手首に擦り傷が6ヶ所、それだけであった。何より、首から下げたカメラが無傷だったのが有難い。感染を避けようとして石段を転げ落ちる、というのも今日的な間抜けだが、滑り込みセーフ、というやつである。ただし全身は泥だらけになった。着替えなどあるはずもなく、この老人は泥まみれのまま、なおも宿場を歩き続けることになる。

泥だらけで辿り着いた御所台の井戸は、政子の井戸とも呼ばれる。頼朝の妻・北条政子がこの水を化粧に使ったと伝わり、江戸時代以降も、天皇や将軍が苅部本陣に立ち寄った際にはこの井戸の水で料理をしたという。先ほど宿場で見た本陣と、坂の上のこの井戸が、水を運ぶ人の足で結ばれていたわけだ。坂を登り詰めると北向地蔵がある。享保2年、1717年に旅人の道中安全を祈願して建立されたそうで、堂々として頼りになりそうな面構えである。もっとも、その道中安全の地蔵に辿り着く手前で転げ落ちた身としては、拝む順序が逆であったと、泥まみれの手を合わせて苦笑するほかない。

いわな坂を戻る。急峻な崖地に貼り付く住宅群は、これぞ保土ヶ谷という眺めである。転んだ地蔵尊の少し下の福聚寺で、トイレを借り、泥だらけの手と顔を洗わせてもらった。寺というものは、昔から旅人のこういう難儀を黙って引き受けてきた場所なのだろう。

国道1号を横切り、まっすぐ進むと上岩間踏切に出る。東海道本線、上野東京ライン、湘南新宿ライン、横須賀線と、遮断機はなかなか上がらない。渡った先に金沢横丁道標四基が立っていた。旧東海道から金沢・浦賀往還が分かれる追分で、円海山、杉田、富岡の寺社へ向かう旅人のために建てられた道標である。#8の金沢道、#9で歩いた金沢の海軍史跡――あの南へ延びた散歩は、みなここから始まっていた。1年前にあちこちで訪ねた場所の、その出発点が、実はこの四本の石だったのである。

再び旧東海道を辿る。高札場跡、問屋場跡、助郷会所跡と、宿場運営を支えた施設の跡が案内板で続く。建物は何も残っていないが、案内板だけは丁寧に立っている。民家のシャッターには初代広重の「程か谷 新町入口」が描かれていた。絵の中の新町橋、すなわち帷子橋は、河川改修で場所が変わり、旧橋は天王町駅前に移されて保存されているという。この後、訪ねることになる。

旧中橋跡を過ぎると、「古東海道 旧保土ヶ谷宿跡」という標識が現れた。今の旧東海道よりさらに古い、江戸初期の古東海道の宿場があった場所だという。ここへ来て、私はようやく合点がいった。この区には、古東海道、旧東海道、国道1号という三代の東海道が折り重なっているのである。道が付け替えられるたびに、宿場も動き、橋も動いた。坂しかないと思っていた土地は、坂ではなく、道の地層でできていたのだ。

古東海道沿いの大蓮寺は、日蓮上人が泊まった家を改修した法華堂の地に慶長13年、1608年に創建されたという。境内には徳川家康の側室・おまんの方お手植えと伝わるざくろの木が、たわわに実を付けていた。#5の瀬谷で、日蓮が一泊しただけで住職を改宗させた妙光寺の話を聞いたが、この人はどうも、泊まった先々に寺を一軒ずつ残していく困った客であったらしい。

町名表示に「神戸町」とある。横浜の神戸かと身構えたら「ごうど」と読むそうで、旧伊勢神宮領だという。実は私の故郷も伊勢神宮領で、こちらは「かんべ」と読む。同じ神戸の字が、伊勢の荘園の記憶を横浜と私の故郷の両方に残していたわけで、泥まみれの散歩の途中で思いがけず故郷に出くわした。その神戸町の神明社が、よくある神明社かと侮っていたら、とんでもない。旧伊勢神宮領榛谷御厨の総鎮守で、天禄元年、970年の創建、横浜市内でも指折りの古社だという。本社の周りに摂末社がずらりと居並ぶさまは、小さな神々の宿場のようであった。伊勢の総鎮守が、横浜ビジネスパークの高層ビルの隣で、千年しれっと続いている。

古東海道に戻ると、相州道追分の庚申堂があった。金沢横丁といいこの追分といい、保土ヶ谷宿は道の分かれ目だらけである。宿場とは、泊まる場所である前に、明日どちらへ行くかを決める場所だったのかもしれない。

帷子橋、すなわち新町橋の跡に着く。広重の描いたあの橋は、天王町駅前公園の中に移されていた。川のない駅前広場にぽつんと架かる橋は、高知のはりまや橋と良い勝負の肩透かしである。今年6月、#15で若葉台の水源から辿った帷子川の、これがその下流だ。橘樹神社に参り、江戸方見附跡に着く。上方見附からここまで19町、泥だらけながら宿場を端から端まで歩き通したことになる。

その足で洪福寺松原商店街に向かった。横浜橋通商店街、六角橋商店街と並ぶ「横浜の三大商店街」だという。横浜橋は昨年7月、#3で歩いた。魚幸水産の店頭には安い魚が山と積まれ――ただし、よく見ると一匹ずつがちょっと小ぶりである。このあたりの呼吸が横浜の下町らしい。月曜の午後にこの人出だから、三大商店街の看板は伊達ではないらしい。名の元になった洪福寺は、本堂が鉄筋コンクリート造で、こちらは少々ありがたみに欠けた。

洪福寺バス停から相鉄バスで横浜駅西口に戻る。ジョイナスの地下街は懐かしいが、泥だらけの風体ではさすがに店に入るわけにもいかず、素通りするほかない。市営地下鉄でブルーラインに乗り、あざみ野で晩酌のつまみに崎陽軒のシウマイを買った。確かな美味しさ、横浜市民の友である。歩数計はたいした数字を示していないのに、ステイホームで体が鈍ったのか、それとも転落のせいか、今日はずいぶん草臥れた。

保土ヶ谷は、坂の町ではなかった。歩いてみればそれは、古東海道と旧東海道と国道1号が折り重なり、金沢道と相州道の追分が刻まれ、伊勢神宮領の千年の鎮守が立ち、政子の井戸の水が本陣の膳に上った、道が幾重にも積み重なった町であった。坂だと思っていたものは、その道々を上り下りするための、通り道にすぎなかったのだ。おまけに私は、その道の一本の石段から見事に転げ落ち、泥まみれのまま宿場を歩き通した。江戸の旅人も、雨の日にはこの坂で同じように尻餅をついたに違いない。道中安全の北向地蔵は、そういう間の抜けた旅人を、300年ながめてきたのである。これで17区。残るは神奈川区、ただ一つになった。

(2021年10月4日)

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