魂のシンフォニー。歴史に変わる時
【#4f2_Music Becomes A Trial For Human Souls —— Human Bug Report】
音は鳴っていたのではない。時代が鳴っていた。
私は年に2~3回、交響楽団の演奏を聴きにいく。自身も短期間だが吹奏楽器を演奏していた。割り当てられたのは、木管楽器だった。黒檀の筒から発するまろやかな音がとても好きである。
社会人になって直ぐ、楽器を購入した。木管楽器は金管楽器と異なり、半永久的に音を奏でる。ロマンがあると思う。
交響曲は宇宙の音楽である。複数の音の調和。指揮者はそこに物語をのせる。
今回は、宇宙の音楽に物語をのせなかった指揮者。
音楽は時に人の装置として使われる。
三大巨匠の一人、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、その境界に立っていた。
■ ベルリンという巨大な構造
20世紀前半のドイツでは、クラシック音楽は単なる芸術ではなかった。
それは文化であり、同時に国家の象徴でもあった。
ベートーヴェン。
ブラームス。
ワーグナー。
それらは「ドイツとは何か」を説明する材料として扱われる。
その中心にいたのがフルトヴェングラーだった。
ベルリン・フィルを率い、彼は独特の指揮をする。
正確さよりも揺れ。均質さよりも呼吸。構造よりも感情。
音楽が生き物のようにうねり、聴く側の身体ごと巻き込む。
それは単なる演奏ではなく、現象に近かった。
■ ナチスドイツー残るという選択
1933年以降、ドイツはナチス体制へ移行する。
多くの芸術家は国外へ去り、ユダヤ系音楽家は排除されていく。
その中でフルトヴェングラーはドイツに残った。
ここから評価は分裂する。
彼はナチス思想の明確な支持者ではなかった。
政治的発言でも一定の距離を取っていた。
ユダヤ系音楽家を守ろうとした記録もある。
一方で、国家の中心都市ベルリンで指揮を続けたことも事実だった。
残ることは簡単ではなかった。
去る者もいる中で、彼は残った。守れるものがあると信じていたのか、それともそれ以外の道がなかったのか、その境界は本人にもはっきりしないままだった。
この「残った」という一点が、後の評価を分け現在も論争が終わらない。
■ベルリン
ベルリン、1942年4月の夜。満席のベルリン・フィル。軍事的に優勢と見なされていた時期であり、社会にはまだ「勝利」を信じる空気が残っていたとされる。
しかし同時に、長期戦の疲弊と歪みが内部に広がり始めていた。
その中で演奏された《第九》は、ヒトラーの誕生日前後の国家的祝賀行事の一部として扱われる側面もあった。
国家のためでも、聴衆のためでもなく、音そのものへ開かれる
舞台袖でフルトヴェングラーは立っていた。
外の咳払いがやけに大きく響く。この国は静かすぎる、と彼は思った。
いや、静かさの下に別の圧がある。
ー開演ー
観客の視線が一点に集まり、指揮棒が振られた。
最初の音からすでに整ってはいない。
少し遅れ、少し揺れながら音楽が立ち上がる。
彼の指揮は直線ではない。
波のように揺れ、オーケストラはそれに追いつくのではなく、引きずられるように進む。
第三楽章までは、静かに張り詰めたまま進む。
誰も動かない。誰も崩れない。ただ音だけが、空間を満たしていく。
そして第四楽章。沈黙が一度落ちる。
その後に合唱が立ち上がると、空気が変わる。
だが、歓喜は明るさというより、必死さに近い。
音は統一されているのではなく、別々の人間が同じ方向を向いているだけのようにも聞こえる。
終盤、音楽は止まらない必然のように加速する。
フルトヴェングラーの腕は音を制御しているというより、音に押されているように見える。
最後の音が消えたあと、沈黙が数秒続く。
何が起こったのか分からない。
誰も拍手を始めない。
それは数秒。だが長く感じられた。
その沈黙の後、ようやく爆発のような拍手が起きる。
第九は本来、後半に向かって解放していく。
フルトヴェングラーの演奏は、「暗黒、苦悩、重圧、緊張」をこれでもかと限界まで高める。
彼の第九は聴き終わったあとに、心地よい爽快感ではなく、一本の壮大な映画を観終えたような、凄まじい疲労感と感動が残ったという。
その夜、誰もそれを「歴史」とは思っていなかった。
ただ音楽が鳴っただけだった。
だが後の人間だけが、それを意味として読み直す。
そして音楽は静かに重さを増していく。
■ 戦後という裁判
戦争が終わると、次に始まるのは別の問いだった。
「彼は何者だったのか」
フルトヴェングラーは非ナチ化審査を受ける。
結果として、
戦争犯罪者として断罪されることはなかった。
しかし完全な無罪としても扱われなかった。
グレーとして活動再開が認められる。
法的には一応の決着がつく。
彼の一貫した主張は明確だった。
自分は音楽家であり、政治家ではない。
ドイツ音楽を守るために残った。
芸術は政治から独立すべきである。
同時に、体制の中で演奏していた事実も理解していた。
つまり本人の認識としては、
「妥協しながら守る場所にいた」という感覚に近い。
■ 猫の視点
響く音。
人間の緊張。
大きな空間。
そこに意味はない。ただ音があるだけである。
猫はそれを知っている。
■ デバッガー所感
この人物は単純ではない。
英雄でもない。加担者でもない。
完全な抵抗者でもない。同時に存在している。
重要なのは結論ではない。
人間は、完全に外へも出られず、完全に同化もできない場所に立たされることがある。
フルトヴェングラーはその中間にいた。
だから評価は今も揺れ続けている。
音楽や出来事。そこに後から「意味」を乗せた時、出来事は象徴になる。
たまに象徴は現実以上の力を持ち始める。
その夜、確かに音楽は鳴っていた。
しかしそれが何だったのかは、まだ誰にも決まっていない。
