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わたなれを見た!見ろ!

 アニメわたなれ(1話~17話)を一気見する機会ができ大変面白く見させてもらった。普段アニメを見る方ではない。珍しく見るのは余程評判したものだけで、集英社の百合/GLという特異な出自と異例な大ヒットには機会を作らねばと焦るだけのインパクトがあった。焦ってるうちに何故かAbemaで全部見られてしまった。どういうビジネスなんだろう。

 好きなシーンは多々あるのだが、ピークはやはり17話の堂々たる二股宣言だろう。この作品に触れてよかったとあれほど実感したのは他にない。

 同性間の恋愛という「普通でないもの」を要求されたれな子が、一対多の恋愛という別の「普通でないもの」を要求し返すロジックは可笑しみがある。それでいて合理的なのがなおさら笑いを誘う。

 個人的にはこのシーンに追加の文脈があって、百合アニメにおいて「普通でないもの」が解決の糸口になるとは思っておらず、意識の盲点を突かれて気持ちよかったのだ。

 この個人的な面白みを共有するには百合等コンテンツに対する筆者の(一面的な)理解・偏見を開陳しなければなるまい。それで珍しくアニメを見た感想を書くなどする。

 さて、エンタメ消費において百合(もしくはBL)は現実のフェミニズムやLGBT+とはまったく連関しないという所から。

 我々のエンタメ消費は社会的に構築されたジェンダーロールや性規範を明らかにして逸脱の可能性を論じるものではないし、それとはまったく逆行して、むしろ既存のジェンダーロールや恋愛規範を温存している向きさえある。ひとえに「関係性」が重視されるためだ。

 「関係性」の射程は広い。主従は百合。険悪なら百合。言ったもん勝ちだ。扱う「関係性」の多くは古典の換骨奪胎だ。アルジュナとクリシュナを女女に書き換えれば当然百合であろう。

 肝は「関係性」だけを抽象して性については等閑視することにある。ことさら異性間の関係の置き換えであるものは、それは同性な登場人物に当てはめるための些細な変形に過ぎない。ジェンダーロールのジェンダー抜き。それってロールだね。

 本質的には無性。この記事中の百合という単語もBLに読み替えてしまえるし、商業BL分野で洗練された作劇が百合に殴り込んできたりする。

 ノマカプも百合も同じはずだが、あえて異性愛は遠ざけられる。特に強引なやつ。人権を買うとか、異性愛の文脈に乗せるとエロ同人でしか見ないラインだ。異性愛で描くにはドギツいコッテコテなジェンダーロールを、異性愛ではないもので描くことによって脱臭する。

 つまるところ、百合アニメにおいて女女の恋愛は規範から逸脱しない「普通」であるはずだったのだ。わたなれでもそうだ。登場人物の大部分は同性愛に疑問を挟まない。それでいてポリアモリーは忌避される。れな子だけはそうでなかったのだが、筆者は愚かにもすっかり見落としていたのである。

 ロールの消費ではないエンタメとしてわたなれを振り返ると、たしかに逸脱と個別化が重要な位置を占めている。

 アホの子に見えた果穂は実は陽キャの振りをした陰キャであるし、それが詳らかになることは、れな子と果穂の仲が深まる過程に一体化している。真唯と紫陽花の関係もまた友情を逸脱したものと語られる。主人公にだけ執着するスパダリという典型的なペルソナはここに剥がれる。これなしには17話の着地点には至れない。

 思えば5話~8話(原作2巻相当)なんてずばり停戦交渉の話だったわけで、個人的な事情をすり合わせて特別な妥協点を模索する、そういう筋でずっとやってると読むのが妥当だったわけだ。妥協を人間の最も知的な営みだと信じている筆者にはクリティカルヒットである。

 いやほんと面白いものを見たなぁと思っていて、17話を見終わってその足で書店に駆け込んだんですよ。そしたら……歯抜けにしか売ってなくて……ちょうどKindleでセールで……屈辱的なんだけどね? 仕方なくね? プラットフォームの暴力に屈した。書店の弱体化が悲しい。


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