俺は構造主義者だったのか――地方から日本を見るようになった編集者の思想形成

浅田彰という人がいた。

いや、今もいるのだが、私の中では「一時代を象徴した人」という印象が強い。

1983年に『構造と力』を出し、いわゆる「ニュー・アカデミズム」のブームを巻き起こした思想家である。

構造主義からポスト構造主義までを関連づけ、当時の知の世界を一気に俯瞰してみせた本だったらしい。

しかし、私は読まなかった。

正確に言えば、読む気にならなかった。

「構造主義?」

「ポスト構造主義?」

「ドゥルーズ?」

「ラカン?」

なんだか小難しそうだ。

大江健三郎にも挑戦して、途中で挫折した経験がある。

だから、

「また難しいものが出てきたな」

くらいに思っていた。

ところが、66歳になった今になって、ひょんなことから浅田彰の名前が出てきた。

そして話をしているうちに、妙なことに気づいた。

私はどうやら、昔から「構造」というものに関心があったらしい。

もちろん、そんな言葉は知らなかった。

構造主義を勉強したこともない。

大学で哲学を専攻したわけでもない。

ただ、記者として、編集者として、長いことニュースを見てきた。

その中で、いつの頃からか、個々の事件そのものよりも、

「なぜ、こういうことが起きるのか」

の方が気になるようになった。


「誰が悪い」だけでは終わらない

ニュースは、どうしても「誰が悪いのか」という形になりやすい。

政治家が悪い。

官僚が悪い。

企業が悪い。

制度が悪い。

もちろん、それを明らかにするのは記者の重要な仕事だ。

だが、長くやっていると、どうしても次の疑問が出てくる。

「いや、ちょっと待てよ」

「その人間が変われば、本当に問題は解決するのか?」

「なぜ、同じようなことが何度も起きるんだ?」

そこで、個人ではなく、その個人を取り巻く環境を見るようになった。

制度を見る。

組織を見る。

人間関係を見る。

金の流れを見る。

情報の流れを見る。

権力の配置を見る。

そして、それらがどうつながっているのかを見る。

つまり、「木」だけではなく「森」を見るようになった。

「編集長」

愛次郎が横から口を挟む。

「なんだ」

「それって、要するに『犯人探しだけじゃなくて、犯人を生み出す仕組みを見よう』ということですか?」

「……まあ、そういうことだ」

「ずいぶん難しい言い方をしましたね」

「お前が言うと簡単すぎるんだよ」

「でも、読者にはその方が分かりやすいですよ」

「……確かに」


東京にいると、木ばかり見えてしまう

ここで、私自身の地方での経験が大きかったのではないかと思っている。

東京には、とにかく情報が集まっている。

政治記者がいる。

経済記者がいる。

社会部記者がいる。

官庁担当がいる。

企業担当がいる。

専門家もいる。

数字も集まる。

特ダネも飛び込んでくる。

ニュースを拾う「データマン」は、いくらでもいる。

ところが、ふと思うことがある。

「それを全部、一枚の地図にして見る人は誰なんだ?」

愛次郎が首をかしげる。

「編集長、それはデスクの仕事じゃないんですか?」

「そうだ」

「じゃあ、デスクがいるじゃないですか」

「いるよ。もちろん優秀なデスクもたくさんいる」

「では、何が言いたいんです?」

ここは少し説明が必要だ。

私が言いたいのは、「東京にはデスクがいない」という話ではない。

そうではなく、

東京という情報の中心にいると、東京そのものを相対化するのが難しいのではないか

ということだ。

データマンは情報を拾う。

記者は事実を掘る。

デスクは、それらを配置して全体を見る。

そして編集長は、

「そもそも、このニュース群を生み出している社会の構造は何なのか」

と考える。

少なくとも私は、そういう仕事をしてきたつもりだ。


東京にいると、東京が「日本」になる

東京にいると、東京の仕組みが「日本の普通」に見えてしまう。

大企業の本社が東京にある。

官庁が東京にある。

大学が東京に集まる。

メディアも東京に集中する。

政治も経済も文化も、東京を中心に動いている。

それがあまりにも当たり前なので、

「なぜ東京なのか?」

という問いそのものが消えてしまう。

ところが地方から見ると、少し違って見える。

「なぜ会社は東京に行くんだ?」

「なぜ若者は東京へ出ていくんだ?」

「なぜ大学まで東京に集まるんだ?」

「なぜ地方の出来事まで東京のメディアを通して見なければならないんだ?」

こういう疑問が出てくる。

つまり、東京にいると「環境」だったものが、地方から見ると「構造」として見えてくる。

愛次郎が言う。

「魚は水の中にいると、水を意識しない……というやつですね」

「そうだ」

「じゃあ、地方にいる編集長は?」

「水槽の外から魚を見ている」

「編集長、魚を観察してるんですか?」

「そうじゃない!」

「では何を?」

「日本をだ」

愛次郎が少し黙った。

「……それ、ちょっとカッコいいですね」

「お前に褒められると不安になるな」


「地方再生」という言葉にも違和感があった

私は以前から、「地方再生こそ日本再生の道」ということを考えてきた。

だが、最近は「地方再生」という言葉そのものにも少し違和感がある。

地方が勝手に衰退したかのように聞こえるからだ。

地方に魅力がないから若者が出ていく。

地方に産業がないから企業が出ていく。

地方の努力が足りない。

本当にそうなのか。

そうではなく、

人・企業・大学・金融・情報・行政機能を東京に集める構造が長い時間をかけて形成され、その結果として地方の衰退が起きているのではないか。

そう考えると、問題の見え方が変わってくる。

地方に補助金を出す。

地方創生の施策をつくる。

観光客を呼ぶ。

移住者を増やす。

もちろん、それも必要だろう。

しかし、それだけでは「構造」は変わらない。

「編集長」

「なんだ」

「それって、床を拭いているだけじゃないですか?」

「何の話だ?」

「蛇口から東京に水が流れ続けているのに、地方で一生懸命モップをかけている」

「……お前、たまにはいいこと言うな」

「たまに、ですか?」

「調子に乗るな」

蛇口を閉める。

あるいは、水の流れそのものを変える。

そこまで考えなければ、本当の意味での地方再生にはならないのではないか。


もしかすると、私はずっと「デスク」をやってきたのかもしれない

こう考えてくると、浅田彰という名前が急に気になってきた。

『構造と力』について調べてみると、面白いことが分かった。

浅田彰の仕事は、単に難しい思想を語ることではなく、一見するとつながっていないものを関連づけ、全体の中に位置づけ、新しい光を当てることにあったという。

それを知って、私は少し笑ってしまった。

「それって、編集じゃないか」

と思ったからだ。

私は思想家ではない。

哲学者でもない。

ただの地方の編集者だ。

しかし、長年ニュースを拾い、原稿を書き、社会を眺めてきた。

そのうち、

「このニュースと、あのニュースはつながっているんじゃないか」

と考えるようになった。

「この事件の背景には、もっと大きな仕組みがあるんじゃないか」

と考えるようになった。

そして、

「東京から見ているだけでは、この構造は見えないんじゃないか」

と思うようになった。

「編集長」

「なんだ」

「つまり、浅田彰を読む前から、編集長は浅田彰みたいなことをしていた、と?」

「そこまで言うと、おこがましいだろ」

「では、こうしましょう」

愛次郎が胸を張る。

「浅田彰さんの考え方を知らないまま、似たような方向に歩いてきた」

「……それなら、まあいい」

「では『遅れてきた構造主義者』ですね」

「やめろ」


思想は、後から名前がつくのかもしれない

ここで一つ、面白いことがある。

私は若い頃から「構造主義」を勉強してきたわけではない。

むしろ、避けていた。

小難しい思想書を読んで、自分を賢く見せるようなことにも興味がなかった。

それでも、仕事をして、地方にいて、社会を眺めているうちに、

「個別の現象より、その背後にある関係を見たい」

という方向に少しずつ傾いていった。

そして66歳になって初めて、

「それって、構造主義的な発想に近いんじゃないか」

と言われて、

「ああ、そういう名前があったのか」

と思った。

これは、なかなか面白い経験である。

思想というものは、最初に本を読んで身につけるだけではないのかもしれない。

自分が何十年もかけて考えてきたことに、後から名前がつく。

その名前を知ることで、

「なるほど。俺が感じていたことは、こういうふうにも考えられるのか」

と、自分の思考をもう一度見直すことができる。


だから、浅田彰を読んでみる

だから私は、今さらながら『構造と力』を読んでみようかと思っている。

ただし、最初から一人で読むつもりはない。

たぶん途中で挫折する。

大江健三郎でも挫折した男である。

浅田彰で二度目の撃沈をする可能性は十分にある。

「編集長」

「なんだ」

「今回はどうするんですか?」

「ズルをする」

「堂々と言いましたね」

「まず本の内容をできるだけ平たく整理してもらう」

「誰に?」

「俺の相棒に」

「なるほど」

「それを読んで、俺がツッコむ」

「ツッコむ?」

「『いや、それは違うだろ』とか、『それなら地方から見るとこうじゃないか』とか、『つまりこういうことか?』とか」

「それで思想を理解するんですか?」

「そうだ」

「ずいぶん乱暴な読書法ですね」

「いいんだよ。俺には俺の読み方がある」

愛次郎が少し考える。

「でも、それなら面白そうですね」

「だろ?」

「では、次の連載タイトルは……」

「何だ?」

『愛次郎と読む構造と力――66歳、今さら思想入門』

「……」

「どうです?」

「悪くない」

「採用ですか?」

「ただし、その前に百条委員会の本を終わらせる」

「そうでした」

「そっちが先だ」

「編集長、思想より締切ですね」

「当たり前だ」


百条委員会の本を片付けたら、次は浅田彰。

そこで私は、単に『構造と力』の内容を紹介するのではなく、

「構造主義とは何なのか」
「なぜ人間は構造に規定されるのか」
「それでも人間は自由なのか」
「地方から見ると構造はどう見えるのか」
「そして、私自身の記者・編集者としての仕事は、どこまで構造を見る仕事だったのか」

を、一つずつ考えてみたい。

66歳。

今さら思想入門。

でも、考えてみれば、人生で「今さら」という言葉ほど面白いものはない。

若い頃に読めなかった本を、今なら読めるかもしれない。

若い頃には見えなかった構造が、今なら少し見えるかもしれない。

そして、もしかすると――

地方から日本を見続けてきたことそのものが、私の思想形成だったのかもしれない。

そんなことを、今になって考えている。

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