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【読切短編】こととひ庵の小さな奇跡⑨十三人目のお客さま

 京都先斗町の路地奥にある、占いこととひ庵の入口には、鉄でできた三日月がぶら下がった風鈴があった。その風鈴は、お客様が来るたび、
ちりん。
と、澄んだ音を鳴らした。
けれど、ときどき、誰もいないのに鳴ることがあった。
    

 こととひ庵には、不思議な噂があった。
「閉店したあと、女の人の笑い声が聞こえる」
「朝来たら、出しっぱなしだったカードが箱に戻ってる」
「夜、店の中を藤色の着物の女の人が歩いている」

 けれど、誰も怖がらなかった。
 むしろ、その噂を聞くと、常連客は笑って言う。
「この店らしいなあ。」
     

 ある日、新しく受け付け兼占い師見習いに来た大学生の結菜は、閉店後の片づけをしていた。
女占い師のお客さまは、今日は12人だった。
「先生、これで終わりです。」
「ありがとう。」
 女性占い師は穏やかに笑った。

 この女性占い師には、一つ不思議な決まりがあった。
一日に鑑定するのは、十二人まで。
どれだけ予約が入っても、十三人目になると必ず断る。
「今日はもういっぱいなんよ。また明日にしよか。」

 結菜は、不思議に思っていたので尋ねた。
「先生、お客さま、十三人目を入れたらあかん理由があるんですか?」

 しばらく沈黙があった。
そして占い師は、奥のブースの椅子を見て言った。
「昔からな。」
「はい。」
「十二人目までしかお客さんがおらへん日でも、最後にもう一人、来てくれはる気がするんよ。」

「ほな、お疲れさん。」
 結菜が帰ろうとした、その時だった。
カタン。奥の鑑定ブースで、小さな音がした。
「気にせんでええよ。」
「でも・・・。」

 結菜は恐る恐る奥へ行き、ブースのカーテンを開けた。誰もいない。
けれど、さっきまで広げたままだったルノルマンカードが、一枚残らず箱の中に収まっている。しかも、箱の蓋まできちんと閉じられていた。

「先生、カード、片づけましたか?」
「いえ。」
「じゃあ、誰が・・・。」
 女性占い師はちらりと奥を見た。
そして、なぜか懐かしそうに笑った。
「几帳面な人が、いてはるんよ。」
「誰ですか?」
「そのうち会えるかもしれんなあ。」
それ以上、何も教えてくれなかった。

 数日後。
 結菜はまた閉店まで残ることになった。
最後のお客様を送り出し、床を掃いていると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。椿の香りだった。
「いい匂い・・・。」

顔を上げると、店の奥に、女の人が立っていた。
三十代半ばくらいだろうか。

 淡い藤色の着物を着て、肩までの髪を結んでいる。やさしい目をしていた。
けれど口元には、どこかいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
まるで今にも、
「こんばんは。」
と声をかけてきそうな人だった。

 ただ一つ、普通の人と違うところがあった。
身体の向こうに、格子戸の桟が見えていた。月明かりのように、身体が淡く透けている。

「せ、先生!」
結菜の声が裏返った。
女性占い師が奥から顔を出した。
ところが、その女性を見るなり、驚くどころか笑った。

「ああ。久しぶりやね。」
藤色の着物の女性も笑った。
「また来てしもた。」
「寒ぅなったさかい?」
「そうかもしれへん。」
「相変わらずやなあ。」

 まるで昨日も会った友人同士のようだった。結菜だけが、二人を交互に見ていた。
「あの、この方は・・・。」

 女性占い師が言った。
「こちらは、桐野あかりさんです。」
そして、少し間を置いた。
「二十年ほど前まで、ここで占い師をしてはった人や。」
結菜は息をのんだ。
「二十年前まで?」
「うん。」
「じゃあ・・・。」

 あかりが申し訳なさそうに笑った。
「うちは、幽霊、いうことになるんかなあ。」
あまりにも普通に言うので、結菜は返す言葉がなかった。

「あ、あかりさんも、占い師だったんですか?」
「そうやで。」

「どんな先生だったんです?」
女性占い師が即座に答えた。
「ようしゃべる人やった。」
「ちょっと。それ褒めてへんやん。」

 二人は声をあげて笑った。
その笑い方は、生きている人と何も変わらなかった。
     
「あの頃はね。」
あかりは懐かしそうに店を見回した。
「毎日、ほんまに楽しかった。」

就職が決まったと泣きながら報告に来た人。
別れた恋人と復縁できたと飛び込んできた人。
結婚した人。
赤ちゃんを抱いて見せに来てくれた人。

「最初はみんな、しんどそうな顔してここへ来はるやろ。でも、帰るときにちょっと笑ってくれはる。それを見るんが好きやった。」

 あかりは目を細めた。
「人の人生を一緒に喜べる仕事って、なんて幸せなんやろって思ってた。」

 そこで、声が少しだけ変わった。
「せやけどな。」
 結菜は顔を上げた。
「私、自分の幸せは、ずっと後回しにしてしもたんよ。」

 あかりには、長く付き合っていた男性がいた。名前は修一。結婚の約束もしていた。

 修一は何度も言った。
「そろそろ一緒に暮らさへんか。」
そのたび、あかりは笑って答えた。
「もうちょっと待って。」

鑑定の予約が入っている。
講座も始めたばかり。
自分を頼ってくれるお客様もいる。
幸せになるには、いつでも間に合うと思っていた。

 けれど、ある冬、修一が病気になった。
病状は思いのほか早く進んだ。入院してから半年もたたないうちに、修一は亡くなった。

「間に合わへんかった。」
 あかりはぽつりと言った。 
修一が亡くなったあと、あかりはしばらく占いができなくなった。

 人に、
「未来は変えられますよ。」
と言いながら、自分にはもう欲しい未来がない。そんな気がした。
以前より、未来を断言しなくなった。
代わりに、よくこう言うようになった。

「明日があるとは限らへん。せやから、会いたい人には会い。言いたいことは言い。やりたいことは、できるうちにやっとき。」

 ところが、それから三年後。
今度はあかり自身が病気になった。
最初は働きすぎだと思っていた。
けれど検査を受けると、すでに病気は進んでいた。

 それでもあかりは、病室の枕元にルノルマンカードを置いていたという。
「元気になったら、また店に戻る。」
それが口癖だった。
けれど、その願いは叶わなかった。
三十九歳で、あかりは静かに息を引き取った。

「・・・それで、幽霊になったんですか?」
結菜が恐る恐る尋ねた。
あかりは首をかしげた。
「どうなんやろ。」
自分でもよく分からないらしい。

「なんで今も、ここにいてはるんですか?」
 結菜が尋ねた。あかりはしばらく考えた。
「たぶんな、お礼を言いたかったんやと思う。」
「誰に?」
「この場所に。」

 あかりは店を見回した。
「泣いて来はった人が、ちょっと笑って帰っていく。その景色を何年も見せてもろた。」
そして、女性占い師を見た。
「死んでからも、ずいぶん長いこと見せてもろた。」
「この場所に長居しすぎや。」
占い師が笑った。
「ほんまやなあ。」
あかりも笑った。

 そのときだった。
ちりん。
入口の風鈴が鳴った。誰も入ってこない。女性占い師が静かに立ち上がった。
「お迎えが来はったみたいやね。」

 結菜が入口を見る。
そこに、一匹の白いキツネがいた。
身体は白というより、月の光でできているようだった。
向こう側の壁が淡く透けて見える。足音はしない。
風もないのに、長い尻尾だけがゆっくり揺れていた。

 あかりが立ち上がった。キツネを見つめて言った。
「あんた、迎えに来てくれたん?」
キツネは答えない。
ただ路地の奥へ向かって一歩進み、振り返った。あかりがついて行く。

「あかりさん。」
女性占い師が呼んだ。あかりが振り返る。
「ありがとう。」
「何が?」
「この店、よう守ってくれはった。」

 あかりは少し驚いた顔をした。
それから首を横に振った。
「守られてたんは、私の存在のほうや。」

 二人はしばらく見つめ合った。
二十年分の言葉が、その沈黙の中にあるようだった。

 あかりは白いキツネのあとを歩き始めた。
途中であかりが振り返った。
「修一、待ってるかなあ。」

 女性占い師は笑った。
「二十年も待たせたんや。会うたら、まず謝らなあかんな。」
「怒ってるやろか。」
「怒ってても、会うたらすぐ許さはるわ。」

 あかりは、声を立てて笑った。
その笑顔は、幽霊ではなかった。
恋する一人の女性の顔だった。

「ほな、行ってくるわ。」
「行っておいで。」

 白いキツネが歩を進める。あかりも、そのあとを追った。
路地の角を曲がる直前。藤色の着物が、ふわりと揺れた。

 次の瞬間。
二つの姿は、京都の夜へ静かに溶けていった。

 それから、こととひ庵でカードが勝手に片づくことはなくなった。閉店後の女の人の笑い声も、もう聞こえない。

 それでも女性占い師は、一日に十二人までしか鑑定しない。
「もう、あかりさんはいないのに?」
ある日、結菜がそう聞くと、占い師は笑った。

「ええんよ。空けといたら。」
「どうして?」
「人にはな、目に見えへん誰かが座る席も必要なんや。」
その意味を、結菜はまだ完全には分からなかった。

 その夜。最後の灯りを消したときだった。

 ちりん。
 三日月の風鈴が、小さく鳴った。
結菜と占い師は同時に振り返った。

 入口には、誰もいなかった。
ただ、先斗町の細い路地の向こうに、月が浮かんでいた。

 まるで誰かが、
「ありがとう。」
そう言っているような、やさしい月だった。

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