「世界初の大発見」が、「地政学」の1ページ目に載っていた話
独自発見だと思ったら、すでに学問だった
コーヒーをいれながら、中国史を眺めていた。
前回まで、わりと真剣にやっていた。国というのは文化や民族性でできているんじゃなくて、もっと身も蓋もない地面の上に立っている——そういう視点で、中国二千年の統一と分裂をひたすら構造で読んでいた。
山が少ない、というひとこと
途中で、相方のAIが、ぽろっとこう言った。
中国大陸は、山が少ないんですよ。
ふうん、と最初は流した。山が少ない。平らだ。農業がやりやすそうだし、物を運ぶのも楽だ。平常時には、ありがたい話に聞こえる。
でも、数秒置いて、何かが引っかかった。
平らということは、一番守りにくい城は、平城だ。山も谷もない。隠れる地形がない。攻めてくる側からすれば、どこからでも入れる。守る側からすれば、どこも守らなきゃいけない。
つまり、いつでも、誰でも、敵になりうる環境。
そこまで考えて、思わず声が出た。
やばいじゃん。
広いじゃん。

頭の中に、急に運動場が浮かんだ。
だだっ広いグラウンドで、かくれんぼをするようなものだ。隠れる木も建物もない。鬼から見れば全員丸見えで、逃げる側はひたすら走り続けるしかない。あの、どこにも隠れられない感じ。中国大陸の真ん中で、二千年ずっとあれをやっていたんだとしたら。
そりゃ、デカすぎて分裂もする。そして一度バラけたものを、もう一回ひとつにまとめるには、とんでもないエネルギーが要る。山がない、隠れられない、だから統一するか、されるか、しかない。
この感覚に辿り着いたとき、わりと興奮していた。
地理が、国の性格を決めている。文化じゃなくて、地面が。これ、自分なりに掴んだぞ、と。なんというか、世界初の発見をした気分というか。誰も言ってないことを言い当てた気がして、泡みたいなものが、胸の中でぷくぷく膨らんでいた。
この分析、有名ですか?
それで、つい、訊いてしまった。
この分析、、、有名ですか?
返事は、速かった。
かなり有名な系統の分析です。
「地理と国家構造で歴史を見る」のは、歴史学・地政学では超王道です。

膨らんでいた泡が、
——ぷつん、と消えた。
しかも、だ。マイナーな先行研究に先を越されていた、とかじゃない。超王道である。誰もが通る、舗装済みの大通り。地政学の教科書の、たぶん最初のほうに書いてある。
ここで二回しょんぼりした。一回目は、世界初じゃなかったこと。二回目は——その有名なはずの大通りが、自分の手元には一度も届いていなかったこと。みんな知ってる道を、自分だけ知らずに、いま必死で自作していた。車輪の再発明、という言葉があるけれど、まさにそれを、ドヤ顔でやっていたわけだ。
ちょっと笑った。そして、ちょっとへこんだ。
しかもタチが悪いのは、再発明した本人だけが、しばらくは大発明だと思い込んでいたことだ。胸の泡が消えたあとに残るのは、ぬるくなったコーヒーと、少しだけ恥ずかしい静けさだった。
ところが、相方のAIは、しょんぼりしている横で、もう一言、足してきた。
今回あなたが言った「デカすぎて分裂。統一にはヤバいエネルギーが必要」これは、かなり本質を突いています。
これは、慰めの言葉ではなかった。
「よく頑張りましたね」でも、「素人にしては上出来」でもない。構造として、本筋を突いている、という意味だった。
ここで、しょんぼりの色が、少しだけ変わった。
確かに、世界初ではなかった。残念だ。でも、裏返せば、こうも言える。自分の肌感は、妄想じゃなかった。地図を眺めて、山がない、平らだ、隠れられない、運動場のかくれんぼだ——と勝手に転がしていった思考が、ちゃんと学問の王道回路に、自分の足で接続していた。
独自性は、未踏の荒野だけにあるんじゃない
ここで、考え方が一つ、ひっくり返った。
独自性って、「誰も言っていないこと」だけだと思っていた。未踏の荒野に、自分だけの旗を立てること。だから、すでに名前が付いていると知った瞬間、価値がゼロになった気がした。
でも、違う。
すでに誰かが登った山でも、麓から自分の足で登れば、それは自分の登山だ。

ロープウェイで頂上に運ばれた人と、藪をかき分けて登った人とでは、同じ景色を見ても、見えている色が違う。
これは、きれいごとで言っているんじゃない。実感として、同じ知識でも、手に入れた経路によって、手触りが変わると思う。
たとえば、こういう分類を、ちょっと照れながら立ててみる。
手に入る知識は、忘れていい。
自分で考えた知識は、忘れない。
体験して得た知識は、忘れてはいけない。
検索すれば一秒で出てくる知識は、忘れていい。また検索すればいいから。でも、自分で山がないと気づいて、運動場のかくれんぼまで転がしていった「地理が国を決める」は、たぶん一生忘れない。経路ごと、体に刻まれているから。
すでに学問だった、という事実は、だから二つの意味を持つ。一つ、先を越されていた、残念。もう一つ、検索すれば出てくるだけの知識を、自分は考えて辿り着いた側に持っている。同じ「地理決定論」でも、自分の中の色は、教科書のそれとは違う。
体系は追わない。慣性に乗る
じゃあ、これを機に、地政学をちゃんと体系的に勉強するのか、というと——たぶん、しない。
資格を取るとか、研究職を目指すなら、体系は要る。家系図を全部覚える必要がある。でも自分のこれは、そういうのじゃない。
アポロンやキューピッドが何のモチーフかは知っている。でも、ギリシア神話なのかローマ神話なのか、どの神が誰の子で、誰と恋仲だったか、そういう家系図までは追っていない。追う気も、あまりない。気になったモチーフだけ、手に取って眺める。それで十分、楽しい。
自分の知の集め方は、ずっとこれだ。興味のあるところから、どんどん質問する。一周回って別の話と繋がったり、ぽっかり抜けているところが気になって、そこだけ埋めにいったり。体系を上から流し込むんじゃなくて、慣性に抗わず、興味が滑っていく方向に、ただついていく。
だから、次にやることも、決まっている。
また別の国、別のテーマで、同じ遊びを続けることだ。地図を眺めて、「これ、なんでこうなってるんだ?」と引っかかって、勝手に運動場のかくれんぼを見つけにいく。そうやって自分の足で登った先が、また誰かの登った山だったとしても——もう、いい。
景色の色は、自分のものだから。
残念だった。世界初だと思ったのに、もう学問になっていた。
でも、肌感は、外れていなかった。
それで、十分だ。
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