短編小説 影
夕方の交差点で信号待ちをしているときだった。
アスファルトの上に長く伸びた自分の影が、ふと目に留まった。
西日に照らされた黒いシルエット。
その頭の部分が、ほんの少しだけ左に傾いている。
――あれ?
私は自分の首筋を触ってみた。
自分としてはまっすぐ前を向いて立っているつもりだった。
だけど、足元から伸びる影の頭は、まるで誰かのアドバイスを密かに疑問に思っているときのように、首をかしげている。
信号が青になり、周りの人が動き出したので、私も慌てて歩き出した。
歩き出すと影は形を変え、私の思考からもその違和感は消えていった。
けれど翌朝、バス停で立っているときに、また思い出して足元を見た。
出勤ラッシュの静かな空気のなか、街灯の薄い影と朝日が交差する足元。
やっぱり、私の影は少しだけ左に頭を傾げていた。
私はスマートフォンの画面を鏡代わりにして自分を映してみた。
画面に映る私は、ごく普通に立っているように見える。
けれど、影は嘘をつかない。
肉眼では捉えられないわずかな体の歪みか、あるいは無意識の「癖」が、光によって輪郭として強調されているのだ。
どうやら私は、少しだけ頭を傾げて立つ癖があるようだ。
なんとなく、そう自覚した会社帰り。
いつものようにデスクワークをこなし、残業を終えてぐったりしながらバスに揺られた。
いつものバス停からアパートへ向かう夜道、街灯が背後から私を照らす。
アスファルトの上に投影された影は、やっぱり少しだけ頭を傾げている。
立ち止まっても、歩いていても、影の頭は左に傾いたままだった。
自分の癖だと分かると、妙に愛おしいような、それでいて少し寂しいような不自然さを感じる。
子供の頃からそうだったのだろうか。
それとも、社会人になって、キーボードを叩きながら画面を覗き込むうちに身についた歪みなのだろうか。
「ただいま」
誰もいないアパートの部屋に入り、電気をつける。静まり返った室内で、私は姿見の前に立った。
鏡の中の私と、じっと目を合わせる。
鏡を見る姿勢をとると、どうしても「意識」が入ってしまう。
姿勢を正そう、綺麗に見せようと、背筋が伸びて頭もまっすぐになってしまうのだ。
これでは、あの影の姿勢にはならない。
私はふっと力を抜き、肩の緊張をほぐしてみた。そして、あえて意識を「無」にしてみる。
すると、視界がほんの数ミリだけ、左に傾く感覚があった。
「あ……」
これだ。これが、私の本当の「まっすぐ」なのだ。
世界を少しだけ斜めに切り取ること。
それが、いつの間にか私の身体にとって一番楽なポジションになっていたらしい。
思えば、私はいつだって周りの意見や期待に対して、心のどこかで「本当にそうなのかな」と疑問を抱えながら生きてきた。
……ような気もしてきた。
言葉に出来ずに飲み込んできたその小さな疑問たちが、重力となって私の首を左へ引き寄せていたのだろうか。
私は、影の真似をして、意識的に首をもう少し左に倒してみた。
視界がぐっと傾く。
部屋の柱も、天井のラインも、全部が左下がりの斜線になる。
「変なの」
くすりと笑いが漏れた。
いつも「正しく」あろうとしていた。
会社では上司の顔色を窺い、失礼のないようにまっすぐ頭を下げ、言葉を選び、誰からも文句を言われないように姿勢を正して生きてきたつもりだった。けれど、光が暴露した私の本質は、少しだけ傾いた、不器用なシルエットだったのだ。
私のこのわずかな傾きは、迷いながら、考えながら、毎日を懸命に生きている証なのだろうか。
翌朝、私は少しだけ軽い足取りでアパートを出た。
降り注ぐ朝日の下、いつもの道で自分の影を見る。相変わらず、影は左に頭を傾げたまま、私の一歩先を歩いている。
私は影の首の角度に合わせて、自分の頭もほんの少しだけ左に傾けてみた。
「今日も頑張ろうね」
声には出さず、心の中で影に呼びかける。
世界は少しだけ斜めに見えたけれど、昨日までよりもずっと、呼吸がしやすい気がした。
