日本人はなぜご飯を混ぜないのか
ひょんなことから知ったZINE(個人制作の小冊子)を買ってみた。タイトルは『白と透明 にっぽんの米・酒・口内調味』(ワダヨシ著)。
内容をざっくり言うと、日本人の白米への信仰、そこから繋がる口内調味という日本人ならではの食べ方について書かれている。

特に興味深かったのは、ぶっかけ飯の話だ。ご飯に汁や具をぶっかけて食べるあの食べ方は、日本では下卑た食べ方とされている。神聖なる白米を汚すなどケシカランと。
しかし一方で、日本人は口内調味をする。食卓では白米を白米のまま保ちながら、口の中では積極的におかずと混ぜ合わせる。外では混ぜない。でも口の中では混ぜる。
この矛盾というか、倒錯した構造が気になって、しばらく頭から離れなかった。
ワダヨシ氏としては、白米信仰や純粋性を重視する日本人の精神性や食文化を中心に論じているが、そこから私が考えたのは「混ぜる・混ぜない」という行為そのものと、その裏側にある日本人の民族性や行動様式についてだった。
外で混ぜないのは、中で混ぜたいから
アジアには米を主食とする国が数多くあるが、確かに日本ほど白米を白米のまま食べることに価値を置く国は少ないように思う。
最初は単純に「米を神聖化しているからだろう」と思っていた。しかし冊子を読みながら、もっと別の話が潜んでいる気がしてきた。
韓国のビビンパは食べる前に均一に混ぜる。スリランカカレーやエジプトのコシャリもよく混ぜてナンボだ。全体を均一な味の状態にしてから口に運ぶ。
一方で日本の食事は、白米と漬物、白米と焼き魚、白米と味噌汁。それぞれが独立した状態で食卓に並ぶ。口に入るまでは混ざり合うことなく境界線が保たれていて、なんというか、そこには秩序がある。
しかしその秩序は、口の中に入った瞬間に崩壊する。白米とおかずが、外からは見えない口の中で合流し、好き勝手に混ざり合う。
これが口内調味だ。ワダヨシさんの言葉を借りると、「密室の中で官能的に攪拌する」行為である。そしてこの食べ方は、日本人だけに見られる行動だという。
味の均一化を嫌うのは、グラデーションを楽しみたいからだろう。私の場合はそうだ。濃いところと薄いところ、その差がある状態で口に入れることで、はじめて口の中での味の設計ができる。最初から混ぜ混ぜして均一にされてしまったら、味が単調だし、口の中でやることがないではないか。
これが、ご飯とおかずを混ぜない第一の理由だと考えている。
本当に混ぜるのが嫌いなのか
もっとも、日本人がご飯とおかずを均一に混ぜることを一様に嫌っているわけではない。
卵かけご飯、納豆ご飯、とろろご飯、冷や汁などは、もう混ぜに混ぜまくる。ただ、そうした食べ方は、基本的に「お行儀」が悪いものとされ、どこか背徳感がつきまとうのも事実。これはワダヨシさんも指摘していた。
ここで気になったのが、フレンチのマナーとの比較だ。フランス料理にも、音を立てずに食べる、美しい姿勢を保つ、カトラリーを正しく使うといった細かい作法がある。表面上は日本の「お行儀」と似ているが、ではフランス人にも背徳感を感じる食べ方というものがあるのだろうか。
直接的な答えはわからないが、ただ、調べる中で面白いことがわかった。
フレンチのマナーは宮廷料理から生まれた。同席する王侯貴族に対して、自分の教養と階級(格)を示すための作法として発展したらしい。つまり外向きの自己表現の一種なのだ。
日本の食事のマナーとは根本が違う。日本は「みっともない姿を人前では見せない」という抑制に近く、恥の文化の延長線上にある。
フランスのマナーが「見せるためのマナー」だとしたら、日本のマナーは「見せないためのマナー」と言えるかもしれない。
建前と口内調味
日本は古来より農耕社会で、同じ集落の人間と一生付き合い続ける文化が長く続いた。逃げ場がない。本音をぶつけ合って関係が壊れたら、それだけで詰む。田んぼの管理ひとつとっても共同作業で、集団の和を乱せない。そうした環境の中で、摩擦を避ける知恵として建前が発達した。
そして、口内調味はこの建前の文化から生まれた…というのはさすがに飛躍しすぎか。
しかし、食卓では混ぜず、口の中でだけ混ぜるという行為は、妙に日本人の精神性と符合する気がするのだ。
清廉、慎み、体裁、恥、隠微、秘匿、背徳。
人前では体面を取り繕う。おすまし顔できれいに食べ、境界線を守る。しかし口の中という私的な空間では、誰にも見せずにぐちゃぐちゃに混ぜて官能にむせび泣いている。
やっぱり我々日本人は全員ド変態だ。
参考文献:『白と透明 にっぽんの米・酒・口内調味』 ワダヨシ 著/ferment books 刊
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酒代になりますがいいんですか?本当に?