掌編小説|寡黙な常連客
最初に担当した日のことは、もう曖昧だ。
ただ、席に座った瞬間に感じた印象だけは、今もはっきり覚えている。
四十代半ばくらい。
白髪はまだ少ないけれど、こめかみにうっすら混じり始めていて、髪質は硬めの直毛。眉は濃く、目元は少し疲れている。
右利きなのに、右腕に腕時計。
身なりはきちんとしていて、シャツの袖口はいつも整っている。香水ではない、柔らかい石鹸のような匂いがした。
“口数が少ない小綺麗な人”
そういう印象だった。
それから毎月、かかさず現れるようになった。
私の指名客として。
「今日はどうされますか」
そう尋ねると、その人は短く言う。
「いつも通りで」
穏やかな口調だけど、どこか壁がある。
踏み込みすぎないように、でも冷たくならないように、その中間を探しながら接するのが、少し難しかった。
ただ静かに席に座り、目を閉じると、こちらの手に身を預ける。
雑誌も読まない、スマホも触らない、鏡も見ない。ずっと目を瞑っている、独特なお客さん。
私は、その沈黙を読み取ろうとした。
話したくないのか、話せないのか、それともただ、静かに過ごしたいだけなのか。分からないまま、ハサミを入れる。
世間話は控えめに。
季節の話を少し。
髪の状態を少し。
返事はある。
目も合わせてくれる。
けれど、会話は弾まない。その短い返答の温度を測りながら、また沈黙に戻った。
夏が近づいた頃、私は勇気を出して聞いてみた。
「暑くなってきたので、襟足、いつもより短めにしますか」
その人は鏡越しに微笑んで、静かに頷く。
その返事が、少しだけ私を安心させた。
仕上げのときも、
「前髪、今日は上げてみますか」
「ワックス、軽めにしますね」
「ハンドクリーム、香りの弱い商品もありますよ」
提案は控えめに。
押しつけにならないように。
でも、満足してもらえるように。
ただ、かっこよくしたい一心だった。
その人は、すべてに「はい」と答えてくれる。
追加料金がかかっても、一切迷わない。
その“はい”が本心なのか、断るのが苦手なだけなのか、確信がもてなかった。
仕上がりを鏡で見せると、その人はいつもと同じように軽く頷き、「ありがとうございます」と言って立ち上がる。
帰り際には、かかさず来月の予約をとっていく。そして、「一つもらっていきますね」と、レジ横に置いてある飴を一つ握って店を出る。
そのやり取りが、お決まりごとになっていた。
——あの日までは。
店が珍しくバタバタしていた。電話が鳴り続け、スタッフが走り回り、私は会計と次のお客さんの準備を同時にこなしていた。
その人はいつも通りの仕上がりに頷き、「ありがとうございます」と言ってお会計を済ませた。
——あ、予約。
声をかけようとした瞬間、別のスタッフに呼ばれ、私はそちらへ向かった。
振り返ったときには、もう扉が閉まっていた。
「まあ、来月また取るだろう」
その時は、本当にそれだけだった。でも、胸の奥に、小さな棘のような違和感が残った。
翌月、その人は来なかった。
また、その次の月も。
——あの時、声をかけていれば。
——いつものように確認していれば。
その人は寡黙だった。
だからこそ、何も言わずに去ってしまうことも、あり得る気がした。
気を悪くしたのかもしれない。
予約が取りづらいのかもしれない。
答えはどこにもなかった。
それからしばらくして。
店宛ての口コミが一通届いていた。
私に合わせた接客で、とても心地よかったです。転勤によりもう行けませんが。ハンドクリーム愛用しています。
「イタズラかしら?誰なんでしょうね」
同僚のスタッフがつぶやく。
私にはわかる。
あの人だ。
読み終えた瞬間、胸の奥で固まっていた後悔が、少しだけほどけた。
——満足していたんだ。
——あの沈黙は、安心だったんだ。
別れの言葉はなかった。
でも、最後に残されたその一行が、遅れて届いた“ありがとう”のように思えた。
画面を閉じて、店内を見わたす。
あの席に、あの人の気配がまだ微かに残っているような気がした。
【終わりに】
自説だが、美容室での過ごし方を見れば、その人の好む距離感が分かる。
会話を楽しむ人
雑誌を読む人
物思いに耽る人
リラックスする人
皆さんは、どのように過ごされていますか?
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