【徒然日記】なんとなく、この人なら
今日は、「信頼が生まれるとき」についてのお話です。
誰かを信頼できるという状態は、いったいどうやって生まれるのでしょう。
長い時間、一緒にいる人?
いやいや。
短い時間しか一緒にいなくても、「この人は大丈夫だ」と、確信めいた気持ちになることもあります。
実際に会ったことがある人?
いやいや。
noteの民の中にも、私は信頼している人が何人もいます。
直接お世話になったことがある人?
いやいや。
それほど深い関係があるわけでもないのに、なぜか信頼を寄せてくれる人もいる。
では、信頼には何が必要なのだろう。
数学的には、「これは必要条件なのか、十分条件なのか」なんてところまで突っ込みたくなるわけですが、そのあたりはいったん置いておきましょう。
……どっこいしょ。
そもそも、人間関係を必要条件と十分条件だけで説明しようとすると、たぶん途中で嫌になってきます。
人と人との間に生まれるものには、どうしても「なんとなく」としか言えない部分がある。
そして、その「なんとなく」が、けっこう大事なのかもしれません。
先日、そんなことを改めて考える出来事がありました。
以前勤めていた学校の保護者の方から、連絡をいただきました。
その方は、私が担任をしていたわけではありません。
同じ学年に所属していたわけでもありません。
その方のお子さんが、私のことを特別に大好きだった、というわけでもありません。
もちろん、学校という場所で顔を合わせたり、言葉を交わしたりしたことはあります。
けれど、「私とこの方とは、こういう関係です」と説明しようとすると、実はそれほど多くないのです。
それなのに、以前から、その方が私に信頼を寄せてくださっているように感じていました。
そして今回いただいた連絡にも、やっぱりそれを感じたのです。
ありがたいな、と思う。
けれど、同時に、「なぜ??」とも思うのです。
私は、この方に何か特別なことをしてきたのだろうか。
長い時間をかけて関係を築いてきたわけでもない。
何度も相談に乗ったわけでもない。
何か大きな恩を返したわけでもない。
それでも、信頼してもらえている。
こういうことって、あるんですよね。
逆に、長い付き合いだからといって、必ずしも信頼できるわけではありません。
何年も一緒にいるのに、どうにも心を開けない人もいる。
たった一度しか会っていないのに、「この人の言葉なら信じられる」と思うこともある。
たくさん助けてもらったから信頼する、ということもある。
一方で、何かをしてもらったわけではないのに、その人の佇まいや言葉の選び方、誰かへの接し方を見ているうちに、いつの間にか信頼していることもある。
もしかすると、信頼というのは、何か一つの出来事によって「発生」するものではないのかも。
言ったことと、やったことが一致している。
誰かによって態度を変えない。
わからないことを、わからないと言える。
間違えたときに、ごまかさない。
自分の都合だけで、人を動かそうとしない。
そういう小さなものを、私たちは案外よく見ている。
そして、それらを一つひとつ「評価」しているというより、そういったものたちの中から、その人の輪郭浮かび上がらせているのかもしれない。
そうやって積み重なったものの先に、「この人なら、大丈夫かもしれない」という感覚が生まれる。
あ。
もしかすると、信頼って、相手を「信頼できる人」と評価することではなくて、「この人なら、自分を預けても大丈夫」と思えることなのかも。
だからこそ、信頼には時間だけでは測れない何かがある。
関わった回数でもない。
お世話になった量でもない。
肩書きでもない。
ましてや、「私は信頼される人間です」と自分で宣言して得られるものでもない。(…むしろ、そういうことを自分から言う人は、ちょっと信用ならない気もします(笑))
信頼は、自分で「築いた」と言うものではなく、自分では気づいていないところで、誰かの中に静かに生まれているものなのかもしれません。
今回、連絡をくださった保護者の方のことを考えながら、そんなことを思いました。
私はその方から、何かを「評価」してもらったのだろうか。
それとも、これまでの小さな関わりのどこかに、何かが残っていたのだろうか。
答えは、わからないけれど、自分では意識していない何かが、誰かの中に残っていた。そう考えると、人との関わりって、少し不思議です。
ここから少し、自分が「人を信頼するとき」のことを考えてみます。
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