年収240万円から800万円へ。幸福度は上がったのか?――父から渡された50万円と、20年後のお金の価値
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【大学4年の夏。父親が、小さくなった。】
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大学4年の夏。
父親が、小さくなった。
身長の話ではない。
僕にとって父は、ずっと怖い存在だった。
厳しく、声にも力があり、子どもの頃の僕には逆らいにくい人だった。
その父から、突然、覇気が消えた。
両親が経営していた薬局が倒産したのである。
当時の僕には、何が起きているのか完全には理解できていなかった。
ただ、父親の様子がおかしいことだけは分かった。
あれほど大きく見えていた人が、急に小さくなったように見えた。
後から思えば、精神的にも相当追い詰められていたのだろう。
一方、母親はまるで違った。
同じ薬局を失ったはずなのに、
「人生、まだこれからでしょ」
とでも言わんばかりだった。
なぜか、楽しそうにすら見えた。
同じ出来事を経験している夫婦なのに、これほど違うのか。
大学生だった僕は困惑しながらも、どちらかといえば母親側だった。
「まあ、なんとかなるだろう」
そんな感じだったと思う。
そして両親は、僕に50万円を渡した。
「学費はなんとかする。ただ、家賃も含めた生活費はこれでなんとかしてくれ」
50万円。
昨日までの僕なら、かなり大きなお金だった。
でもその日から、50万円はただの札束ではなくなった。
これで家賃を払う。
これで食べる。
これで大学へ行く。
そして、これがなくなる前に自分で稼がなければならない。
50万円が、突然「残された時間」に変わった。
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【翌日から、生活が変わった】
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僕はバイトを始めた。
というより、バイト三昧になった。
働いて、大学へ行って、また働く。
スーパーへ行けば、安い食材を探した。
外で食べれば、一食で数百円、場合によっては千円以上飛んでいく。
だったら自分で作った方がいい。
安い肉はどれか。
野菜は何を買えば何食分になるのか。
同じ金額で、どうすれば長く食べられるのか。
今思えば、僕のお金の勉強は投資でもNISAでもなかった。
スーパーの値札から始まった。
効率よく買う。
自炊する。
働く。
限られたお金を、限られた時間の中でどう使うかを考える。
大学4年生にして、突然生活というゲームの難易度が上がった。
もっとも、国家試験にはその後2回落ちた。
これはさすがに50万円のせいにはできない(笑)。
それでも、あの時期に覚えたことは今でも残っている。
安いものを買うという意味ではない。
限られた資源を、どう配分するか。
おそらく、それを初めて本気で考えた時期だった。
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【3年後、父親から聞いた話】
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国家試験に合格してから、僕は父親から倒産に至った経緯を詳しく聞いた。
医療機関との関係や金銭をめぐる問題があり、父親がそれを拒んだことをきっかけに経営が立ち行かなくなった――というのが父から聞いた話だった。
正直に言えば、
「本当にそんなことがあるのか?」
と思うような内容もあった。
僕が聞いたのは、あくまで父親側から見た話である。
だから今でも、すべての事実を知っているとは思っていない。
ただ、一つだけ僕が実際に見たものがある。
あの夏の父親である。
あれほど怖かった人から、完全に覇気が消えていた。
今になって考えると、父親が失ったものは「年収」だけではなかったのかもしれない。
自分で作った会社。
仕事。
自信。
誇り。
自分で人生を動かしているという感覚。
それらを、一気に失った。
だとすれば、お金と幸福の関係は、単純に年収だけでは測れない。
そんなことを考えるようになったのは、もっとずっと後のことである。
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【「年収800万円を超えると幸福度は上がらない」】
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こんな話を聞いたことがある人は多いと思う。
僕も聞いたことがあった。
元になった有名な研究の一つが、ダニエル・カーネマンとアンガス・ディートンが2010年に発表した研究である。
米国のデータでは、人生そのものへの評価は所得とともに上昇する一方、日々の感情的な幸福は世帯年収7万5,000ドル付近から伸びが鈍るという結果だった。
これがいつしか、
「ある程度以上稼いでも人間は幸せにならない」
という分かりやすい話として広まった。
ただし、その後の研究はもう少し複雑だ。
2023年にはカーネマン自身も参加した共同研究で再検討され、幸福度が低い一部の人では一定所得以上で頭打ちになる傾向がある一方、多くの人では所得の上昇とともに幸福度も上昇し続けるという結果が示された。
つまり、
「800万円を超えれば、それ以上稼いでも幸せにならない」
と単純に言い切れる話ではない。
では、自分はどうだったのだろう。
研究者でもない僕が、自分の人生を一つのサンプルとして振り返ってみた。
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【年収240万円】
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薬剤師になり、やがて起業した。
最初の年収は、240万円ほどだった。
大学生の頃とは違い、自分で働いて給料を得ている。
それでも余裕があるとは言えなかった。
何に使うか。
何を残すか。
どこを削るか。
まだ、お金には「生活を成立させる」という役割が強かった。
ただ、不思議と悲惨だった記憶はない。
働けている。
食べられている。
少しずつ前に進んでいる。
それなりに楽しかった。
幸福度を10点満点で何点だったかなんて、今さら分からない。
でも少なくとも、
年収240万円=不幸
ではなかった。
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【年収600万円】
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大きく変わったのは、起業して5年ほど経った頃だった。
年収を240万円から600万円程度まで上げた。
ここで生活は、明らかに変わった。
貯金ができるようになった。
職場の近くへ引っ越せた。
外食できる。
飲みに行ける。
遊びに行ける。
旅行にも行ける。
大学時代の50万円生活や起業直後とは、明らかに違った。
「お金がないからやめておこう」
という場面が減った。
僕の場合、幸福度が大きく上がった地点を一つ挙げろと言われれば、おそらくここだったと思う。
800万円ではない。
600万円前後だった。
ただし、お金持ちになった感覚はなかった。
税金も増える。
遊べるようになれば使うお金も増える。
そして、ちょうどこの頃にはゲームにも課金していた。
以前の記事で書いた、5万5千円を一度に吹き飛ばした時代でもある。
お金が増えた。
使えるようになった。
だから使った。
当然、貯金が爆発的に増えるわけではない。
でも、それでよかった。
当時の僕にとって600万円は、
「生活するためのお金」から「人生を楽しむためのお金」へ変わった地点
だったのだと思う。
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【年収700万円】
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起業から8年ほど経った頃、年収は700万円程度になった。
この頃から、また少しお金の意味が変わった。
投資。
保険。
将来への備え。
「今使う」だけではなく、
「未来に置いておく」
という考え方が出てきた。
ゲーム課金から離れたのも、このあたりだった。
もちろん、急に聖人になったわけではない。
単純に価値観が変わってきただけだ。
使う。
残す。
増やす。
守る。
お金に役割を持たせるようになった。
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【そして800万円を超えた】
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年収800万円を超えたのは、起業から15年ほど経った頃だった。
家庭がある。
子どもがいる。
投資もする。
税金も払う。
生活費もある。
将来のことも考える。
ここまで来ると、
「もっと使える!」
という感覚より、
「どう配分するか」
を考えることの方が増えた。
特に大きいのが税金だった。
収入が増えれば、そのまま手取りが同じ割合で増えるわけではない。
社会保険料などの負担もある。
だから節税も勉強した。
使える制度は使う。
投資する。
家族にも使う。
自分にも使う。
将来にも残す。
そして、ふと思った。
800万円になって、600万円の頃より僕はものすごく幸せになったのだろうか。
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【靴下は、今でも穴が開いたら買う】
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考えてみる。
服。
ほとんど変わっていない。
同じものを着回す。
下着や靴下も、基本的には傷んだら買い替える。
筋トレにも、それほど大金は使わない。
ここ3年間はボディメイク大会に出るため、年間10万円ほどは大会費用として確保していた。
今年は出ない。
その分、むしろ楽になった。
車も高級車ではない。
会社の経費でリースしている家族用のボックスカー。
住居も社宅制度を利用している。
夫婦には、なんとなく共有しているルールがある。
キャッシュで買えないものは、今の自分たちにはまだ早い。
だから基本的に、ローンを組まない。
年収が240万円から800万円を超えても、僕自身の生活は思ったほど豪華にならなかった。
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【では、1000万円なら?】
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もし年収1000万円になったら。
1500万円なら。
2000万円なら。
もちろん、その世界に行っていない僕には分からない。
実際に行けば、価値観が変わる可能性もある。
でも今の僕が想像する限り、生活はそれほど変わらない気がする。
家を豪華にするイメージもない。
高級車に乗り換えるイメージもない。
毎日高級店で食事するとも思わない。
おそらく増えるのは、
投資額と、選択肢。
旅行で少し選べる場所が増える。
買い物で迷う場面が少し減る。
将来の備えが厚くなる。
もちろん安心感は増えるだろう。
でも、
年収が2倍になったから幸福度も2倍になる
とは、とても思えない。
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【50万円の旅行】
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今でも迷う支出がある。
旅行だ。
例えば、家族でUSJやディズニーへ行く。
僕の仕事では、自由に長期休暇を取ることが難しい。
どうしてもGWや年末年始など、混雑する時期になりやすい。
交通費。
ホテル。
チケット。
食事。
家族で数泊すれば、条件によっては50万円前後になることもある。
ここで僕たち夫婦は止まる。
「50万円か……」
払えないわけではない。
旅行用のお金もある程度準備している。
でも、
4日間に50万円。
どうしても考えてしまう。
50万円あれば、他に何ができるだろう。
近場の遊園地なら何回行ける。
キャンプなら。
別の旅行なら。
子どもの習い事なら。
将来の何かに使うなら。
そして結局、
「今じゃなくてもいいか」
となることがある。
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【「今使わないで、いつ使うの?」】
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もちろん、反対の考え方があることも分かっている。
「あの世にお金は持っていけない」
「節約ばかりして何になる」
「今を楽しまないともったいない」
「子どもが小さいのは今だけ」
全部、その通りだと思う。
さらにインフレが続けば、同じ100万円で買えるものが将来減る可能性もある。
だったら、今買った方が得なものもある。
それも分かる。
だから僕も、
未来のために今を犠牲にしようとは思っていない。
子どもが読みたい本なら買う。
やりたい習い事があるなら考える。
今しかできない経験なら、お金を使う。
家族が暑ければエアコンをつければいい。
家事の時間を減らせるなら家電を買う。
仕事の時間を減らせるならAIにもお金を払う。
僕は「使わない人」ではない。
ただ、一つだけ違う。
「今使わないともったいない」という理由だけでは、使わない。
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【使っていない50万円には、まだ名前がない】
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僕は、ここに価値を感じているのかもしれない。
旅行に50万円使えば、その50万円は旅行になる。
もちろん思い出は残る。
それは素晴らしい。
でも、使わなかった50万円には、まだ名前がない。
来年の旅行になるかもしれない。
子どもの学費になるかもしれない。
何かに挑戦するためのお金になるかもしれない。
あるいは将来、子どもが言うかもしれない。
「車が必要なんだけど」
そのとき、
「必要なら出してやるよ」
と言えるかもしれない。
いつか、
「結婚することになった」
と言う日が来るかもしれない。
そのときも、できることならまとまったお金を出してやりたい。
もちろん、何でも親が買い与えるという話ではない。
僕は子どもたちに200円を渡して買い物をさせている。
予算を超えれば買えない。
計算させる。
貯めさせる。
自分で選ばせる。
だからこそ、大人になったときには、
自分で選ぶ力を持った上で、その選択肢を増やしてやれる親でいたい。
小さい頃には、200円の中で選ぶ力を。
大人になったら、人生そのものを選ぶための余白を。
それが僕たち夫婦の、お金に対する考え方なのだと思う。
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【大谷翔平の1000億円を考えた】
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そんなことを考えていた頃、ある人物の契約が妙に心に残った。
大谷翔平である。
ドジャースとの契約は10年総額7億ドル。
日本円換算では為替次第で1000億円規模になる、とんでもない契約である。
ところが、そのうち6億8000万ドルを後払いにした。
契約期間中に受け取るのは年200万ドルで、後払い分は2034年から2043年に受け取る契約になっている。大谷側から後払いを提案し、チームが戦力補強に使える余力を残したかったと球団側も説明している。
初めて知ったとき、
「普通、そんなことするか?」
と思った。
1000億円規模である。
僕には想像することすらできない。
でも同時に、ものすごく烏滸がましいことを承知で、
「なんとなく分かる気もする」
と思ってしまった。
もちろん僕と大谷翔平では、何もかも違う。
比較すること自体が失礼なレベルである。
でも、お金の使い方という一点だけを見ると、妙に腑に落ちた。
今、自分が生活するのに十分なお金がある。
だったら残りのお金で、
自分が本当に欲しいものを取りに行けばいい。
彼の場合、それは勝つことだった。
自分の口座に数字を積み上げることより、
強いチームを作るための余力を残す。
ただ、勝ちたい。
少なくとも僕には、そう見えた。
そして思った。
お金をたくさん持つことと、お金によって目的を達成することは、全く別なのだ。
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【お金は、いつから目的ではなくなったのだろう】
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大学4年の僕にとって、50万円は生命線だった。
なくなったら困る。
だから働いた。
年収240万円の頃は、生活するためのお金だった。
600万円になった。
生活が楽になった。
遊べるようになった。
旅行できるようになった。
僕の場合、おそらくこの辺りで幸福度はかなり上がった。
700万円になった。
未来へ回せるようになった。
800万円を超えた。
家族、投資、税金、節税。
お金をどう配置するかを考えるようになった。
そして今。
さらに年収が増えたら何が欲しいかと聞かれても、
それほど思いつかない。
どうやら、どこかの地点で、
「もっとお金が欲しい」から
「このお金で何を残したいか」へ変わっていた。
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【20年後、もう一度50万円を考える】
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大学4年の夏。
父親から渡された50万円を、僕は握っていた。
「これでなんとかしてくれ」
あの頃の50万円には、最初から役割が決まっていた。
生きるためのお金だった。
家賃になる。
食費になる。
大学生活を続けるためのお金になる。
選択肢は、それほど多くなかった。
そして約20年後。
僕はまた、50万円について考えている。
でも今の50万円には、
まだ名前がない。
旅行になるかもしれない。
投資になるかもしれない。
子どもの車になるかもしれない。
結婚資金になるかもしれない。
家族の誰かが困ったときに使うかもしれない。
あるいは今の僕には想像できない何かになるかもしれない。
昔より収入は増えた。
240万円から600万円になったとき、生活は大きく変わった。
600万円から700万円になり、未来を考えられるようになった。
800万円を超え、さらに選択肢が増えた。
では、幸福度は上がったのか。
上がったと思う。
ただし、収入と同じ角度では上がらなかった。
少なくとも僕の場合、800万円という数字に魔法があったわけではない。
一番大きかったのは、
「今月どうやって乗り切ろう」から
「このお金をどう使おう」へ変わったこと
だった。
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【おわりに|幸福度を上げたのは、お金だったのか】
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年収800万円を超えると幸福度は上がらない。
現在の研究を見る限り、そんな単純な境界線が万人に存在するとは言えない。
所得が増えても、幸福度が上昇し続ける人はいる。
そして自分の人生を振り返ってみても、そう思う。
独身なら600万円程度で十分だった。
家庭を持った今なら、700〜800万円程度あることで、ずいぶん選択肢が増えた。
さらに増えれば、安心感も増えるだろう。
だから、お金は重要だ。
綺麗事で否定するつもりはない。
ただ、お金が増えるにつれて、僕の中で変わったものがある。
昔は、
お金そのものが欲しかった。
今は、
お金によって選べる状態を残しておきたい。
今使う。
未来に残す。
子どもに使う。
自分に使う。
投資する。
何もしない。
その決定権を、自分たちが持っている。
おそらく僕が欲しかったのは、そこだった。
「あの世にお金は持っていけない」
確かにその通りだ。
僕も、最後まで通帳の数字を守り抜きたいわけではない。
できることなら、最後は綺麗に使い切りたい。
ただ、僕にとってお金を残すことは、
使わないことではない。
まだ決めないという選択をしているだけだ。
今、本当に必要なら使う。
今しかできないことなら使う。
そうでないなら、未来の自分たちに決定権を残しておく。
大学4年の夏。
父親から渡された50万円には、
僕を生かすという役割があった。
20年後。
僕の手元にある50万円には、まだ役割が決まっていない。
でも、それでいい。
まだ決まっていないからこそ、可能性がある。
年収240万円から800万円へ。
確かに生活は豊かになった。
でも僕が手に入れた一番大きなものは、高級車でも、大きな家でもなかった。
「選べる」という余白だった。
もしかすると幸福とは、
持っているお金の額ではなく、
自分の人生を、自分で選べる余白がどれだけ残されているか。
そんなところにあるのかもしれない。
