エッセイ|"生きづらさ"は誰のため?
「生きづらさ」や「ハンディキャップ」という言葉が浸透し、互いを慈しみ合う社会になった。
本来、周囲が差し出す「配慮」や「サポート」は、誰もが楽しく試合観戦をするための、足場のようなものだ。
しかし、時としてその足場が、己が利益を享受するための「特権」や、言い訳するための「免罪符」へとすり替わってしまう。
「配慮を受けて当然」
「傷ついている私が正義」
「努力をしない免責」
そんな傲慢な態度に甘んじてしまえば、社会はたちまち破綻する。
「生きづらさ」は権利だが、特権ではない。
そして、権利には義務が伴う。
自分の弱さや困難と真に向き合っている人は、周囲からの配慮を受け取るとき、同時に「できる限りの誠実さ」を返そうとする。
感謝と敬意を持ち、周囲と協力しながら、努力を惜しまない。
合理的配慮とは、「双方の敬意と努力」の上にしか成り立たない、誠実な約束なのだ。
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