花火を見るとき、雨が降ってよかった
大食い選手権は無理だが、忘れっぽい選手権があったらトップ10に入る自信がある。
夫と昔の話をしていると、その場に自分もいたはずなのに「そんなことあったっけ?」と驚くことがある。記憶がすっぽり抜け落ちていることに恐怖を感じるが、そのうちに怖いと思ったことすら遠くへ飛んでいってしまう。
夫と初めて行った花火大会の結末も忘れていた。
付き合いたての私たちは、眺めのいい場所で花火を見ようと早めに会場へ向かった。夫曰く、しばらく人の流れに沿って歩いていたらしいが、突然、私は列を外れ、「ここで見よう」とすべり台しかないさびれた公園を指さしたという。「え?ここ?」と夫は困惑した。会場からは遠く、木も鬱蒼としている。案の定、木の隙間から花火の欠片しか見えなかったが、私は上機嫌だったという。そして10分ほど経つと、「よし!OK!」と帰り支度を始めたらしい。
私はせっかちなので、炊き上がる6分前に炊飯器を開け、熱々のご飯をよそう。花火を前にしても我慢できなかったようだ。夫はこの話をしながら、「今まで見た中で史上最速で終わった花火大会」と苦笑いしていた。花火大会切り上げ選手権があったらトップ5に食い込めるかもしれない。
そんな私たちは今年の夏、久しぶりに花火大会へ行った。私の誘いなら「もう勘弁してください」と断られそうだが、父の誘いだったので夫も一緒に来てくれた。
父の田舎では、毎年花火大会が開かれ、父は子どもの頃、家の屋根にのぼって見たという。あまりに花火が近いので火の粉が降ってくるのではないかと、坊主頭を抱えたらしい。私は花火を遠くからしか見たことがないので、その光景が想像できない。「どれほどの迫力なんだろうね」と、新幹線の中で夫と話しているうちに、父の田舎へ到着した。
改札で待っていた父は、私たちの顔を見るなり、「花火やるかな?」と心配そうだった。「久しぶり!」でも「よく来たねえ」でもなく、最初に花火のことを口走ってしまうくらい、その日はどしゃ降りの雨だった。父の家へ向かう車内には、これでは花火大会は無理だなという諦めムードが充満していた。
しかし、夕方が近づくにつれ雨が弱まっていった。「もしかして!」とわずかな希望を胸に、立ったり座ったり、雨雲レーダーを見たり、見方がよく分からないと夫に泣きついたりしていると、窓の外からズドドドと音が聞こえてきた。決行を知らせる花火だ。いつもは午前中に上がるらしいが、主催者も迷っていたのだろう。コンビニへ走り、麦茶とさきいかを買う。父はノンアルビールを片手にご機嫌であった。
ちょうちんの灯りをたよりに花火会場へ向かう。焼きそば、たこ焼き、かき氷と屋台が並び、ソースの焼ける匂いや、氷を削る音が祭り気分を盛り上げてくれる。いつもは静かな町に子どもがあふれていた。
みんなのはしゃぐ声を聞きながら、私たちも車両通行止めの道路を歩く。今日限りだと思うと、どうしても真ん中を歩きたくなる。記念に写真を撮ろうとスマホを出すと、父が「撮ってやる」と、私と夫を撮影してくれた。なんだこれは。手ブレがひどく、幽霊みたいに写っている。私たちはしばらく道路の真ん中で笑い合った。
父は花火大会の有料席のチケットを買ってくれていた。普段は駐車場だというその場所にパイプ椅子が並んでいる。席は決まっていなかったのでよく見えそうな真ん中のエリアに座った。空を見上げると厚い雲に覆われて真っ暗だった。遠くでは雷も鳴っている。大丈夫だろうか。
私たちの心配をよそに、定刻通りに花火大会が始まった。
ドン。
真正面に金色のまんまる花火が打ち上がる。手を伸ばせば触れられそうなほど近い。私と夫が「おお」とのけぞると父は満足そうな顔を見せた。まるで自分がこの花火をぶち上げていますと言わんばかりだ。
そのとき、冷たいものがぽつんと頬に当たった。まただ。傘をさすほどではないが、服もスマホも濡れるのは困る。すると目の前のグループが、パイプ椅子にかかっていた大きなビニール袋を外し、手際よく穴をあけ始めた。頭と腕を出して即席のカッパを作っている。
夫と目が合った。私たちもやろう。椅子から袋を外し、穴をあけてかぶる。父は面倒くさがって頭だけ出したので、てるてる坊主になっていた。「その格好で転んだら危ないよ」と声をかけると、しぶしぶ腕も出した。これで大丈夫だろう。
と思ったのも束の間、雨は容赦なく降り注いできた。頭や肩を激しく叩き、顔にも当たる。これではまるで滝行ではないか。ちょうど良かった。煩悩だらけの私を清めてもらおう。ではないのである。このままでは首がやられてしまう。慌てて傘を開いた。席を立ち、帰っていく人もいた。無理もない。花火を見に来たはずが修行になるなんて聞いていない。
私たちの混乱をよそに、頭上では花火がドンパチと上がっている。
夜空に響く花火の音にダダダダダと傘を打つ雨音が重なっていく。ズボンと靴下はびしょ濡れで体が冷えてくる。傘の下から父の顔を覗くと静かに目をつぶっていた。寝たら死ぬぞ。慌てて父を揺り起こした。
いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう。日頃の行いが悪かったからだろうか。父の冷蔵庫からカルピスを勝手に飲んだのがバレたのかもしれない。許してください。もうしません。背中を丸めて空に祈った。
嘘だね!また絶対飲むでしょ!と空の人に疑われているのか、なかなか雨が止まない。私がダメなら夫だ。夫はゴミの分別を徹底していて、洗濯ばさみを捨てるときも、わざわざペンチを使って中の金具を外す。ときどきペンチに指を挟んで血を出しているが、それでも金具優先である。その真面目さでなんとか相殺できたのか、15分ほどしてようやく雨が止んだ。
椅子にぐったりもたれかかっていると、「最後の花火だぞ」と父の声が飛んできた。おでこにはり付いていた前髪をかき分け、体を起こす。
光の筋がスーッと伸びていく。
その一筋が消えて空が漆黒に包まれる。
誰も喋らず、風の音も聞こえない。
ドン。
重低音が空気を震わせ、心臓に響く。 その瞬間、大きな花火が咲いた。赤、青、緑、金色。次々に花火が上がり、光が重なっていく。どこがはじまりでどこが終わりかも分からない。空一面が明るくなり、まるで花火が両手を広げているようで吸い込まれそうになる。
これが父の言っていた花火か。「すごいね」とつぶやくと、父が「だろ」と無邪気に笑った。坊主頭だった父も、今では白髪頭だ。
私たちを包み込んだ花火はまたたくまに粒となり、夜空にジュワッと溶けた。
一瞬の静寂のあと、拍手が沸き起こった。1時間の花火大会が終わった。私たちも「花火師さんに届け」といわんばかりに、濡れた手を強く叩いた。
服は水を吸って重くなり、立ち上がるとき「よっこいしょ」と声が出た。足を出すたびに靴からキュッキュッと音が鳴る。通行止めだった道路にはもう車が走っていた。水たまりをよけながら歩道をゆっくりと歩く。またひとり、またひとりと外れていき、最後は私たち3人だけになった。
「明日までに洋服乾くかな?」と夫が心配している。「乾かなかったら、おれの服を貸してあげるよ」と言う父に、「お父さんは短足だから丈がつんつるてんだよ」と私が絡む。「ひどいな」と父がのけぞった瞬間、ガサガサと音が鳴った。
そういえば、私たち3人はカッパを着たままだ。
「お父さん、脱がないの?」と聞くと、面倒くさいからいいと言う。夫も脱ぐ気配はない。むしろ風が入らなくて気に入っているそうだ。いいのか、本当に。それはカッパじゃなくて、椅子にかかっていたビニール袋だぞ。新品とはいえゴミ袋かもしれないぞ。そんなものを3人お揃いで着て帰ったら、おかしくて、愛しくて、離れがたくて、忘れっぽい私でも忘れられなくなるじゃないか。
ゴミ袋をガッサガッサとおおげさに鳴らし、私は2人の後に続いた。
