小樽紀行 前編 チャレンカの小道
2022年6月1日、朝5時半に横浜の家を出た。事故渋滞を見込んで早めに出たのだが、道は空いており、拍子抜けするほど早く羽田に着いた。
1年7ヶ月ぶりの空である。この間に北海道行きを二度計画し、二度とも取りやめた。三度目のこの旅は、特典航空券の権利が落ちる寸前に、日程を無理やりこじあけたものであった。行きたいから行くのではなく、間に合わせるために出る。旅の始めとしては、あまり格好のいいものではない。
8時発の便は搭乗率7割ほどで、定刻の10分前に新千歳へ降りた。天気予報は雨だったが、雲の切れ目に青がのぞいている。
空港で車を借り、千歳インターから道央自動車道に乗った。当初は2泊3日のつもりが、諸事情で1泊に縮まっている。1泊で積丹半島の先端まで往復しようというのだから、車でなければ話にならない。札幌の西を回り、後志自動車道の終点の余市で降りた。所要3時間と踏んでいたが、2時間で着いてしまった。北海道の道は広く、まっすぐで、内地の感覚でいると時間が余る。
余市駅前を過ぎ、海沿いの道を北へ取る。積丹半島である。地名はアイヌ語のシャク・コタン、すなわち夏の村を意味する語から来ているという。裏を返せば、冬はそう易々と人の住める土地ではなかった、ということであろう。古平、美国と漁港が続き、その先にも名を知らぬ岬が幾重にも海へ突き出している。前方に積丹岳が立ち、山裾を白樺の原生林が覆っていて、その中を道が一本、定規で引いたように貫いていた。
正午きっかりに、漁師の店 中村屋に着いた。三色丼を頼む。3,300円。ウニはムラサキウニであった。バフンウニは、まだ漁が始まっていないという。積丹でバフンウニが上がらない時期には、ムラサキウニが出る。それが、この土地の当たり前の順序であるらしい。
旨い。旨いのだが、目の前にあるものより、まだ上がっていないほうが気になる。
島武意海岸に寄った。日本の渚百選に選ばれているという。駐車場の脇のマンホールの蓋に、積丹半島の形と雲丹の絵柄が鋳込まれていた。この土地が何で知られているかは、鉄の蓋を見ればわかる。
神威岬に着いたのは、午後もだいぶ回ってからである。駐車場から見ると、細い尾根が海へ向かって長く伸びていた。尾根の上を、遊歩道が一本、先端まで続いている。チャレンカの小道という。
その入口に、門が立っている。女人禁制の門という名が、いまも掲げてあった。強い風の日には閉じられるのだそうで、この日は開いていた。閉じるときは、男にも女にも等しく閉じる。

源義経を慕ったアイヌの首長の娘チャレンカが、後を追ってここまで来たものの果たせず、身を投げて岩になった。それが沖に聳り立つ神威岩である、という伝説が残っている。以来この岬は女人禁制の地とされ、女を乗せた船は沈むといわれた。禁が解かれたのは1855年、幕府が蝦夷地の開拓に本腰を入れはじめた年である。
門をくぐって歩き出すと、すぐに風が来た。尾根の両側は断崖で、下から吹き上げてくる。一歩前へ出るたびに、風が一歩ぶんだけ押し返してくる。海の色は、晴れていればさらに濃かろうと思われる青で、地元ではこれをシャコタンブルーと呼ぶらしい。沖の神威岩は、遠目には黒く、細い。

道の脇にはハマナスが咲き、エゾカンゾウが黄色い花をつけていた。妻はその一つ一つの前で足を止める。私は腕時計を見ていた。
禁が解けて167年になる岬を、妻はゆっくり歩いている。
海の向こうはロシアである。そう思って眺めると、辺境という言葉が急に実質を帯びてくる。
岬を降りたときには、日がだいぶ傾いていた。妻はまだ、道端の花を振り返っていた。
余市に着いたのは15時15分であった。ニッカウヰスキーの蒸溜所は、工場見学の最終受付を15時で締める。15分の差である。門の中に赤い屋根の建物がいくつも並んでいるのが見えたが、今日はそこまでであった。門の外から屋根だけを眺めて、車に戻った。

国道5号を小樽へ向かう。蘭島の海水浴場の向こうに忍路半島の兜岬が突き出していて、これもまた荒々しい。16時に小樽のホテルに着いた。小樽は初めてである。
一息入れて、街へ出た。中央橋から運河を見下ろすと、両岸に石造りの倉庫が並んでいる。港へ向かう道を南へ辿ると、古い倉庫をそのまま駐車場に使っている例がいくつもあった。堺町本通りには明治から大正の商家が残り、なかでも旧久保商店は、1907年の建物が傾いて折れ曲がりそうな姿のまま立っている。
倒れそうなものが倒れずにいると、なぜか目が離せない。
夕食は「よし」という寿司屋にした。カウンターが7席だけの、観光客を当て込んでいない店を探して予約を入れてある。
付き出しはマグロの甘辛煮と、シャコの桜煮であった。酒は地元の二世古の純米原酒を頼んだ。器がすべてガラスなのは、この街らしい。縁が灯を拾って、台に薄い輪を落としている。網走のキンキ、日高のボタンエビと続き、そして小樽のムラサキウニが出た。
昼と同じ種である。店主は生粋の小樽っ子だという。昼の丼の話をすると、手は止めずに、少しだけ笑った。
店を出て、日銀通りから色内大通りへ歩いた。北のウォール街と呼ばれる一帯である。明治の末から昭和の初めまでに建った銀行が、数百メートルの通りに石の壁を並べている。なかでも旧日本銀行小樽支店は1912年の築で、設計は辰野金吾ら三人の手になるという。
なぜ人口十数万の港町に、これだけの銀行が石を積んで並んだのか。1880年に手宮と札幌のあいだに鉄道が通り、石炭が運ばれるようになったからである。石炭に木材、海産物の缶詰が小樽から積み出され、それを商う金がここへ集まった。金は建物の形をとりたがるものらしい。
長年、金融の世界に身を置いた。支店というものは、採算が合わなくなれば閉じる。私のいた間も、開く話より閉じる話のほうがずっと多かった。数字は帳簿の上で消えるが、石を積んで建てたものは、そう簡単には消えてくれない。夜の通りに人影はなく、その壁だけが街灯を返して白く光っていた。

浅草橋の上は気温13度で、上着がないと肌寒い。運河の水面に倉庫の灯が長く伸び、風でゆっくり崩れては、また繋がった。艀の通わなくなって半世紀になる水である。

その橋の上に立って、私は昼間の岬の風のことを考えていた。
(2022年6月1日)
