短編小説『誰にも見えなくても』②(古本屋の女性の視点)
夜の商店街は、すっかり静かになっていた。
私は店の奥で、便せんにそっと言葉を書いていた。
誰かの心に届くように、静かに、ていねいに。
この古本屋を始めたのは、母が遺した本棚がきっかけだった。
詩集や手紙の本、古い童話、旅のエッセイ。
どれも、誰かの時間が染みこんだような本ばかりだった。
母はよく言っていた。
「本ってね、言葉の中に灯りがあるのよ。
それを見つけた人の心に、そっと火がともるの」
その言葉が、今も私の背中を押している。
だから私は、今日もここで本を並べ、
誰かがその灯りに出会えるのを、静かに待っている。
数日前の夜のことだった。
閉店の準備をしていたとき、引き戸がそっと開いて、ひとりの青年が入ってきた。
言葉はなかったけれど、その足取りにはどこか迷いがあって、
本棚の前で立ち止まる姿が、まるで何かを探しているように見えた。
私は、ふと昔の自分を思い出していた。
誰にも気づかれたくないけれど、
誰かにそっと見つけてほしいと思っていた頃のこと。
だから、そっと詩集を手に取り、声をかけた。
「さっきから、少し疲れているように見えました」
そう言って、ある一節を指さした。
彼はしばらくその言葉を見つめていた。
そして、そっと本を棚に戻すと、
小さく会釈をして、「……ありがとうございました」と静かに言った。
その声はかすかだったけれど、たしかに届いて、
私の胸の奥に、そっと灯りがともった。
それから数日が過ぎて、今夜。
ふと気配を感じて顔を上げると、ガラス越しにその青年の姿があった。
まるで、何かを思い出すような目をしていた。
戸を少し開けると、彼は遠慮がちに近づいてきた。
「こんばんは」
「遅くにすみません」
「いえ、大丈夫です。どうぞ」
彼は、あのときの言葉を覚えていてくれた。
それだけで、胸の奥がふわりとあたたかくなった。
「……あの言葉、今夜、ふと思い出したんです」
その声には、少しだけ迷いと、やわらかな光が混じっていた。
私は静かにうなずいて話しかけた。
「言葉って、不思議ですよね。
そのときは通りすぎても、ちゃんと心に残っていて、
必要なときに、ふっと戻ってくることがあるんです」
彼は何か一冊と、棚のほうへ歩いていった。
私はそっと見守る。
選ばれた文庫本は、背表紙が少し色あせていたけれど、
中には、私が何度も読み返した一節があった。
「誰にも見えなくても、
あなたが今日を生きたことは、
ちゃんと世界のどこかに届いている。」
レジに本を持ってきた彼は、少し照れたように言った。
「……この本にします」
「いい本を選ばれましたね。
そのページ、私も好きなんです」
彼は深くおじぎをして、
「また来ます」と言って、静かに店を出ていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
誰かが、ほんの少しでも心をほどいてくれる瞬間に立ち会えること。
それは、古本屋という場所が持つ、静かな魔法なのかもしれない。
夜の空気は冷たかったけれど、
店の中には、まだ言葉のぬくもりが残っていた。
それは、誰かの心に届くまで、そっと息をひそめて待っている灯り。
私はまた、便せんに向かってペンをとる。
「今日を生きたあなたへ」
そんな一行から始まる言葉を、静かに書きはじめた。
そして最後に、そっとこう添えた。
「今日、あなたが心に灯したぬくもりが、
明日、誰かの手にそっと渡りますように」
ペンを置いたとき、胸の奥がすこしだけあたたかくなった。
それは、誰かのために書いた言葉だったけれど、
同時に、自分自身のための言葉でもあった。
私は便せんをそっと重ねて、引き出しにしまう。
また誰かが、ふと立ち寄ってくれるそのときまで。
灯りを絶やさぬように、今日もここで待っていよう
、、。
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