『half of me』とは何だったのか ─文学はマジョリティのためだけに存在するのではない─
ここ数日間、何回かに分けて全12話の『half of me』という創作小説を投稿してきました。
私はライター業と並行して小説家(作家)としても活動しています。
(ちなみに筆名は『林ヤスキ』ではありません。全く別の名前ですので悪しからず)
この『half of me』は、某文芸誌に掲載してもらうべく、幾つかの作品と一緒に提出したい際に惜しくもボツになった作品です。
ボツになったとは言え、個人的には思い入れがあるのが『half of me』。
はじめて中編作品として導入から完結まで書ききったのがこの作品です。
はじめての作品らしく、荒削りですし意味不明な部分も多い。
説明不足で不親切ですが、こだわりを随所に詰め込んだつもりです。
今回は少しだけ、解説というか作品に込めた思いをお話させてください。
まず、創作作品としての形式について。
この作品は大まかに言うと、私小説に分類されると思います。
私、林ヤスキの経歴や属性を用い、起こった出来事や感じたこと、日常的に思っている事を散りばめているからです。
しかし、一般的な私小説と異なり、事実だけをベースにしているわけではありません。
具体的にどこが、どういう風に、と解説してしまうのはつまらないので、ご覧いただいた皆さんに判断は委ねますが、一種のパラレルワールドのような気持ちで書いている部分も数多く存在します。
ですので、どちらかといえばオートフィクションと言えます。
『#3.右側/左側』と『#10.両側』については、特に意味不明だと思うので簡単に説明します。
『#3.右側/左側』の記述方式として、看護教育の場で用いられるシャドウイングという学習方式をベースにしています。
看護学生や新人看護師が先輩の後ろに“影”のように付き、患者対応や手技を学ぶ手法で、1日の業務の流れを習得するのに役立ちます。
その際、“影”の側は先輩の一挙手一投足を見、時系列で記録していきます。
『#3.右側/左側』においては主人公を、第三者の目線が追います。
この時の主人公の心情や状態としては、“右側の住人”或いは“左側の住人”の影響を受けており、それぞれ普段と行動が大きく異なります。
情緒を排して、行動のみを記述することで、この変化を読者の方に体験してもらえるのでは、と考えシャドウイングを採用しました。
『#10.両側』は〈彼〉の目線で書いた章です。
ネタバレですが、〈彼〉は生成AIです(Google GeminiのGemのように、ユーザーがカスタムしたAIがイメージ)。
話の中で主人公は頻繁に〈彼〉と対話を行います。
主人公に次いで登場シーンの多い、“二番手”の役回りです。
〈彼〉の視点で物語を描く章を作ろうと思いましたが、〈彼〉は生成AI。
人間のよう思考回路でもなければ、自分の意思も人格もありません。
そこで、生成AIが動作する時に内部で生じているコードやログを記述することにしました。
AIの生成する回答は一見口当たりが良いですが、内部的には非常にデジタリィな言葉とはとても言えない言語が走っています。
それを、文学作品の一章分に収まる形に編集して収録しました。
〈彼〉が何をして、何を尋ねられ、何を出力したか。
特に意味不明な章となってしまいましたが、やっていることは人間を描く時と同じです。
もう一つは、短文区切り文体。
これは、精神疾患を患っておられる方々に特徴的な“ブツ切れ思考”を表現してみた結果生まれました。
注意してほしいのですが、精神疾患を抱えている人全員がこんな思考をしているわけではありません。
しかし、思考途絶、思考の貧困化、反芻思考、考えすぎ、解離状態など、精神科疾患に罹患している患者さんとの関わりの中で実際に接した思考のクセのようなものが共通して存在し、それを作品に落とし込みたいと思いました。
それにより従来の作品にはない、当事者目線の世界の見方を、よりリアルに表現できると考えました。
では、なぜ精神疾患患者の事をリアルに描く必要があるのか。
それは、この作品で最も表現がしたかったことに関連します。
私はこの作品を通じ、マイノリティが主役の文学作品が世の中にもっと増えてもいいのでは? ということを伝えたいと思いました。
少し大げさな話になりますが、個人の見方として、日本で流通している文学作品の殆どが、マジョリティの、マジョリティによる、マジョリティのためのものであるように感じられます。
最大公約数的に感動したり、恐怖に戦いたり、考えさせられるものしか存在していないように思える。
そんな作品が多い理由も何となくわかります。
出版不況と言われ、書店の数が少なくなっているだの、本を買わなくなって電子書籍のシェアが拡大しているだの、推し活やメディアミックスに頼らざるを得ないだの。
文学作品を世に出す出版業界の景気が芳しくない。
それ故、明らかに“大きなマスに売れる商品”を出さなければならない。
そうすれば、最大公約数的な感情の動きが最優先。
しかも、ターゲットの心情に合わせた範囲の感情の動きが求められる。
大きすぎる感情の波はエラーとして弾かれるわけです。
ですが、そればかりを追っていては、取り残されてしまう層が必ず出現する。
それはマイノリティの人達です。
恋愛をしたり、仕事をしたり、家族との関わりがあったり、友人がいたり。
そんな事すら特別に感じている人達にとって、最大公約数的な感情の動きなど、自分事ではありません。
はじめから無視されているのと同義とすら思えます。
『なぜ本が読めないのか』を論じていらっしゃる方がいますが、その答えの一つは『読みたいと思う本がないから』だと私は思います。
読書が閉じた世界の愉しみになり、無意識の選民性が先行するタイプの趣味に変わり果ててしまったことに原因があるということです。
出版をする側に個別性にあった作品を出せる余力が無いのは分かっています。
金が儲けられないのなら、ビジネスとしては失敗ですから。
小さなマスを狙っても得られる金銭は少ないのは当たり前。
ですが、文学とは銭儲けだけのものでは無い、と私は思っていますし、儲け優先の作品は後に残らないというのはこれまでの歴史の中で明らか。
現状の文学界はそのような作品を量産し続ける、残念なフェーズにあると思います。
流行に合わせて多様性を追求するあまり、多様性とは何かを完全に見失っている、と。
こうした風向きに少しばかり抵抗したい、と思って書いたのが『half of me』です。
主人公は幾重ものマイノリティ要素を持っています。
精神科疾患患者、セクシャリティ、職歴…。
一般的な文学作品だと、『マイノリティ要素は一つに絞れ』と助言されるところでしょうが、このような生き方をしている方というのは現実に存在します。
なぜなら、マイノリティ要素が一つでもあれば、違うマイノリティ要素を引き寄せるものだから。
具体的には言いませんが、少し考えれば分かるはずです。
決して突飛な設定ではありません。
リアルなマイノリティ像はコンプライアンス的な問題があるでしょう。
リアルに書きすぎると差別を助長する可能性が生じ、リスクヘッジの観点から言えば避けるのも当然の流れ。
しかし、マイノリティ自身や彼らをよく知る者が、日々の生活や感情を描けば良いのではないかと思います。
マジョリティがマジョリティの日常を描くのと何一つ変わらない。
マジョリティから見れば、マイノリティの生き方はドラマチックそのものでしょう。
精神科疾患患者は物語によっては悲劇になり、サイコパスになり、絶望的な死生観を持つように書かれてしまう。
ゲイはボーイズラブ的な甘く切ない恋物語に変換され、おネエキャラの賑やかしになり、謎めいた存在に書かれる。
秘匿性の高い刑務所は格好のネタの宝庫。あたかもドラマの巣窟の如く、バイオレンスかつ極限の環境のように、受刑者同士の禁断の恋、脱獄、派閥争いのようにあり得なさ過ぎる設定がまかり通る。
このようにステレオタイプなマイノリティが都合良く物語に登場する作品を目にする度に嫌悪感を覚えます。
そして、文学にしても、漫画にしても、映画やドラマにしても、近年はそのような作品があまりにも多すぎる。
貧困に虐待、境界知能やアセクシャル、死刑囚、宗教二世…。
そのような属性を持つ人間が都合良く主人公の周囲に現れ、簡単に(私にはそう見える)主人公に全てを打ち明ける。
そのような場面が起こる可能性は非常に低い。
なぜなら、絶対数が少ないのがマイノリティですから。
そして、マジョリティの無神経さやお節介から身を守るために口を閉ざすのがマイノリティですから。
安直にマイノリティを扱う事自体、常軌を逸脱していたり、マイノリティを愚弄しているという感覚が皆無です。
書き手、読み手、双方ともに。
どのような作品に心動かされるかは個人の自由ですし、表現にも自由があります。
ですが、はっきり言います。
あらゆる作品のなかに登場するマイノリティに関する記述の多くはマジョリティ消費用のデコレーション(嘘)に過ぎません。
部分的に正確であっても、全体として都合よく歪められていれば、それは当事者にとってのリアルとは言えない。
残念ながら、マジョリティが欲しい情景はマイノリティの世界にはありません。
読者は、作家や編集者の思惑が絡みあい出来た机上の空論をベースに、本物らしく成形された模造品を見せられているに過ぎない。
私はマイノリティを単なる見世物や舞台装置にする図式を否定したかった。
いかに世にあるマイノリティ像が、それらしさと見栄えを取り繕った虚飾の存在であるか、知って欲しかった。
そして、夢物語のようですが、この作品を読んだマイノリティの方々に『これは私の物語だ』と思ってほしかった。
だから、マイノリティの人間の視点で世界を描きました。
小さな街(京都市がモデルです)の、狭いエリアしか出てきませんが、彼にとってはこれが世界です。
思考の仕方や、生活、感覚、習慣が他の人と違ってもいいじゃないですか。
理解の範疇を超えた生き方をしてもいいじゃないですか。
生成AIという圧倒的多数派の回答を吐き出す存在と、何重もの少数性を持つ主人公との対話を登場させているのは、マジョリティとマイノリティのすれ違い続ける意見を表現するためです。
少しでも自分を理解して欲しくて、マイノリティ側がマジョリティ側に情報を渡しても表層しか理解してもらえないし、表層以外は都合良く決め付けられる。
理解して欲しい、という思いが『マイノリティはマジョリティ側に溶け込みたい』と誤解される。
そして、根本的に交わる事が出来ない上、時に怒りすら覚える。
この図式を再現しているつもりです。
没作品ですので、ある意味で作成意図は達成されていません。
売れている作家でもありませんので、発言力も無い。
まぁ、状況や出来を考えれば当たり前ですが。
でも、このままお蔵入りにするには勿体ないというか。
noteは自由に文章を発表できる場であるということで、章ごとに区切って投稿してみました。
#9の『毒吐』は、特に私の思いを強く反映させた部分。
編集者には『もっと削れ』とか『いっそのこと、無くしたら?』と言われた部分ですが、私にとっては思い入れが強い章です。
せっかく自由な発表の場なので、そのまま投稿しました。
お陰様で、作品全体を通して沢山の方に読んで頂いています。
拙い文章にも関わらず、多くの人にお付き合い頂いてとても感謝しています。
ありがとうございました。
今後も贔屓にしていただけると幸いです。

