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哲学の入り口は「いつからでも」「どこからでも」

副題

難しい本を開く前に、哲学はもう始まっている


はじめに|哲学は、特別な人のためのものなのか


哲学と聞くと、

「難しそう」

「頭のいい人がやるもの」

「人生にはあまり役に立たなそう」

そんな印象を持つ人もいると思う。

私自身、昔は哲学というものを、もっと特別な場所にあるものだと思っていた。

難しい本を読み、

哲学者の名前を覚え、

専門用語を理解し、

ようやく哲学の入口に立てる。

そんなイメージである。

しかし今は、むしろ逆だと思っている。

哲学は、難しい本の中から始まるとは限らない。

失恋から始まるかもしれない。

病気から始まるかもしれない。

仕事への違和感から始まるかもしれない。

映画を観た帰り道かもしれない。

子どもの頃に読んだ漫画の一場面かもしれない。

哲学とは、

特別な場所へ出かけていくことではなく、

今まで当たり前だった世界に、突然ひびが入ることから始まる。

私はそう考えている。


1|哲学は「問い」から始まる


哲学とは、

知識をたくさん持っていることではない。

哲学史を暗記することでもない。

哲学者の名前をたくさん知っていることでもない。

それらは哲学を学ぶうえでは役に立つ。

しかし、その前にあるものがある。

問いである。

なぜ私は私なのか。

なぜ人を傷つけてはいけないのか。

なぜ時間は流れているように感じるのか。

なぜ死ぬことが怖いのか。

なぜ同じ出来事でも、人によって正しさが違うのか。

こうした問いには、

学校のテストのような答えが用意されていない。

だから人は、

一度立ち止まる。

自分が当然だと思っていたものを疑う。

そして、

「そもそも」

と考え始める。

その瞬間、

もう哲学は始まっている。


2|哲学への入口は、人によって違う


人が哲学へ入っていく経路は一つではない。

死について考え始める人もいる。

社会の不公平に腹を立てる人もいる。

意識とは何なのかに興味を持つ人もいる。

科学そのものを疑う人もいる。

たとえば、

生きる意味や死に悩めば、

実存主義へ向かうかもしれない。

正義や社会制度に疑問を持てば、

倫理学や政治哲学へ向かうかもしれない。

「心とは何なのか」と考えれば、

心の哲学へ向かう。

「科学はどうして科学なのか」と考えれば、

科学哲学へ進む。

しかし実際には、

そんな分類を最初から知っている必要はない。

先に問いがある。

後から、

「ああ、これは哲学では昔からこう呼ばれていたのか」

と知る。

その順番でもいい。

むしろ多くの場合、

人は学問分野から哲学へ入るのではなく、

自分の人生から哲学へ入っていく。


3|私の哲学の入口は、ドラえもんだった


私が哲学らしきものに触れた最初の記憶は、

漫画の『ドラえもん』だったと思う。

漫画家が倒れてしまい、

ドラえもんたちが代わりに漫画を完成させなければならなくなる。

そこでドラえもんは、

タイムマシンで未来へ行き、

翌週発売された雑誌を手に入れようとする。

しかし、そこで問題が起こる。

未来の雑誌に載っている漫画を見て、

現在でその漫画を描く。

では、

その漫画を最初に考えたのは誰なのか。

私は子どもながらに、

妙な気持ち悪さを覚えた。

原因がない。

始まりがない。

どちらが先なのか分からない。

答えを出そうとしても、

思考が輪の中をぐるぐる回る。

たぶん私は、

そこで初めて、

考えても答えが出ない問い

というものに触れた。

今なら、

因果ループや自己原因の問題として考えられる。

しかし当時の私は、

そんな言葉を知らない。

ただ、

「なんだこれは」

と思った。

それで十分だったのだと思う。

哲学は、

専門用語を知った瞬間に始まったのではない。

世界が少し気持ち悪く見えた瞬間に、

すでに始まっていた。


4|哲学は、複数の分野を勝手にまたいでいく


哲学を考え始めると、

一つ困ったことが起こる。

話がどんどん広がっていく。

時間について考えていたはずなのに、

存在の話になる。

存在について考えていたら、

意識の話になる。

意識を考えていたら、

脳科学やAIに行く。

AIを考えていたら、

人格や責任の問題に行く。

責任を考えていたら、

自由意志へ戻ってくる。

一つの問いが、

別の問いを連れてくる。

だから、

「自分は話が飛びすぎるのではないか」

と思う人もいるかもしれない。

しかし、

それはある意味で自然である。

私たちが生きている世界は、

最初から分野別に分かれているわけではない。

大学が便宜上、

哲学、

物理学、

心理学、

社会学、

生物学、

経済学、

と分類しているだけで、

現実そのものには境界線がない。

一人の人間の死について考えるだけでも、

身体、

意識、

時間、

家族、

社会制度、

宗教、

倫理、

金銭、

記憶、

あらゆる問題が関わってくる。

哲学が分野を越えてしまうのは、

世界そのものが最初から分野別に存在していないからだ。


5|哲学とは「目の使い方」である


哲学を知識として考えると、

どこまで学んでも足りない。

哲学史は長い。

本も無数にある。

専門分野も細かい。

しかし、

哲学をもう少し違うものとして捉えることもできる。

世界を見る方法である。

たとえば、

「これは普通だから」

と言われたときに、

なぜ普通なのかと考える。

「みんなそうしている」

と言われたときに、

みんながしていることは正しさの根拠になるのかと考える。

「仕方がない」

と言われたときに、

本当に仕方がないのかを考える。

言葉の前提を見る。

制度の前提を見る。

自分自身の前提まで見る。

哲学とは、

世界に何かを付け加えるというより、

今まで見えていなかった前提を見るために、目の焦点を少し変えること

なのかもしれない。

一度その目を持つと、

哲学の材料はいたるところに現れる。

ニュースにもある。

職場にもある。

恋愛にもある。

スーパーの値札にもある。

映画にもある。

病院にもある。

日常そのものが、

問いの発生源になる。


6|人生経験のあとに出会う哲学は、少し違う


哲学に出会う時期に、

正しい年齢などない。

若い頃に哲学へ入る人もいる。

老後に突然哲学書を読み始める人もいる。

そして、

同じ問いでも、

人生経験によって意味が変わる。

二十歳のときに考える自由と、

四十歳で考える自由は、

同じ言葉でも中身が違うかもしれない。

失う前に考える「喪失」と、

何かを失ったあとに考える「喪失」も違う。

人間関係の矛盾を知らないうちは、

論理矛盾は単なる知的問題かもしれない。

しかし、

愛しているのに離れたい。

許したいのに許せない。

正しいと分かっているのにできない。

そんな経験をすると、

矛盾は思考上の遊びではなくなる。

人間そのものが、

矛盾を抱えながら生きていると分かる。

そうなると、

哲学は「答えを得るための学問」だけではなくなる。

答えが出ないままでも考え続けるための方法

にもなってくる。


哲学の入り口は、人の数だけある


哲学への入口は、

パラドックスかもしれない。

死かもしれない。

正義かもしれない。

恋愛かもしれない。

科学かもしれない。

AIかもしれない。

映画かもしれない。

漫画かもしれない。

あるいは、

今日起きた、

ほんの小さな違和感かもしれない。

重要なのは、

入口が立派かどうかではない。

その違和感を、

「まあいいか」

で終わらせず、

もう少しだけ見つめてみることである。

なぜだろう。

本当にそうだろうか。

逆だったらどうなるだろう。

誰にとって正しいのだろう。

そもそも、

私はなぜこれを当然だと思っていたのだろう。

問いは、

そこから深くなっていく。

だから私は、

哲学の入口には、

「早すぎる」も、

「遅すぎる」もないと思う。

そして、

特別な場所まで行く必要もない。

哲学の入り口は、

いつからでもいい。

どこからでもいい。

なぜなら、

私たちが生きている世界そのものが、

最初から問いだらけなのだから。


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