BL愛好家の暴走と論理破綻
2026年夏、二つの出来事が立て続けに表面化した。俳優・横浜流星の発言炎上と、漫画『日本三國』作者・松木いっか氏のSNSアカウント削除である。どちらも、BL(ボーイズラブ)愛好家の一部が示した態度が、問題の核心にある。
「ファンの迷惑行為」というより、性的ファンタジーを道徳的正当性の根拠に変換し、他者の境界を侵犯した上で、拒否する側を「差別者」として裁く、という人民裁判的な経緯に特徴がある。
1. 二つの事件の概要
横浜流星の場合
ファンクラブの限定配信で、ファンから「BL作品に出演してほしい」という要望が寄せられた。横浜は「あくまでも私個人の意見として」と前置きした上で、「BLとか、そういうの興味なくて。全然分かんないので、なし」「多様性、意味が分からないので」と答えた。需要があるから存在するのだろうが、自分は理解できない、という趣旨である。
この個人的な嗜好の表明が切り抜かれて拡散され、「BLを否定した」「多様性を理解していない」との批判が殺到した。性的志向を述べ、特定の役柄を断っただけなのに、「差別的」「抑圧的」という道徳的断罪が即座に始まった。
『日本三國』の場合
作者の松木いっか氏は、作品のキャラクターを用いたBL二次創作(特に性的な内容を含むもの)を直接送られることに不快感を表明し、「送らないでほしい」と境界を示した。作中で主人公たちには明確に妻が設定されているにもかかわらず、そうした二次創作が送りつけられていた。
この表明に対し、「ホモフォビア」「差別」との批判が集中した。謝罪をしても収まらず、最終的に松木氏はXおよびInstagramのアカウントを削除するに至った。
2. 援用される論理の破綻
これらの批判で頻繁に用いられるのが、「多様性」「包摂」「差別反対」といったDEI的な語彙である。しかし、この援用は根本的に破綻している。
第一に、個人の性的嗜好や創作上の境界を示す行為を、「差別」に読み替えるのは拡大解釈である。基本的な自己決定の主張を差別と呼ぶなら、「私はこういうものが好きではない」と述べること自体が、道徳的に許されない行為になってしまう。
第二に、批判する側が依拠する「多様性」の論理を、一貫して適用すれば、批判する側自身が矛盾に陥る。一方の嗜好だけを「正しい感性」として特権化し、拒否する側を裁くのは、多様性の否定そのものである。
第三に、より深刻なのは、BLを「LGBTQ+の味方」「ゲイの表象を肯定するもの」として位置づけようとする同一視である。これは歴史的にも構造的にも根拠薄弱だ。1990年代の「やおい論争」では、ゲイ当事者から「現実のゲイをステレオタイプ化し、玩具にしている」との批判が上がり、女性側は「フィクションだから無関係」「ほっといてください」と応じた。石田仁が後に「表象の横奪」と呼んだ問題である。当時から、BLは現実のゲイの表象を借用・商品化しながら、当事者の声を周辺化する効果を備えていた。
3. ポルノファンタジーとしての加害性
BLは本質的に、女性向けの男性同性愛ポルノファンタジーである。美形の男性同士を、特定の定型(攻め/受け、力関係の非対称性、感情の極端な一途さなど)に沿って再構成し、読者の性的・感情的欲望を充足させる装置だ。現実のゲイ男性の生活や多様性を正確に描くことを主目的とはしていない。
問題は、このファンタジーが単なる嗜好の域を超え、アイデンティティの基盤となり、さらに他者への押し付けの形をとるときだ。
フィクションの定型を、現実の俳優や作者、さらには現実のゲイ男性に投影する。
「この関係性こそが理想的だ」「この解釈を拒否するのは抑圧的だ」と主張する。
拒否されると、道徳的断罪に切り替える。
こうした過程は、性的嗜好の押しつけという形を取る。性的な想像を他者の身体や創作活動、人格に対して強制し、拒否を「悪」として処理する行為は、それ自体が暴力的である。相手の同意を必要としない性的な投影は、たとえフィクションに由来するものであっても、他者の境界を侵す行為にほかならない。
4.何を批判すべきか
BLを好み、楽しむ自由は、表現の自由に含まれる。問題なのは、その性癖を道徳的優位の根拠に変換し、他者に押しつける態度である。
「私はこれが好きだ」は自由だ。
「これを肯定しない者は差別的だ」「この解釈を拒否する作者は問題だ」は、押しつけだ。
表現の自由を守るとは、好きなものを好きでいる自由と、拒否する自由を、同じ強度で守ることを意味する。特定のポルノファンタジーを正義の側に格上げし、反対意見を非道徳と断罪する態度は、リベラルな民主主義の基盤を掘り崩す危険な教条主義にほかならない。
