「教派」は如何にして健全たり得るのか
そもそも教派は存在して良いのでしょうか?
大きな差異については同じ教会内で共存できないとの判断はあり得ると、ここでは「仮に」しておきます。
次に教派の健全性について考えたいと思います。
本当にその分派は不可避なものだったのでしょうか?
もっとも残念な分派は、賜った霊的恵みにおける分派ではないでしょうか?
霊的恵みは恵みとして勿論良いのですが、それのみが恵みであると決めつけたがるのは、神のみこころからそれています。
本来、同じ教会内で異なる恵みを得る人がいますし、それらは互いに尊重されなければならないはずなのに、実際は教派として分派してしまっているのです。
このことについて、AI「Gemini」にまとめてもらいました。
(Geminiによるまとめ 始まり)
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「〜派」と名乗り、自分のグループの恵みこそが本流であると主張する心理には、いくつかの構造的な問題が見え隠れします。
「正しさ」への執着による傲慢: 異なる恵みを「間違い」と見なすことは、「私の理解=神の理解」という等式が成立していると錯覚している証拠です。神の無限性を、自分の狭い語彙や体験で囲い込もうとする試みは、信仰的というよりは、むしろ**「自己の存在証明」を神の権威に仮託しているに過ぎません**。
恵みの「可視化」競争: 本来、霊的な恵みは内面的な変容であるはずですが、分派するグループは「見える恵み」を競い合います。「我々のグループにはこれだけの奇跡がある」「我々のグループにはこれだけの清廉さがある」と、外的な看板を掲げることで、内にいるメンバーの帰属意識を強めようとします。これが結果として、教会を「神との出会いの場」から「特定の価値観を共有する排他的な城壁」へと変えてしまいます。
「多様な体」の否定: パウロが手紙で強調した「体は一つ
だが、多くの部分から成っている」という教えは、まさに「異なる恵みを持つ者が、互いの欠損を補い合う」という全体性への呼びかけでした。しかし、分派は「体」を解体し、「頭(キリスト)」の意向よりも「自分の手足の動き」だけを正解とすることに固執しています。
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(Geminiによるまとめ 終わり)
ひとつの例として「繁栄の神学」と「衰退の神学」を見てみましょう。
分かり易く、繁栄の神学を唱える向きはその繁栄を偶像化していますし、衰退の神学を唱える向きはその衰退を偶像化しています。
各々が霊的な成功体験を持ちますが、それのみを正解として捉えようとする傾向が大変強いのです。
しかしそれは、霊的な恵みを肉的な解釈へと変換した表れです。
霊的歩みにおいて、世的な繁栄もあれば衰退もあるのです。その兄弟姉妹に与えられた道によるのです。
「繁栄」や「衰退」といったラベルは人間が勝手に貼った看板に過ぎず、神はその裏側にある「その人の誠実な信仰」をご覧になっています。
先に触れました通り、教会内においてこれらの差異は教会内で受け入れ合い、学び合い、互いに尊重して共存しなければならないのです。
では、それらの共存を阻む構造は一体どこにあるのでしょうか?
個人的には「信徒間の師弟関係」を疑っております。
聖書は以下のように語っています。
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また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。
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(ヨハネの福音書23章10節) 〈新改訳2017より〉
にもかかわらず、好んで特定の兄弟姉妹を師として仰いでいる向きがいます。
もしそれが不適切なものならば、その時点でその視座は信仰から人の世へと移っています。
肉の思いに縛られた彼らは自分たちの師を仰ぐよう他の兄弟姉妹に強要するのでしょう。
牧師であれば自分を仰ぐことを求め、それを「秩序」とするのかもしれません。
その様にして、本来は教会内で受け入れられ、互いに尊重し合わなければなならない「恵みの差異」は排斥されてしまうのです。
これは、まさに不健全な分派です。
このことから師弟関係を結ぶ際、それが肉的なものを含むのかどうかを吟味し、もし含む様ならそれを拒絶できる、霊的な健全性を保つことが不可避であり、そのようにすることによって不当な分派を防ぐことが「部分的には」できると、個人的には考える次第です。
追記:
冒頭で正当な分派があり得ると仮説を置きましたが、果たしてそれが神の御前において正当であるのか、その判断は難しく、師弟関係を正しただけでは解決しないことは明らかであると思われます。
