ブラジルに逆転負け?守田を呼んでいれば
※このコラムは森保監督の熱狂的な信奉者の方は精神衛生上よくないので、絶対に読まないでください。
守田がいれば
――あの交代劇が、私たちを狂わせた
真夏の熱気が、冷房の効きが悪い居酒屋の隅々までべっとりと張り付いていた。
私はリネンのノースリーブのブラウスの襟元をパタパタとあおぎながら、生ビールのジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。三十三歳、中堅の広告ディレクター。普段はクライアントの前で小綺麗にスーツを着こなしているけれど、今夜ばかりはそんな「大人の余裕」なんて、ヒューストンのスタジアムの芝生の上に消え去っていた。髪をラフにアップにまとめ、汗ばんだ首筋が自分でもわかるほど熱い。
「あり得ないわよ!」と、私は声を荒らげた。「あの交代は完全に引き分け狙い。カタールからの四年間、私たちは何のために攻撃的なウイングバックを育ててきたの? 堂安と中村を下げて菅原と鈴木淳之介を入れちゃうなんて、戦術が太古の時代に逆戻りだわ!」
私の正面、信じられないことに、この大惨敗の直後に「森保監督の采配には一理あった」なんてぬかした男がいた。偶然隣り合わせの席になり、テレビの画面を見ながら言葉を交わすようになった二十代半ばの青年だ。白のTシャツに無造作なジーンズ、いかにもフットサルでもやっていそうな、爽やかだが生意気な顔立ちをしていた。
「でも、あのままブラジルの猛攻を浴び続けたら、アディショナルタイムを待たずに崩壊してましたよ」と、彼は冷えたウーロンハイを煽りながら言い返した。「遠藤も久保も三笘もいない。台所事情は最悪だった。守備を固めて、延長、そしてPKに持ち込むのはトーナメントの定石でしょう?」
「定石? 笑わせないで!」
私はたまらず、彼の隣の席へと移動した。カウンターに近い狭いボックス席だ。二人の距離は、お互いの腕の産毛が触れ合うほどに縮まった。狭い空間で、彼の体温と、私の体温がぶつかり合う。真夏の夜の熱気と、お互いが発する興奮の汗が、じっとりと二人を包み込んでいた。
「いい? 延長に行ったとして、あのメンバーでどうやって点を取るのよ」私は彼の顔を覗き込むようにして、一気にまくしたてた。お互いの吐息が混ざり合うほどの至近距離だ。「上田の落としから前田の突破だけ? 二人とも限界だったわ。町野はスピードスターじゃない。つまり、あの交代の瞬間に、日本は勝利を主体的に掴み取るプランを自ら放棄したの。守り切れるわけがないブラジル相手に、ただ三十分間耐えてPK狙い? アリソンがいるのよ! 勝てるわけがないわ!」
彼は私の勢いに一瞬圧倒されたように目を見張ったが、すぐに負けじと顔を近づけてきた。彼の強い視線が、私の唇と目を往復する。汗で少し濡れた彼の前髪が、私の額に触れそうだった。
「それでも、現場の監督は現実を戦わなきゃいけないんだ! 理想だけでブラジルに勝てるなら苦労しませんよ。森保さんは心中したんだ、あの守備陣と!」
「それは心中じゃなくて、ただの思考停止よ! 守田がいれば……守田英正さえいれば、佐野と並んで中盤に強度を保てた。ウイングバックには交代で伊東純也と前田大然をそのまま当てはめて、攻撃の牙を剥き続けるべきだったの。攻めることが最大の防御なのに、それを信じきれなかったベンチの胆力不足よ!」
熱弁する私の胸元が、激しい呼吸で大きく上下する。彼はそれを一瞬盗み見るように視線を落とし、ごくりと喉を鳴らした。お互いにアルコールと、それ以上の「熱」が身体中を駆け巡っている。彼のTシャツから香る、汗と男っぽいシトラスの匂いが、私の理性をじわじわと侵食していくのがわかった。議論の激しさと比例するように、お互いの肌が触れ合う部分が、火傷しそうなほど熱い。
「……あんた、サッカーになると、急に色っぽくなるな」
「な、何言ってるのよ、議論を逸らさないで!」
私たちがカウンターの隅で、今にも掴みかからんばかりの距離で言い争っていると、ついに店主がしびれを切らしたように怒鳴った。
「お客さん、もう閉店だし、他のお客さんの迷惑だ! 表でやってくれ、表で!」
私たちは追い出されるように店を出た。熱帯夜の東京の空気は、店の中よりもさらに濃密で、息が詰まりそうだった。アスファルトからの照り返しが、私たちの足元をすくい上げる。
「まだ話し足りないわ」私は歩きながら、彼を振り返った。ブラウスが汗でうっすらと肌に張り付いているのを感じていた。彼もまた、汗を拭いもせず、私を真っ直ぐに見つめていた。
「僕もです。……どこか、落ち着いて話せる場所に行きましょう」
ここから先は
¥ 980
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
