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日本語で書かれた漢詩のスゴイ本

私が生涯で初めて出会った漢詩は、中学一年生の時。国語の教科書に出てきた李白の七言絶句でした。

贈汪倫

詩の内容としては、こんな感じ。

俺様こと李白が舟に乗って、まさに出港しようとしたところ、
岸から大声で歌う声がする。
桃花潭(とうかたん、という淵)はめっちゃ深いと言うが
俺を送り出す、汪倫(おうりん)の情の深さに比べたら、
水たまりみたいなもんだ。

(銀ねず意訳)

今見ると返り点を置く場所も、難しい漢字も少ないので初めて漢詩を読む授業として扱うのにはうってつけだと思う。でもこんなの、小学校を卒業したばかりで思春期まっただ中の僕ちゃん嬢ちゃんに味わえるわけがない。国語の先生も大変だったと思う。

人生経験が積み重なった今なら分かるんです。だだっ広い中国大陸を旅する李白がいつまた汪倫に会えるか分からないし、歴史に名前も残らないような人々の想いをこうやって詩に残したことが、どんなに貴重なことか。

今はどうなってるか分からないけれど、当時(1987、昭和62年)は中学校のカリキュラムで漢詩を教えなければならなかった。当時からすでに「こんな将来役に立たないものを、何で学ばなきゃいけないんだ」みたいなことを言う友人はいました。

その学ばなきゃいけない理由も、今なら分かる。当時の時点で、日本は世界最高水準の中国文学研究をしているのです。子供たちがその研究分野に進む可能性を、学校教育は閉ざしちゃいかんのです。

考えてみれば、紫式部は白楽天の漢詩を暗誦して平安貴族から感心されているし、和文と漢籍が並べられた『和漢朗詠集』が必須の書籍だった時代も、かつてありました。和歌や古典を読むにも漢文の知識はあった方がより深く味わえるのは間違いない。

奈良・平安の昔から遣唐使によって漢籍がもたらされ、戦前には本場の中国人から「日本人は我々中国人よりも漢詩が味わえている」と驚かれたくらいのお国柄です。漢詩に対して拒絶反応を持ってしまうのは誠にもったいない。

そこで今回は、私がこれまで読んできた「日本語で書かれた漢詩関連の本」のうち、身体と脳みそが震えるくらい凄かったものを紹介しようと思います。


1:「内容がスゴイ」本

中野孝次『わたしの唐詩選』

※ドイツ文学者が読む漢詩

映画化もされた『ハラスのいた日々』の原作者、中野孝次の漢詩エッセイ。中野はもともとドイツ文学者ですが、後半生はその研究者の目を持って古典文学を読むという試みをしています。この『わたしの唐詩選』は、その中でもリラックスして書かれた本で、元は雑誌連載していたものをまとめたもののようです。

戦前を青春時代として過ごし、学校の授業や、仲間とともに触れたお気に入りの漢詩について思う存分書いています。専門の研究者とは違い、趣味で漢詩を読むとはどういうことかについて多くが得られます。

私にとって中野孝次は、はじめは『実朝考』の著者でした。ドイツ文学者から見た源実朝を描いた本であるとともに、しかしながら第二次大戦を蛇蝎のごとく嫌う知識人の本でもありました。なぜそこまで戦争を忌避する言葉を並べていたのか? その答えも『わたしの唐詩選』に含まれています。それはこの記事では書きませんが、余裕のある生活から青春時代を振り返った時に絞り出された回顧の言葉は、私はとても健全なものだと思えました。

そして戦前の学生たち(といっても中野は東大出身です)が漢詩を趣味で諳んじていたことの驚き。しかも軟派・硬派で好む漢詩人が違ったというのも、とても興味深い。

このあとも紹介する本の中では、一番あたらしく、一番読みやすい本だと思います。




高島俊男『李白と杜甫』

※辞書的でない詩仙・詩聖

中国には「四大詩人」と言われる人々がいます。東晋の陶淵明、盛唐の李白・杜甫、そして北宋の蘇東坡。この四人のうち、李白と杜甫だけが同時代に生き、しかも短いながらも交流があった。この二人の交流を軸に、時代性や二人の作品がどんなに特異であるかが書かれた本。

高島俊男という人は、後半生を在野の学者として過ごしたそうですが、この本を書くために生まれてきたんじゃないかと思わせるくらい李白杜甫を愛しています。さらには生半可な知識で書かれた本を批判するような「硬派」な人物で、いわゆる「界隈」の神さまから使命を受けてこの世に現れる存在だったのだと思います。

杜甫の手紙が残されていないのはなぜか。李白の本当の味わい方とは。この本で教えられなければ知らないことだらけでした。学者の書いた本と言っても、学術的な研究論文ではなく、一般向けに砕けた表現で書かれた本なので、これも読みやすいです。




斯波六郎『中国文学における孤独感』

※世界最高水準の漢詩受容

漢詩は、見た目で言えば漢字が並んでいるだけのものです。一文字ごとの漢字を目で追い、並びで内容を考える。詩なので音声で読み上げたリズムや調べも当然ありますが、それは日本人には無理。だとすれば日本人らしく、書かれていることを深く掘り下げるしかない。

漢詩のおこりと言われる『詩経』の素朴な表現からも孤独を読み取り、それが同時代の人々に享受されてゆく過程を論じる。さらには個別の才能が孤独をどう表現したかが書かれます。中国文学における孤独の極北を陶淵明、李白、杜甫とするならば、三人それぞれの孤独とは何か。

著者、斯波六郎の名前は、私はこの本でしか見たことがありませんでしたが、我が国に「六朝(りくちょう)文学」研究を開かせた第一人者とのことです。たった一文字の漢字から孤独のイメージが顕ち上がってくるのは特殊技能といってよく、こういう人がいるからこそ世界水準の研究が維持されるのだと思う。




吉川幸次郎『杜甫ノート』

※異次元の杜甫読み

はっきり申し上げて、これを読んでいない「杜甫読み」はニセモノです。よくある漢詩解説は、本文、書き下し、語彙の註釈、日本語訳が並ぶものですが、この本は違う。五言律詩40文字、七言律詩56文字の漢字の羅列から、どうやったらこんな読み方が出来るのか、魂が震えるような強烈な本でした。

吉川幸次郎は幼い頃から中国への偏愛を隠さず、「シナジン」とあだ名されるくらいの人だったようです。近年も、ちくま学芸文庫から分厚い『中国詩史』が出版され、さらにはこれが「待望の一冊」と言われるほどの集大成だったことを考えると、もはや「第一人者」では語彙が追いつかない人物なのだと思います。

この本がデジタル化されていたことにしばらく気がつかず、古書店で買った新潮文庫版を大事に読んでいましたが、とにかく未来にわたって日本の財産と言える本。


ここまでが私の思う「内容がスゴイ本」。
ここからは「オススメ」レベルの本を紹介します。




2:「オススメ」の本

岩波文庫『曹操・曹丕・曹植詩文選』

※東洋の『ガリア戦記』

岩波文庫はときどき「そんなの出版して大丈夫か」というような本を出してくれます(例として『中世歌論集』『六百番歌合/六百番陳状』『玉葉和歌集』『蓮如文集』『崋山・長英論集』『キリスト信徒のなぐさめ』『モーパッサン短篇選』『コルタサル短篇集』…)。

この「三曹」の詩文集も岩波文庫の底知れないチャレンジのひとつ。私が生きてるうちにこんな本が入手できるとは思ってなかった。何しろ曹操が自身の人生を振り返った『述志令』が収められているし(『述志令』はカエサル『ガリア戦記』に匹敵する、東半球の英雄自伝だと思う)、曹操の詩作品がまとまった形で読める我々は幸せだ。




陳舜臣『中国詩人伝』

※中国人の漢詩受容を日本語で語る

中国生まれの日本の小説家である著者が、中国人として漢詩と漢詩人をどのように受容しているのか、日本語で綴った「ライナーノーツ」。

『楚辞』の屈原から近代小説家の魯迅まで、一般人がなかなか読めない詩人の紹介もあったりと、これが講談社文庫から出版された時は知らない名前が多く歯噛みしたものです。夭折詩人、李賀を知ったのもこの本。

ただこの後にNHK出版や岩波文庫が数々の漢詩選を出版しはじめます。岩波文庫『李賀詩選』が出版されたときは初版で飛びつきました。

長いこと入手困難(絶版、品切)状態でしたが、いつの間にかデジタル書籍化がなされていました。後世に残すべき書として判断されたことを、私はうれしく思う。




3:NHK『漢詩をよむ100選』

NHKのEテレ(教育テレビ)で放送されている「漢詩を読む」で扱われた漢詩人の作品を集めたもの。特に石川忠久のシリーズは読みやすく、それまで安価で入手が難しかった漢詩人の作品がまとまった形で読めるのが素晴らしい。

今では再び入手が難しくなってしまいましたが、岩波文庫版の詩選集とは違い、詩人たちの人生や哲学も研究成果として書かれているので、より詩人に近づける選集になっています。


石川忠久『蘇東坡100選』

最後の四大詩人、蘇東坡。
基本的に漢詩人は政治家です。文字の読み書きができるというだけでも特権階級なのです。中でも蘇東坡は最難関の科挙に合格、高級官僚でした。しかも官途にある限り考えられる幸福と不幸すべてを経験しています。

宋代の詩は、日本の和歌が新古今集で本歌取りの密林に分け入ったように、過去の歴史や詩作品を知らないと味わえない作品が多いです。しかし蘇東坡はそんなアカデミックな挑戦にはあまり力を入れず、日本人でも読みやすい詩をたくさん残しています。だから四大詩人の一人に数えられるのかも。

春夜

春の夜のこのひととき、千金を積まれても売ってやるもんか
酒宴が終われば、俺だけの花、俺だけの月
みんないなくなった月明かりの中、
二度とはめぐってこない夜をうたう

(銀ねず意訳)

「春宵一刻値千金」、蘇東坡の作と知らなくても、この一節だけは聞いたことがあるんじゃないかと思います。中国語の発音は知らなくても、日本語であっても、ふと口ずさみたくなるような気持ちよさがあります。不思議な漢詩人だと思います。

蘇東坡はその人生の最期に、目の覚めるような詩を残しています。今回ここには出しませんが、どんな境遇にあっても腐らず前向きに生きた奇蹟の詩人を、どうか味わってほしい。




石川忠久『杜牧100選』

杜甫を「大杜」と呼ぶのに対し、中唐の詩人・杜牧は「小杜」と呼ばれます。

杜牧は七言絶句の名手で、余韻に溢れた作品をたくさん残しています。先の中野孝次『わたしの唐詩選』では、「バンカラ」の学生たちが好んで読んだと書かれていました。

遣懐

俺がまだやんちゃだった頃は、酒を飲んではほっつき歩き
この手におさまるくらいの美女たちをもてあそんでたものさ。
けれど十年ひとむかし、夢から覚めてみれば何でもない
ただ残ったのは、揚州のならず者、杜牧とは俺のことだったとさ。

(銀ねず意訳)

若い頃の酒池肉林を振り返った詩は、日本では特に武士に好まれて暗誦されていたとか。

「十年一覚、揚州の夢」をわたしは「じゅうねんいっかく」と読む方が好き。酒に溺れ、美女たち(楚腰)を美麗に表現したかと思えば「十年」という、もう戻れない時間がそこに記される。「ひとたび」よりも、「十」に対して「一」の方が無機質で余計に虚しさが溢れるような気がする。




4:番外編

永井荷風『下谷叢話』

※荷風先生の誇り

永井荷風が幕末の漢詩人、大沼枕山(おおぬま/ちんざん)の縁者であったことから書き進められた随筆。枕山は今では省みられることの少ない日本の漢詩人で、江戸から明治にかけて作品を残しています。

荷風は愛惜を込めて枕山やその詩壇を綴っていますが、江戸から明治への移り変わりは漢詩人や儒者にとっても多大な変化を強いられています。次々に押し寄せる文明開化の洪水の中で、どんどん縮小されてゆく漢学界。枕山は死ぬまで髷を切り落とさなかったそうです。

今回紹介する本の中では最も読みにくく、また荷風先生は枕山の作品に返り点や書き下し、現代語訳など一切付けてくれません。それでも、幕末詩壇がこれまで紹介してきた杜牧や蘇東坡の詩句をアレンジして詩作を行なっていることに気付くことができれば、一気に読める本となります。




最後に

もっと紹介したい詩人は、まだまだ尽きません。
何より今回は「詩聖」と仰がれる杜甫、そして隠逸の詩人・陶淵明の個別の詩集には深く触れられませんでした。彼らの孤独や祈りについては、また別の機会にお話しできればと思います。

若い頃に外遊し西洋文化に浸った荷風が晩年に江戸漢詩を慈しみ、ドイツ文学者だった中野孝次が学生時代の漢詩受容を回想した。それは単なる「日本回帰」や懐古趣味ではありません。千年以上前の異国の言葉が、時代も国境も超えて、今の私たちの喜怒哀楽をピタリと言い当ててくれる。その不思議な一致に触れた時、私たちは独りではないと感じるのではないでしょうか。

漢詩は、日本人がいつでも立ち戻り、心を整えることができる「精神のふるさと」のような場所です。世界中を見回しても、漢詩を母国語と組み合わせて読めるのは日本人だけ。今回紹介した本が、皆さんにとってその門を叩くきっかけになれば幸いです。

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