業,宿業についてPart 2
前回の記事では、業、宿業について、主に歎異抄13条に関して述べた。
今回は、浄土真宗聖典註釈版によって述べたい。
註釈版の巻末には、要語解説があって全部で17の真宗に関する要語、キーワードについて詳しい解説が載せてある。第一番目「阿弥陀仏」を始めとして最後17番目の「本願」まで丁寧で分かりやすい説明がある。その5 番目に「業、宿業」について17のキーワードの中で最も多くのページをさいて解説がなされている。それほどこれまでに誤解をされ、また誤った解釈が一部に流布してきたためにそれらの解釈や誤解を正すために多くの丁寧な説明が必要となったと考えられる。
それによると業や宿業の考えは元より仏教にあったものであり、宿業とは、過去世の業のことである。業とは、サンスクリット語でカルマン「行い」を意味し、仏教ではその行いは、3つの方法で示される。すなわち身、口、意の3つである。文字通り身体を使って示す、口つまり言葉を使って示す。さらに言葉は考え。思い、感じからもくる、つまり意識を通して示す。これを身口意の三業と呼ぶ。十悪と呼ばれる10の悪業はこの三業によって作られる。まず身によって、殺生、偸盗、邪淫、口によって、悪、両舌、綺語、妄語、そして、意によって、3 毒と呼ばれる煩悩の元となる愚痴、瞋恚、貪欲が作られ。計10である。
つまり業は、罪悪を作るのである。良いことも作るが、これは善業と呼ばれる。
次に大切な点をそのまま引用する。
「元来仏教の業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場に立つ業論である。それは、衆縁によって成り立つ自己を、縁起的存在であるとみ、固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調する立場であった。 ことに親鸞聖人が用いられた業には、三つの用法があったとうかがえる。第一は、法蔵菩薩の本願よりおこる智慧清浄の業と、その果徳としての阿弥陀仏の「大願業力」とであり、第ニには、その阿弥陀仏の大智大悲の光明に映し出され、あきらかに知らされた煩悩具足の凡夫のすがたを、機の深信として表白されたときに用いられる「罪業深重」の業である。第三には、かかる罪業深重の私の上に、如来より回向された大行/大信を「本願名号正定業」とか「称名正定業」とか、「至心信楽の業因」といわれるときの業がそれである。従来の浄土真宗の業に対する誤解は、その第二の用法にみられる「罪業」とか「業障」という言葉だけが、機の深信から切り離されて取り上げられたところから生ずるものである。」引用終わり
つまり御開山は、業と言う言葉を衆生について用いるときと、阿弥陀仏如来のはたらきに対して用いるときがあり、
誤解は、衆生に対する用法が、「機の深信」で用いられる文脈から切り離されて、単独で「罪業」や「業障」や広く「業」と言う言葉だけが取り上げられ、ひとり歩きしたと言う問題である。
ここでのキーワードは、やはり「機の深信」であろう。すなわち個人の宗教的な理解である領解の中で、自分で「法の深信」(阿弥陀仏の大智大悲の光明に映し出され、願力に乗じて、定めて往生を得と深く信じること)と共にいただく領解を自分以外の人が用いることから生じる誤解または異義があり続けたということである。
さらに江戸、明治時代には説教師までもが誤った文脈で業や、宿業と言う言葉を用いたという歴史的事実がある。
法義が政治的に誤って曲げられた点を解説はくわしく説明している。
歎異抄に指摘されてもいる様に、御法義が正しく伝わることの難しさを感じると共に、聞法の大切さを改めて教えていただいた。
