1000文字掌編「口紅の蓋」
「明日の予定は、午前十時から監察医務院で解剖が一件」
秘書がそう言って、俺の手元にちらと目をやった。
「……あら。また、それを」
「いや」
俺は、口紅の蓋を握った手を、そっとポケットに戻した。彼女はそれ以上追わない。全てを承知している顔で、「では、明日」とだけ言って帰っていった。
一人になって、また蓋を取り出す。黒く四角い、親指ほどのプラスチック。金のロゴが鈍く光る、シャネルの口紅の蓋。三か月前に出て行った真夏の、忘れ物だ。角が手のひらに馴染んでいる。もう、何度こうしているかわからない。
本体は、彼女のバッグの中だろう。今ごろ別の男の部屋で、あの果実のような赤を引いている。俺のことなど、とうに忘れて。蓋だけが、ここに残った。本体を失った蓋は、もう閉じるべき相手を持たない。永遠に、半端なまま。
なんとなくメルカリを開き、同じ品番の使いかけを出品している女たちを眺める。真夏に似た誰か。けれど、いない。いても、違う。俺は画面を閉じ、蓋を左胸の内ポケットに落とした。心臓の、真上に。
翌朝、迎えの車で告げた。「シャネルの176番。新品を、仕事終わりまでに」 秘書は復唱もせず、ただ頷いた。
その日、解剖室で検めたのは刺殺体だった。腹から胸にかけて、刺創がいくつも並んでいる。外から与えられた傷による、疑いようのない死。所見を取りながら、俺はまるで違う心臓を思い出していた。
何年も前、剖検台に載った若い男。既往のない、二十代半ば。左室の壁が、内側から裂けていた。強い情動が引き金となって、心臓が文字どおり裂けることがある。稀ではあるが、あの男がそうだった。あの一件を、俺はいまだに忘れられずにいる。
眼前の刺殺体は、何も答えてくれない。記録を書き終えたとき、もう一方の手が、いつのまにか自分の左胸に触れていた。上着の上から、あの硬い角の在り処を確かめるように。またやっている、と思った。理由は、考えないことにした。
帰りの車。秘書が、包装された小箱を後部座席に置いた。それから、前を向いたまま言った。
「おこがましいですが、忠告を。未練は、ほどほどに」
「わかってる」
彼女は少し黙って、ひどく静かに続けた。
「送り出したのは、あなたのほうです。それだけは、お忘れなく。……よろしければ、蓋は私が処分しましょうか」
「大丈夫だよ」
彼女は、それ以上何も言わなかった。バックミラーの中で、一度だけ、俺を見た気がした。
帰宅して、まずシャワーを浴びる。いつものルーティンだ。脱いだスーツをハンガーに掛ける。蓋は、内ポケットに入ったまま、クローゼットの暗がりに残された。心臓の形に窪んだ布地の中で、一人きりで。
髪から水を滴らせたまま、洗面台の前に立つ。小箱を開ける。封の切られていない、誰の唇にも触れていない赤。新品でなければならない。
蓋を開け、黒いケースをひねる。赤を繰り出し、唇に引く。
ウィッグを被り、梳く。鏡の中に、名前を持たない女が立っていた。女に化けてもう数ヶ月になる。今夜も悪くない。
まだまともな標本を得られていない。
壊れる寸前の心臓を抱えた人物を、今日こそ見つけたい。
口紅に蓋をする。新品の蓋と本体は、パチン、と乾いた音を立ててあっけなく閉じた。ヒールに爪先をねじ込み、俺は玄関を出た。
途中の階で箱が止まり、男が乗ってきた。男は目を伏せ、伏せきれず、鏡越しにこちらを見た。
一階に着いた。扉が開いてから、男は言った。
「あの、よかったら、食事でも」
俺は無言で微笑み、男の横をすり抜けて、夜に出た。
1000字掌編30日チャレンジ、18日目。
AIに、30日分のタイトルを作ってもらいました。1時間以内に制作という自主条件で、挑戦中です。
今回は「口紅の蓋」というお題でしたので、未解決のものほど捨て難いという話を書きました。
1日目「鍵の行方」
2日目「氷の入ったコップ」
3日目「母の字」
4日目「朝の電車」
5日目「塩の量」
6日目「隣の声」
7日目「写真の整理」
8日目「友人の幸福」
9日目「傘の骨」
10日目「時間の貸し借り」
11日目「声の高さ」
12日目「週末の約束」
13日目「名前を呼ぶ練習」
14日目「コーヒーカップの欠け」
15日目「雨の夜の帰宅」
16日目「窓の外の木」
17日目「忘れた約束」
💋18日目「口紅の蓋」
19日目「二つの傘立て」
20日目「返事の遅さ」
21日目「砂糖の位置」
22日目「走る練習」
23日目「先に寝る」
24日目「知らない町の地図」
25日目「誕生日の電話」
26日目「夏と嘘」
27日目「図書館の予約」
28日目「夕方と影」
29日目「手紙の封」
30日目「ぬるいお茶」
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