W.E.バトラーの最初の師匠ロバート・キング司教の『ロザリオ』全訳(by 知られざる呪術師)
『ロザリオ』
ロバート・キング司教講演録
1945年7月24日
編集長殿、
先般の一月号に掲載された、T・R・G・ライエル牧師による『ロザリオ』と題された有益な記事を拝読し、興味深く思いました。このような簡素な道具が、祈りと霊的向上を目的とする瞑想においてどれほど価値あるものであるかについては、私たちの会員の間では十分に認識されていないように思います。しかし、定期的に瞑想を行う多くの人々にとって、この小さなロザリオは大きな助けとなるはずです。
幸運なことに、私は少し前に、ロバート・キング司教が数年前に同じテーマで行った講話の覚え書きをいくつか受け取りました。キング司教は、ロザリオを唱える際、ローマ教会の「アヴェ・マリア」や「主の祈り」を用いません。実際、彼は定型的な形式から大きく逸脱していますが、その方法は私たちの信条を持つ多くの人々の心に響くものだと思います。 私は彼が提案した手法に感銘を受け、その手法は伝統的な祈りを繰り返す方法よりも、私たちの教会の信徒たちにとって、より魅力的なものとなるのではないかと考えています。彼の好意により許可を得られたので、私が重要だと考える講演の箇所を引用させていただきます。
J・L・シェパード
ロザリオを用いる際には、意図を持つべきです。一般的なプロテスタントの間では、この「意図」という教義は知られていません。あなたの意図は何ですか? という質問は、ロザリオの要です。ロザリオを用いるすべての人がこの意図を持っているかどうかは別の問題ですが、これこそがロザリオの目的――すなわち、霊的な事柄への瞑想――なのです。こうしてロザリオは物理的な手段、このことはぜひ心に留めておいて欲しいのですが、集中のための物理的な手段となるのです。もちろん、意図なしでもロザリオを使うことはできますが、長年の実践者として申し上げれば、意図は非常に役に立ちます。人々は「意図がなぜ役に立つのか」と疑問に思うでしょう。そこで、その理由を説明しましょう。
私たちは皆、感覚器官を通じて物事と接触し、外界から届くバイブレーションを受け取っているという事を知っています。その振動に多少の変化を感じると、私たちの注意は引きつけられます。特別な何かが私たちの心を惹きつける時、そこから受けた五感の刺激が、あらゆる物質と私たちとを結びつけていることに気づきます。触覚を例にとれば、私たちは固体と関わっています。触れるものすべてには実体があり、物に触れることによってその感覚が強調されるのです。一方で、味覚は液体と関係しています。乾燥した物質を口に入れても味を感じることはありません。何らかの液体と組み合わせるとが必要なのです。嗅覚は、部分的に味覚と関連していますが、気体とも関係しています。聴覚も、また空気の状態と関係の関係があります。 視覚は、よりバイブレーションと結びついており、それはエーテル界の主な領域の最初の位置にあります。すべての視覚は、光の波によってもたらされます。これら全ての感覚は、物質の領域に関わっていますが、その根底にあるものは接触の感覚、すなわち「触覚」なのです。この触覚は、基本となる感覚なのです。光の波でも、目の網膜などに触れるので触覚と言えます。触覚は、身体を通じた私たちのあらゆる知覚の基盤と言えるのです。
触覚には非常に興味深い点があります。何かを握りしめると、注意が驚くほど引きつけられます。そういう性質が触覚にはあります。何かを感じ、握りしめることは刺激となり、その行為はより現実的なものとなります。この感覚は私たちが感じる現実と、明確に関係しているのです。心を集中させ、一点に絞り込ませる性質があるのです。
さて、集中力がすべてのオカルト修行の基礎であることはご存知でしょう。自然の力をあつかうオカルトの修行を行うのであれば、集中力は絶対に不可欠です。集中力がなければ、自分自身にとっても他人にとっても危険な修行になるのです。どの流派においても、集中力――つまり心を静止させる力――は、最初に練習すべきことのひとつです。これは必ず行わなければならないことであり、いかなる修行を行うにしても必須の条件なのです。 したがって、集中力を高める助けとなる手段はどれも非常に有用なものであり、心を一点に集中させるのに役立つ方法は、すべて歓迎すべきものであることは容易に理解できるでしょう。ここで、ロザリオの力が発揮されるのです。
「ロザリオがどのように役立つのか? ビーズの連なりがどうして助けになるのか?」と、あなたは疑問に思うかもしれません。しかし、ロザリオは確かに助けになります。先ほどもお話ししたように、私はロザリオが注意力を高める上で、極めて大きな価値があることを実感しています。明快で意識的な思考は、必要な時にその思考と意図の明瞭さを、内なる次元におけるあなたの精神体に築き上げます。それが理由です。集中力が内なる体の中の物質を構築し、そこに刻まれたイメージを永続的なものにするのか否かを、意思の力によって決定づけるのです。 そこには真摯で強い願望がなければなりません。一般的なやりかたで、漠然としたイメージを構築するだけでは、大した効果は得られないのです。思考を維持する能力に応じて、十分な明瞭さをもってイメージを構築すれば、効果は高くなるでしょう。これは人格を形成する方法のひとつです。最も重要なのは、集中力と意図を選択することであり、他者を助けるような思考においても同様です。 もし誰かを助けたいと思うなら相手の思念体を心に思い描き、抵抗が最も少ない経路、すなわち愛情の経路に沿って、意図を込めた思考を送りこむことができます。そうすることで、相手のオーラに思考が届いて内容を放出し、あなたが送りたかった意図を相手が受け取ります。集中力が足りなければ、思考が曖昧になり、自らのオーラの外かに出ることができないので、相手にも届きません。
「では、ロザリオをどのようにして使うのか?」と、あなたは思うでしょう。私が実践しているのは、次のような方法です。十字架の横にある、五つのビーズを使います。
最初の大きなビーズを、私は「真実」と名づけました――つまり、私の行うすべての行為の背後にある意図が「真実であるべき」だということです。「真実は私の意識の中で現実となるべき」で、私が考えることや行うことすべても「真実になるべきだ」という意味です。そのようにして私は「真実」について瞑想し、このビーズをしばらくそのように使い続けた結果、感覚と連想を通じて、私にとってそのビーズは「真実」を意味するようになりました。
次に、二番目の大きなビーズを「勇気」と名づけました――その美徳は自立です――動じず、自分の信念を恐れず、揺るぎなく立ち続けることを意味します。この物質主義的な時代において、オカルティズムの教えに従うには「勇気」が必要です。オカルティズムの主題について語ったり、自分の意見を表明したりすることは容易なことではありません。
次の三番目の大きなビーズには、「忍耐」と名づけました――大小さまざまな圧力、些細なこと――針で刺されるような小さな心の痛み――などを、文句を言わずに耐え抜いて、そこから生じるあらゆる困難を乗り越えていくことです。ちなみに、この三番目の――「3」――これは土星の数字であり、忍耐を象徴する数字でもあります
次に私が選んだ四番目のビーズ、その美徳は「純粋」です――あらゆる事柄における純粋さ――私の動機は純粋だったか――それが純粋な行動につながったのか、それとも私の努力の中には、なにか他のものが混ざってはいないだろうか?
最後の五番目のビーズには、「謙虚」という美徳を込めました。それは、地面にひれ伏してへつらうような謙虚さではなく、ユーライア・ヒープ(訳注:ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』の登場人物。卑屈で偽善的な謙虚さの象徴)のような卑屈さでもなく、真の謙虚さを意味します。すなわち、自身の弱さを自覚し、成し遂げられたことに対して神に感謝すること――それが自分の力によるものではなく、むしろ自分が上手くできなかったにもかかわらず、自分という存在を乗り越えて、善の力で成果が達成できたと考えることです。
それが終わると、私は大きなビーズの間に挟まれた十個の小さなビーズを順に指でなぞりながら、これらの美徳のさまざまな側面を心に留めます。このように没頭することで、周囲で何が起きていても気にならなくなります。触覚に意識を集中できるので、外での出来事を意識しなくなります。
最後に、末尾にあって十字架へと続く小さないくつかのビーズに差し掛かると、私はひとつひとつを手に取って、それぞれに固有の基調となるリズムを与えました。一つ目は「力」――私の意図を実行に移すための力――、次は「知恵」――学問とは無関係でありながら、私たち自身の中に見出すことのできる神聖な知恵――、三つ目は「愛」――神聖な愛――万物への愛であり、続く二粒についてもこれらを同様に繰り返しました。 これらはすべて、五感と結びついています。そして、ここで感覚の本質を神へとまっすぐに捧げます。「私の触覚、そしてそこを通り過ぎるすべてのものが、あなたの神聖な御用に供されますように」と。そして、最後に十字架上の御姿――自己犠牲の象徴――、すなわち自らの個性を完全に放棄することへと至ります。
このようにして瞑想においては、指とロザリオの接触が極めて大きな助けとなることに気づくでしょう。そして自分自身にとって、最も必要だと感じる美徳を選んでください――私たちひとりひとりには、それぞれ必要なものがあります――その美徳を選んで、大きなビーズを順に巡って、次にひとまとまりのグループを繰り返して、そして一粒一粒のビーズをたどって、犠牲となったキリスト、すなわち内なるキリストへと至り、そこで数秒間その思いを留めてください。時には、言葉では到底表現できないような、並外れた高揚感を味わうこともあるでしょう。
ロザリオは機械的な、あるいは自動的な祈りだと言われています。しかし、仮にこの祈りが自動的に行われるようになったとしても、思念体は依然として創り出されており、その美徳が表れていることに気づくでしょう。あなたは、機会が訪れれば必ず蘇るリズムを潜在意識に刻み込み、極めて現実的な人格を築き上げているのです。例えば、苦境に立たされたとき、勇気についての瞑想があなたを助けることに気づくでしょう。不快な状況や危険に直面したとき、勇気が湧き上がってきます。それは、あなたが勇気を自分自身の中に築き上げ、自動的に現れるようにしたからです。それがこの方法です。
さて、ここで友人を助けるために用いる集中力についてお話しします。私はかつて、ある特別な形で私とつながりのある人々を象徴するものとして、小さなビーズを大切にひとつずつ持っていました。同じ人に対しては、常に同じビーズを使っていました。指がそれらの特定のビーズに触れると、私が意図を向けているその人の姿を意識することができ、その人を大いに助けることができると気づきました。いくつかのビーズには名前を付けていました。それらを順番に巡りながら、毎日一定の時間をこの集中の時間にあて、その人たちに助けを送り、注意を向け、触覚という物理的な感覚によってその集中力を高めていました。そして、瞑想の終わりには、五つのビーズを通って十字架へと彼らを導き、永遠に満ち溢れるその素晴らしい世界に、彼らを委ねていました。
確かにこれらは機械的な行為になり得ますし、完全に自動的に行ったとしても、多くの善を成し遂げることができます。しかし、そこに「意図」が加われば――その力がどれほど強大になるか、想像してみてください。私はロザリオを使う方法に、完全に頼ることができると感じました。ロザリオは集中の焦点であり、ロザリオは機械的な感覚を通じて、私の友人たちを内なる次元の意識へと引き上げてくれたのです。
このように、ロザリオが独自の価値を持ち、どれほど大きな助けとなるかがお分かりいただけるでしょう。たとえ一部の人にとっては無意識の習慣となってしまっても、正しい方向に向けたあらゆる思いは助けとなり、善が溢れ出るのです。ご理解いただけると思いますが、理解と意図を持ってロザリオを唱えるならば、それはあなたを、物質的な事物の堅固で具体的な形から霊的な世界へと導き、人生の嵐に耐え、些細な苛立ちから大きな困難に至るまですべてに耐え抜くことができる人格を形成してくれるのです。それはおそらく、あなた自身の「十字架の道」へと導くことになるでしょう。しかし、それは人生における現実であり、それを通じて、そしてそれのみを通じてこそ、私たちは内なるキリストの満ち溢れる恵み、すなわち永遠の命を見出すことができるのです。
ロバート・キング司教
