【遠距離恋愛、連載】第35話「忘れられない人と、まだ知らない想い」
前回の続き
彼女を失い、愛を失い、それでも結婚した10年の軌跡、第35話

年末。
毎年恒例の職場の忘年会の日だった。
居酒屋の扉を開けると、店内はすでに熱気に包まれていた。
誰かの笑い声。ジョッキがぶつかる音。焼き鳥の香り。
仕事納めを前にした解放感が、店中に広がっている。
「亮平、こっち」
上司に呼ばれ、空いている席へ向かう。
そこに座っていたのが優だった。
「お疲れさまです」
少し緊張したように頭を下げる。
「ああ、お疲れ」
優は昨年入社した4歳年下の後輩だった。
仕事では何度か顔を合わせている。
けれど、こうしてゆっくり話すのは初めてだった。
乾杯の声が上がり、グラスを合わせる。
最初は仕事の話だった。
職場の失敗談。上司の愚痴。
新人ならではの苦労話。
優はよく笑う。
その笑顔には変な駆け引きがなくて、一緒にいると不思議と肩の力が抜けた。
「先輩って、好きな音楽とかあるんですか?」
ふと、そんなことを聞かれた。
「最近のはあまり詳しくないけどな」
そう言って、何気なくアーティストの名前を口にする。
すると優の表情がぱっと明るくなった。
「えっ、本当ですか? 私も大好きなんです」
思わず顔を上げた。
「ライブも行ったんですよ」
その名前を聞いた瞬間だった。
胸の奥で、止まっていた時間が小さく動く。
景子が好きだったアーティスト。
札幌へ向かう飛行機の中で聴いた曲。
車の中で流れていたメロディ。
電話越しに口ずさんでいたサビ。
忘れたと思っていた記憶が、一瞬で蘇った。
「先輩はどの曲が好きなんですか?」
優が楽しそうに聞く。
亮平は少しだけ考えた。
そして口にしたのは、景子とよく聴いていた曲だった。
「あ、その曲いいですよね!」
優は本当に嬉しそうに笑った。
同じ曲の話をしている。
なのに。
そこにいるのは景子じゃない。
分かっている。
分かっているのに、心のどこかで比べてしまう。
あの笑顔。
あの声。
あの時間。
もう戻らないものばかりなのに。
「今度、おすすめ教えてください」
「機会があればな」
そう答えながらジョッキに口をつける。
賑やかな店内とは裏腹に、自分の中だけが静かだった。
――まだ忘れられてないのか。
そんな言葉が胸の奥に沈んだ。
翌日。
会社を出ると、偶然優も同じタイミングだった。
「先輩」
昨日と同じ笑顔。
何も知らない顔。
「昨日、楽しかったです」
「そうか」
「また音楽の話したいです」
そう言われても、亮平はどこか曖昧に笑うことしかできなかった。
2人は自然と並んで駅へ向かう。
仕事の話。
休日の過ごし方。
好きな映画。
他愛もない会話なのに、不思議と途切れない。
「先輩って」
優が歩きながら言った。
「ちゃんと話すと優しいですよね」
「ちゃんと話すと、って何だよ」
「普段ちょっと怖いです」
そう言って笑う。
亮平もつられて笑った。
その瞬間だった。
景子と話していた頃の自分を思い出す。
あの頃も、こんなふうに何気ない会話が楽しかった。
何でもない一言で、一日が少し特別になった。
そんな時間が確かにあった。
駅の改札が見えてきた。
「先輩」
優がスマートフォンを取り出す。
「LINE交換しません?」
一瞬だけ迷った。
景子と連絡が途絶えてから。
誰かとの距離が近づくことを、どこかで避けていた気がする。
けれど。
断る理由も見つからなかった。
「ああ、いいよ」
QRコードを読み取る。
「やった」
優は素直に笑った。
その笑顔は眩しかった。
まるで迷いがない。
だからこそ、少しだけ羨ましかった。
その日の夜。
帰宅してしばらくすると、携帯が震えた。
優からだった。
『今日はありがとうございました。また音楽の話したいです』
短いメッセージ。
亮平は画面を見つめる。
誰かから連絡が来る。
誰かと繋がっている。
そんな当たり前のことが、少しだけ久しぶりだった。
景子を失ってから、心のどこかが止まったままだった。
けれど――
その止まった時間のすぐ隣で。
まだ自分の知らない何かが、静かに動き始めていた。
第36話に続く
※次回以降、毎週水曜日、土曜日の週2回、連載を投稿予定しています。
引き続きご期待ください。
【マガジンを作りました、過去の話はこちらから】
「遠距離恋愛、10年の軌跡、秋の章」
「四季を越えて愛、総集編」
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