見出し画像

後悔せずに生きる(0405天理スタンディング)

 朝、起きたら元気だった。

 元気だったのでとりあえず、布団の中でデモカレンダーを見た。エリアを関西に絞って検索。そうしたら「高市早苗を支持しないスタンディング」がトップに出てきた。そうか、このスタンディング、今日なのか。

 行くか……。

 決断は早かった。ベッドから飛び起き、大慌てで諸々の準備を済ませて電車に飛び乗った。最近の私は隙あらばひとりスタンディングできるようにペンライトとプラカードを鞄に入れていて、だから持ち物には迷わなかった。

 天理駅へと向かうJR万葉まほろば線の中で、向かいに座った人が「戦争放棄」というアートワークのほどこされたバナーを鞄に留めているのに気づいた。

 その瞬間、私たちの間には目には見えないゆるやかな連帯が生まれるのだった。


 私が着いたのは12:10ごろだった。天理駅前広場にはすでに75人の人々が集っていた。私は様子を見ながらその集団に加わった。「高市早苗を支持しないスタンディング」という名前だけあって、はっきりと高市早苗を糾弾するプラカード、フラッグを持っている人が多かった。

 私たちは漠然と反戦を訴えているわけじゃない。高市早苗と自民党が日本を「戦争ができる国」「戦争に加担する国」に変えようとしている、そのことに反対している。そして「以前から世界で起こっている戦争を止めようとしない」ことにも憤っている。

 だから私たちがつがえた「反戦」の矢は、つねに高市早苗と自民党に向かっている。私たちが構えるのは鏑矢や破魔矢じゃない。「戦争反対」と叫びさえすれば邪気が祓われ、たちどころにこの世界から戦争がなくなるなどという夢物語は信じていない。私たちには明確に、自民党という射るべき相手がいる。デモを報道するマスコミ各社には、そのことをうやむやにしないでほしいと願う。


 通行人の動線を塞がないよう、案内板を隠さないように工夫しながら、次第に100人以上が集まった。整列もせず、それぞれの距離感でゆったりと立つさまは、私たちが組織化されていないただの個人であることをよく表していた。けれど「人数を数えたいので一人ずつ番号を言っていってください」とお願いすれば皆はにかみながら応じてくれた。私たちはまったくの他人だったけれど、たまたま同じ船に乗り合わせた仲間なのだった。

 年代を超えて言葉を交わす人々もいた。交流はせず、もくもくと本を読む人々もいた。けれどひとりの人も決して孤独ではなかったと思う。似通った考えの人がその場にいる、というのは、それだけで私たちに安心感をもたらす。極論、だれも一言も言葉を交わさず、そこに立つだけだったとしても、私たちはつながっていられただろう。

 やがて集団の先頭にいたひとりが叫んだ。「戦争反対!」するとほかの人々も叫んだ。「戦争反対!」

 高市やめろ、平和がいちばん。コールは自発的なもので、それに続いた人々の声もだれに強制されたものでもなかった。だから叫ばなかった人もいた。そしてそれでよかった。社会運動とはだれかに強制されてするものではない。だから叫びたい人は叫び、叫びたくない人は叫ばない、そのあり方は正しかった。

 そして叫ぶ人、叫ばない人で分断されることもない。叫ぼうが黙ろうが、私たちが同じ船に乗り合わせていることに変わりはないのだ。


 スタンディングの終わりごろ、スマホで憲法条文を流している人がいるのに気づいて私はそっと近づいた。

「素敵ですね、それ」

 その人は、綺麗に梳ったグレイヘアを揺らして微笑んだ。

「小さいからタブレットに比べると目立たないけど、持ってると自分の気分が上がるんです」

 それはとても大事なことだ。政権は私たちが絶望するのを待っている。だからお気に入りの服を着ること、気合を入れてメイク・ネイルをすること、推しのペンライトを持つこと、好きな憲法条文を流すことは決して無駄ではない。気分を上げてデモに参加するというのは今、とても必要なことだ。この運動を続けていくために。

 どんな運動であれ、一度ですべてが好転するはずなどない。私たちは性懲りもなくワーワーしなければならない。だから性懲りなく、粘り強く、あきらめ悪く路上に立ち続けるために、気分が上がることはなんであれするべきだ。

 そんな自己満足も、いつか大きな波につながっていくのだと信じている。


 13:00になった。呼びかけ人がひとことアナウンスすると、自然にその場に拍手が起きた。「ありがとー」とみなが口々に言った。

 天理というのは高市早苗の地元だ。大阪から1時間20分、京都から1時間、アクセスがいいとは言えない地方の小さな駅に、118人もが集まったこと。これは大きな意味があると思う。

 ひとりの人が前に進み出て言った。

「私はこの選挙区の者です。選挙前には落選運動もしました。でもそのときには10人くらいしか集まらなかった」

 これは美談ばかりではない。もっとはやく立ち上がるべきだった、という後悔と表裏一体だ。けれどその人の目には感動さえ浮かんでいた。まだだれも、あきらめていなかった。

 私たちは、いつだって、いつからだって行動できる。


 解散後、ひとりの人がこう言った。

「勇気づけられますね、仲間がいるんだって。普段はこっちが陰謀論言ってるみたいな目で見られるから」

 その通りだ。実際、心がくじけそうになることは何度もある。私は私なりに記事を読んで、勉強して、考えて改憲反対、高市不支持を訴えている。けれどときどき、「でも、ほんとうに私の見てる世界は正しいのか」「だれも騒いでないってことはみんなが正しいんじゃないか」と疑心にかられることはある。

 正しくある、正解を選ぶ、というのはひどく困難だ。人間というのは結局恣意的に世界を見る生き物で、だから私の「正しい」は別の人には「間違い」になる。なにが正しいのか、そもそも正解なんてあるのか、考えるうちに泥沼にはまっていく。

 私は正しい。そう自分に証明し続けることは精神をすり減らしていく。他者に証明しようと思えばなおのこと。

 ただひとつ、間違いなく正しいと言えることがあって、それは私が、私たちが「行動している」ということだ。それもきわめて民主主義的に、平和的に。つまり、正しい方法で。

 私たちは聖人でも英雄でもないけれど、自分の頭で考え、正しい方法で行動することを選んだ。それは誇っていい。私は正しい、と証明する必要はない。自分が後悔しない自分であればいい。納得できる自分であれば、誇れる自分であれば、それだけでじゅうぶんだ。

 だから、行動もしない人の嘲笑に耳を貸さなくていい。私たちが振り絞った勇気がどんなものか、決死の思いで踏み出した一歩がどんな重さか、それすら知らない人々の冷笑の薄っぺらさよ。

 あなたがもし、嘲笑をおそれデモに参加するのをためらっているなら、どういう生き方がより後悔がないか考えてみるといいと思う。また、あなたがもし、デモに参加したことで冷笑され傷ついているなら、困難ではあるが再びデモに参加してみてほしい。そこには仲間がいて、きっとあなたをもう一度立ち上がらせてくれると思うから。

いいなと思ったら応援しよう!