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視聴数と人間性――数字ゲームの時代に、私が「世界観」を描き続ける理由

最近、自分自身でも動画を本格的に制作していることもあり、他の人の動画を見る機会がかなり増えました。
特にYouTubeのショート動画やTikTokなどに触れることが多くなっています。

しかし、そうしたコンテンツに日々触れる中で、どうしても心の中に強く湧き上がってくる感情があります。

それは、 「視聴数と倫理の問題」とでもいうべきか、 「視聴数と人間性の問題」とでもいうべきか……ということです。

アルゴリズムが求める「1秒のフック」


ショート動画やTikTokという文化は、最初の1秒で「興味がない」と判断されれば、指先ひとつで一瞬にしてスワイプされてしまう世界です。

そして、配信システムのAIは、「すぐにスワイプされない動画」「できるだけ長く視聴される動画」「コメントが多くつく動画」「チャンネルに長く滞在される動画」を優遇するように設計されています。

だからこそクリエイターたちは、いわゆる「フック」のために冒頭の数秒に命を懸け、コメントを促す仕掛けを作り、派手な演出をし、視聴者を少しでも長く引き止めようと工夫を凝らします。

けれど、その「工夫」のあり方に、私はどうしても強い疑問と違和感を抱いてしまうのです。


人の死や悲劇を、数字のために消費する違和感

もちろん、ショート動画の中にも見ていて本当に面白かったり、心が温まったり、知的好奇心を満たしてくれる素晴らしいコンテンツはたくさんあります。

ですが、そうではないものも確実に溢れています。

例えば最近強く思うのは、「実際に人が命を落としている瞬間の映像(事故の瞬間や、遠くから建物が爆発・倒壊する映像など)」を冒頭で見せ、それをフックにして解説を始めるような動画です。

直近でも、大きな地震で起きた商業施設の爆発映像などを、平然と動画の冒頭に使っている人たちを見かけました。

自分の感覚がおかしいのでしょうか。
私は、そうした動画に対してものすごい違和感と、強い嫌悪感を抱いてしまいます。

だって、その映像の向こうで、現実に人が亡くなっているのです。

ニュースや新聞で「言葉として事実を伝える」とは意味が違う。
明らかに、人の興味や感情を揺さぶることを意図している。
人の死というものを利用して。

そこまでして、視聴数を増やしたいのでしょうか。
そこまでして、コメントや「いいね」が欲しいのでしょうか。

「9.11」の記憶と、変わらない人間の業

昔、教員採用試験に向けて教育委員会が主催する学習会に参加し、集団討議の練習をしていた頃のことを思い出します。

ちょうどその数年前、9.11(アメリカ同時多発テロ)が起きたころでした。

航空機がビルに突っ込むというあまりにも悲惨な映像が、連日あらゆるニュースやワイドショーで繰り返し流され続けていました。

道徳的なテーマの話し合いになった時、私はこう意見を言いました。
「今この瞬間にも大勢の方々が亡くなり、苦しんでいるのに、人の興味を引くかのように衝撃的な映像を何度も流し続けるのは良くないことだと思います」と。

あのとき、そこにいた他の討議のメンバーには、なんというか、本質的には伝わっていない、わかってもらえていなかった感覚が残りました。

でも、今もまた、このような文化に対して、自分の感覚とずれているというその感覚そのものが、昔、その討議の練習会の時に感じた「伝わっていない」という違和感に似ているような気がするのです。

映画やゲームではありません。
フィクションではなく、まぎれもない現実の命です。

人の興味や心を刺激し、画面に引き込もうとする。
たとえそれが「人の死」や「他者の悲劇」であったとしても――。

今、ショート動画の世界で起きている過激な映像の使い方は、あの頃から何も変わっていない、むしろ、より手軽に、誰でもできるようになったことで、悪化し、それがまかり通ってしまっているように思えてなりません。

でも、これは作る側だけの問題ではないと思います。
観る人もたくさんいるから、その心理を利用する。

なんというか…
荒んでいる。

そういうものを観て、引きつけられてしまう心理ということなのでしょうか。

自分にはどうしても理解できない感覚です。

社会への迷惑行為を動画にして炎上を狙う人たちも同じです。

多額の損害賠償や法的な問題に発展しているにもかかわらず、なぜかまた誰かが同じことを繰り返す。
すべては「視聴数を稼ぎたい」「有名になりたい」という、数字への執着のためです。

そしてそれを見て面白がる人たち。
煽るようなコメントを書くような人たち。

何なのでしょうか…。

不安を煽るだけの「数字ハック」は、創作なのか?


それだけではありません。
タイムラインには様々な「ノウハウ動画」も溢れかえっています。

しかしその多くを見ていると、「不安を煽って人を釣るだけの不誠実な構造」が透けて見え、論理的にも倫理的にも本当に嫌気がさしてしまいます。

この設定をしていないと絶対に伸びません!」「このままだとチャンネルが終わります」と大げさに騒ぎ立てる動画のフタを開けてみれば、普通にやっていれば最初からデフォルトでそうなっているようなことばかり。

「そんなこと当たり前にやっていますよ」と言いたくなるような内容で、視聴者を煽って引き止める。

〇日で〇〇人達成!」アルゴリズムをハックする裏ワザ!」……。

そこに並んでいるのは、ただ機械の隙間を突く「数字ゲームの作業」です。

そんなものは、創作でもクリエイティブでも何でもありません。
人の不安や射幸心を煽って数字を集める人を、私は「クリエイター」とは呼びたくありません。

効率の時代に、私は「世界観」を信じたい


自分がしたいのは、そんなことではないです。
想いを持って、こだわり抜いて創り上げたものを表現し、届けること。
それをずっと続けてきました。

1枚ずつ魂を込めて描いた手描きの絵。
キャラクターたちの息遣いや感情を考え、練り上げた言葉。
それらを丁寧に紡ぎ上げた動画。

そうした「人だからこそ生み出せる温もり」だけが、本当の意味で誰かの心を動かすことができると、私は信じていたいのです。

最初の数秒で強烈な刺激を与えたり、派手な演出で人を釣るような文化と、私が大切にしている表現は、ある意味で完全に対極にあるのかもしれません。
だから私の作品は、今のショート動画のアルゴリズムには好まれないし、爆発的な再生数にもならないのだと思います。

けれど、人の不安を煽ることも、過激さで釣ることも、小手先のマーケティングに魂を売ることも、私は絶対にやりたくありません。

数字を釣るのではなく、ただ、自分が丹精込めて創り上げた「世界観」を届けたい。

「コスパ」「タイパ」が重要視される現代において、非効率で現代には不適合な人間なのかもしれない。
時代に逆行しているのかもしれない。

でもそれでいい。
それがいい。

アニメや映画で、たまにいるキャラ。
スマートに進もうとする若い主人公たちが危機に直面した時に、経験や深さをもった年配のおっさんが、そのアナログ的な深い経験や知識で主人公たちや世界を救うという設定。

自分は、そういうキャラが好きです。
そういう人間でありたいと思ってしまう。

時代がどれだけ進み、変化しても変わらないもの。
人にはそういう大切なものがきっとある、と。

画面に表示される再生数は、ほんのわずかかもしれません。

けれど、その数字の向こう側には、毎回静かに見届けてくれる人がいる。
温かいコメントをくれたり、物語の続きを楽しみにしてくれる人がいる。

なら、それでいいのだと思うのです。

数万人に一瞬で消費される1秒よりも、たった一人の心に深く、静かに残り続ける物語を届けたい。

どんなに効率や数字ばかりが叫ばれる時代であっても、私は自分の世界観と、ものづくりへの誠実な信念を手放さずに、これからも描き続けていきたいと思います。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。



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