⑯season2 第十六話「二冊目」
⓪
魚の匂いがした。
夕方。
本折商店街の魚屋。
佐々木は、店先で発泡スチロールの箱を片づけていた。
「佐々木さん」
声をかけられ、
顔を上げる。
男が一人立っていた。
眼鏡。
少しくたびれた鞄。
どこか大学の先生のような雰囲気。
「なんや。今日はもうええ魚ないぞ」
「魚を買いに来たんじゃありません」
「魚屋に来て魚買わんのか」
男は少し笑った。
鞄から、
紙に包まれたものを取り出した。
厚みがある。
本くらいの大きさ。
「これを、少し預かってもらえませんか」
佐々木が眉を寄せる。
「なんやこれ」
「帳面です」
「帳面?」
「はい」
「自分で持っとれんのか」
男は答えなかった。
佐々木が包みを受け取る。
ずしりと重い。
「いつまで?」
「取りに来られれば、私が」
「来られんかったら?」
男は、
少しだけ黙った。
「その時は――」
商店街の向こうを見る。
「幸村さんに」
佐々木の顔が変わる。
「幸村さん?」
「はい」
「食堂の?」
男は頷いた。
「でも」
佐々木が包みを見る。
「俺から渡しゃええんか」
男は、
静かに言った。
「佐々木さんから渡せる時が来たら」
「……なんやそれ」
佐々木が笑う。
「先生らしいややこしい言い方やな」
男は笑わなかった。
「一つだけ」
「何や」
「誰かがこれを探しに来ても」
佐々木を見る。
「名前を言わないでください」
「誰の?」
男は答えなかった。
そして、
店を出た。
佐々木は包みを見た。
「変な人やな……」
奥の棚。
魚の仕入れ帳の間へ押し込む。
その数日後。
佐々木の魚屋は――
この世界から消えた。
⸻
一
無音管理局へ戻ってからも、
きみおの頭には一文字が残っていた。
関。
消えた村。
宮西の紙。
老人の言葉。
――関の向こうへ行っただけかもしれんぞ。
そして、
関を越えるな。
きみおは管理局の机に座っていた。
目の前には、
宮西が残した最初のノート。
幸村家へ届いたものだ。
第14話で見つけた紙には、
こうあった。
一冊目を信用するな。
きみおは、
その文章を何度目か分からないほど見つめた。
池本が向かいでお茶を飲んでいる。
「穴開くよ」
「何が」
「ノート」
「開いたら困る」
「じゃあ見るのやめれば」
「お前は黙っとれ」
アックは少し離れたところに立っていた。
きみおが顔を上げる。
「なあ」
「何だ」
「一冊目って書いてあるってことは」
アックは答えない。
「普通に考えたら、二冊目あるよな」
「そうだろうな」
「管理局にないんか」
「ない」
即答だった。
「探した?」
「該当する記録はない」
「宮西さん――」
アックの眉が動く。
きみおは止めた。
「……あの人の資料にも?」
「ない」
きみおはノートを閉じた。
「変やな」
池本が聞く。
「何が?」
「一冊目を信用するなって」
表紙を指で叩く。
「二冊目が見つからんかったら、意味ないやろ」
「そうだね」
「なら」
きみおが考える。
「あの人は、二冊目が残るって分かっとった」
アックがきみおを見る。
きみおは続けた。
「記録から消える場所でも」
「……」
「管理局に探されても」
「……」
「残る場所」
池本の湯呑みが止まった。
きみおは、
それを見た。
「なんや」
「何が?」
「今、なんか思ったやろ」
「別に」
「お前は顔に出る」
「きみおほどじゃないよ」
「どこや」
「知らない」
「池本」
「知らないって」
きみおはしばらく池本を見る。
その時。
ノートから、
一枚の紙が床へ落ちた。
古い紙。
きみおが拾う。
「こんなん入っとったか?」
小さな紙だった。
レシート。
店名。
文字はかなり薄くなっている。
きみおが読む。
佐々木鮮魚店。
手が止まった。
「……佐々木さん?」
池本も覗く。
魚。
金額。
日付。
何の変哲もないレシート。
ところが裏側。
鉛筆で、
小さく文字が書いてある。
預けた。
それだけ。
きみおは、
ゆっくり池本を見る。
「まさかな」
池本は答えない。
「佐々木さんが持っとる?」
アックが反応した。
「何を」
きみおは、
レシートを握った。
「二冊目や」
⸻
二
「幸村食堂へ戻る」
きみおが言った。
アックが止める。
「待て」
「なんや」
「確認できていない」
「確認しに行くんや」
「管理局で調べる」
「無理やろ」
きみおはアックを見る。
「佐々木さんは、お前らの記録から消えた」
アックは黙る。
「でも俺は覚えとる」
さらに、
レシートを見せる。
「これも残った」
「偶然かもしれない」
「ほんなら偶然か確認してくる」
池本が立ち上がった。
「飛ぶ?」
きみおの顔が曇る。
「……車は」
「時間かかるよ」
「歩きは」
「もっと」
きみおはため息をつく。
「絶対ゆっくり飛べよ」
「努力する」
「努力やなく約束しろ」
⸻
本折商店街。
夕方。
きみおの足が地面についた瞬間、
膝が少し曲がった。
「……何回乗っても慣れん」
「今日は優しかったでしょ」
「最初よりはな」
幸村食堂。
シャッターを開ける。
中に澪がいた。
「きみおさん?」
驚いた顔。
「帰ってきたんですか?」
「ちょっとだけ」
「何かあったんですか」
きみおは少し迷った。
全部は話さない。
「確認したいことがある」
厨房へ。
父・高徳の古い作業台。
隠し場所を開く。
木箱。
四角いレコード。
澪が近づく。
「使うんですか」
「一本だけ」
澪は、
服の上から二本目の針を確かめた。
「これは?」
「そのまま持っとって」
「分かりました」
「俺が何言うても渡すなよ」
澪が少し笑う。
「何回言うんですか」
「大事なことやからや」
木箱から、
四角いレコードを出す。
溝。
楕円から円へ近づいている。
きみおの右手が、
少し熱くなった。
一本の針。
近づける。
「佐々木さん」
澪が息を呑む。
カチ。
針を落とした。
⸻
ザー……。
雑音。
何もない本折商店街。
その向こうに、
別の景色が浮かんでくる。
青いのれん。
魚。
氷。
包丁。
「……出た」
佐々木の魚屋。
佐々木が店の奥にいる。
「佐々木さん!」
声は届かない。
ザー……。
「佐々木さん!」
佐々木が顔を上げた。
こちらを見る。
そして――
笑った。
口が動く。
『また来たんか』
雑音に混ざり、
声が届く。
きみおは思わず笑った。
「おう!」
澪が、
その横で佐々木を見る。
きみおが叫ぶ。
「佐々木さん!」
「聞きたいことある!」
佐々木が耳を傾ける。
「なんか預かっとらんか!」
『何を?』
「帳面!」
佐々木が眉を寄せる。
「先生みたいな人から!」
その瞬間。
佐々木の顔が変わった。
きみおの胸が鳴る。
「あるんか!」
佐々木は、
店の奥を見る。
歩いていく。
棚。
仕入れ帳。
新聞。
古い紙。
そして――
一つの包みを取り出した。
きみおの呼吸が止まった。
「……それや」
佐々木が、
紙を外す。
中から現れたのは、
一冊のノート。
古い。
一冊目と、
よく似ている。
でも、
表紙の色が違う。
佐々木が言った。
『これか?』
きみおは、
答えることも忘れて見ていた。
「いつから持っとった」
『ずっと』
「誰にも見せてない?」
『見るな言われたからな』
「誰に」
佐々木が、
少し考える。
『眼鏡の人』
きみおの胸がざわつく。
「名前は?」
佐々木は首を振った。
『聞いとらん』
その答えに、
きみおは逆に確信した。
宮西は、
自分の名前すら佐々木に教えなかった。
最初から――
消えることを想定していた。
⸻
三
「佐々木さん」
きみおが言った。
「そのノート、俺に渡してくれ」
佐々木が頷く。
『そう言われとる』
「何?」
『あんたに渡せって』
きみおの顔が変わる。
「俺に?」
『幸村さんにって』
澪も、
隣で息を呑んだ。
佐々木が、
こちらへ近づいてくる。
ノートを持つ。
魚屋の前。
こちら側と、
向こう側。
二つの本折商店街が重なっている。
きみおも手を伸ばした。
「頼む」
佐々木が、
ノートを差し出す。
あと少し。
きみおの指。
ノート。
触れる――
はずだった。
バチッ。
白い光。
きみおの手が弾かれた。
「うわっ!」
澪が支える。
「きみおさん!」
佐々木も驚いている。
『大丈夫か!』
「なんや今の!」
もう一度、
手を伸ばす。
バチン!
今度はもっと強い。
きみおは後ろへ倒れた。
右手の溝が、
焼けるように熱い。
「くそ……」
池本がレコードを見る。
表情が変わる。
「きみお」
「何や」
「無理だ」
「何が」
池本が、
佐々木のノートを見る。
「こっちには持ってこれない」
「なんでや!」
「向こう側にある物だから」
「佐々木さん見えとるやろ!」
「見るのと、持ってくるのは違う」
きみおは黙った。
第15話。
老人の言葉。
関の向こうへ行っただけかもしれんぞ。
きみおが、
ゆっくり池本を見る。
「……関?」
池本は答えない。
佐々木が向こう側で、
ノートを開いた。
『読めばええんか?』
「待て!」
きみおが近づく。
「何書いてある!」
佐々木が最初のページを見る。
表情が変わった。
『幸村さん』
「何や」
佐々木は、
こちらへページを向けた。
雑音。
景色が揺れ始める。
「もう少し近づけて!」
『これで見えるか!』
一瞬。
文字が見えた。
宮西の筆跡。
最初の一行。
この二冊目を読んでいる者へ。
きみおの目が見開く。
「やっぱり……」
二冊目。
本当にあった。
その下。
もう一行。
景色が歪む。
「待て!」
きみおが目を凝らす。
文字。
かすれている。
でも読める。
一冊目には、管理局に読ませるための嘘を混ぜた。
きみおの顔が固まった。
「……嘘?」
池本が顔を上げる。
澪も。
佐々木が次の行を見る。
「佐々木さん!」
「その下!」
『ちょっと待て!』
雑音が激しくなる。
ザーッ――。
魚屋が薄くなる。
「佐々木さん!」
佐々木が叫ぶ。
『次や!』
「何て書いてある!」
声が途切れる。
『――を……』
「聞こえん!」
『関を――』
きみおの身体が止まった。
「関?」
佐々木が、
何か叫んでいる。
ザーッ!
景色が崩れる。
最後の一瞬。
ページの一行だけが見えた。
関を越える者を、名で判断するな。
きみおは、
息を止めた。
宮西ノート。
第一冊にもあった言葉。
しかし――
二冊目には、
その下に続きがある。
きみおが目を凝らす。
もう一行。
ほんの一瞬。
幸村きみおだけは――
そこで。
プツン。
景色が消えた。
針が、
四角いレコードから外れた。
静寂。
「……おい」
きみおは、
何もない場所を見る。
「続きは?」
返事はない。
「俺だけは、何や!」
四角いレコードは、
何も答えない。
右手の溝だけが、
熱を持っている。
池本が小さく言った。
「きみお」
「何や」
「二冊目を読むには」
きみおも分かっていた。
佐々木のいる場所へ行く。
向こう側へ。
そして――
関を越える。
きみおは、
一本の針を握った。
「行くしかないな」
澪が言った。
「どこへ?」
きみおは答えなかった。
その代わり、
四角いレコードを見る。
楕円の溝が、
またほんの少し――
円へ近づいていた。
⸻
第16話「二冊目」――終
編集後記
第14話で出てきた、
「一冊目を信用するな。」
その意味が、
今回ようやく少しだけ見えてきました。
宮西正治は、
一冊ではなく二冊のノートを残していた。
そして二冊目を持っていたのは――
Season 1の第1話で消えた、
魚屋の佐々木さん。
最初に消えた人物が、
ここへ来てもう一度、
物語の大きな鍵を持つことになりました。
なぜ宮西は佐々木を選んだのか。
なぜ佐々木が消えることを予想できたのか。
その答えは、まだ出しません。
そして二冊目には、
さらに厄介な一文がありました。
一冊目には、管理局に読ませるための嘘を混ぜた。
では――
これまできみおが信じてきた一冊目のどこまでが本当で、
どこからが嘘なのでしょうか。
さらに、
関を越える者を、名で判断するな。
そして途中で消えた、
幸村きみおだけは――
という一文。
その続きを知るには、
二冊目を読むしかありません。
しかし二冊目は、
こちら側には持ってこられない。
次にきみおが向かう場所は、
もう一つしかありません。
次回 第17話「関」
こちら側と、向こう側。
その境目で、
きみおは何を見るのでしょうか。
――二針無音
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