小説「花の夢ジロウの夢」(2)パッションフルーツの別れの歌①
パッションフルーツの花を見た。

花の不思議なかたちがそうさせたのか、少し疲れがたまっていたのよく分からないが、それからよく夢を見た。疲れがたまるといつもそうだった。
まことに人生は一炊の夢。われらのあのジロウさんも3月で会社を定年退職していた。そのジロウさんがN氏の庭のスタッフに迎えられてからひと月が経っていた。朝、目覚める前の夢は、いつも生々しいもの。
ーー7月の朝、N氏の庭が待ちかねていたようにジロウさんを迎えた。
庭ではもう小さな舞台の幕が開いていた。朝露は照明係となって舞台を輝かせ、風がその舞台の袖を揺らしていた。
ジロウさんが庭に足を踏み入れると、緑の垣根を這う蔓の間に、二つのパッションフルーツが静かにぶら下がっていた。
一つは、これから季節を楽しもうとする若い役者のように若草色の衣をまとい、もう一つは紫の衣装に着替え終えたベテラン俳優のように、朝日に照らされながら静かに出番を待っていた。
N氏はその前に立ち、紫色の実を指さした。
「右側の色づいたのは、明日あたり落ちそうだ。今年の10個目になるな。」
その声には、長年植物と暮らしてきた人だけが持つ確信があった。
「落ちる日まで分かるんですか?」
ジロウさんは思わず聞いた。
N氏は穏やかに笑った。
「医者が患者の顔色を見るようなもの。毎日見ていると、実も『そろそろ旅に出ます』と教えてくれる。」
その瞬間、紫の実が少しだけ揺れた。
「そうですよ。」
と、小さくうなずいたようにも見えた。
N氏は続ける。
「落ちてから10日ほど追熟させる。しわが寄ってくるころには、酸っぱさと甘さがけんかをやめて肩を組む。その頃が一番うまい。」
ジロウさんは紫色の実を見つめた。
人もまた若いうちは、酸っぱさと甘さが争っている。年を重ねてようやく折り合いがつき、少ししわが増えた頃に、人は本当の味わいを持つのかもしれない――そんな思いが胸をよぎった。
「若い人にはブルーベリーと並んで人気だよ。」
N氏は蔓を優しく撫でた。
「昔は時計草と呼ばれていた。寒さには弱いから、この辺では冬になるとほとんど枯れてしまう。だから軒下に温室を作って冬を越させるんだ。花が咲いて100日余り。秋にも実をつける。年2回だよ。なかなかの働き者だ。」
「1年に2度も花を咲かせるなんて、うらやましいですね。」
ジロウさんがそう言うと、N氏は笑った。
「植物は文句を言わんからな。ただ、黙って自分なりに季節の仕事をする。」
その言葉に応えるように、垣根に乗っかった葉たちがさらさらと風に身を寄せ合った。
「そうですよ。」
葉擦れの音は、そんな囁きにも聞こえた。
庭という劇場では、俳優も観客も皆、生きものだった。風が舞台に拍手を送り、夕陽が明かりを変化させる。その舞台の真ん中で、紫色のパッションフルーツは、旅立ちを静かに待っていた。
