削ぎ落とした先に、息づくもの
物を減らすと、余白ができる。
使わなくなった本を手放して、棚を空ける。
着なくなった服を整理して、クローゼットを軽くする。
物が少なくなると、掃除もしやすいし、 探し物をすることも減る。
だから、持たない暮らしには、 いいところがたくさんある。
私の部屋は散らかっているけれど、物は少ない方がいいなと思うことが多い。
でも、ミニマリストの暮らしを見ていて、 ときどき不思議に思うことがある。
物はこんなに少ないのに、 どうして息苦しそうに見えることがあるのだろう、と。
これは必要なのか。
あれはなくても困らないのか。
もっと減らせないか。
持ち物を減らすために、 ずいぶんたくさんのことを考えている。
なんだか余白をつくるために、 余白まで管理しているようだ。
たとえば、服について考えてみる。
10着あれば十分。
着回しのしやすい服を選ぶ。
一年中使えるものを選ぶ。
確かに合理的だけれど、「この服が着たい」 という気持ちまで、 合理的にする必要はないと思う。
今日は、澄み渡った青空のようなブルーのシャツが着たい。
アタリが出てきてクタッとしたデニムパンツが、なんとなく好き。
一年に数回しか出番がなくても、 クローゼットにあると心が弾むロングコート。
そんな理由で服を選ぶこともある。
年に数回しか着ない服を、あえて残しておくこともある。
必要とは言い切れないけれど、好きだから。
そういうものまで、 「必要か」「必要でないか」で考え始めると、 暮らしの中から少しずつ、 遊びのようなものがなくなっていく感じがする。
余白をつくるために、 物を減らしている。
それなのに、 余白まで合理的にしようとしている。
これは、ちょっとおかしな感じがしてしまう。
余白というのは、 ただ何もないということではない。
そこに存在するものの意味や美しさを引き立て、思考や感情が伸びやかに巡るための「豊かな気配」と呼べないだろうか。
予定のない日がある。
使う予定のない器がひとつある。
着回しを考えずに買った服が一着ある。
「なくてもいいもの」や「決めなくてもいい時間」が、暮らしにはあっていい。
物を減らすことより、何を残すか。
合理的に暮らすことより、少しくらい無駄を楽しむこと。
物が少ないだけでは、本当の意味での余白は生まれない。
合理性ですべてを埋めるのではなく、合理性では埋めきれない場所を残しておく。
その中に、自分にとって大切なものが残ったり、思いがけない出合いがあったりするのだろう。
そうやって残された余白が、私自身を豊かにしてくれるのかもしれない。
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