『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』のナガノさんは、黒澤明監督の「羅生門構造」を意識した?
ちいかわのことはほとんど知らない。
でも、一度だけ、2024年に名古屋PARCOの『ちいかわラーメン 豚』に行った時に、「かわいい顔して、二郎系ラーメン好きなんて、ちいかわ、やるじゃないか。」と思ったのでした。
「ラーメン豚 小(ハチワレ)」を、ニンニク・野菜増し・背脂増し・カラメでオーダーしたのですが、その時に「ハチワレって友達もいるんだね」と、それくらいの知識。
ちいかわの映画を糸井重里さんや鈴木おさむさんが話題にしているので気になっていたけど、自分は観ないだろうな〜と漠然と思っていたんですよね。
昨日のことですが、僕がサブレギュラーで出演している、LiLiCoさんと稲葉友さんがMCのJ-WAVE「ALL GOOD FRIDAY」の生出演を終え、同じ六本木ヒルズ内の森美術館で開催中の『ロン・ミュエク展』を観ようとチケット売り場に行ったら、長蛇の列。
諦めて階段を降りたら、すぐ隣がTOHOシネマズ。
その時は15時55分で、「もし、ちいかわの映画がもうすぐ始まるなら観てみようかな……」と調べてみたら、なんと5分後から始まる。
これは運命かも、とすぐにチケットを買いました。
映画が始まって、最初の1時間は「これがなんでこんなに話題になってるんだ?」と思いながら観ていたのですが、その後がヤバかった。
観終わって、なんだか今まで感じたことのない感情が込み上げてきて、気持ちの整理がつかなくなった。
それからずっと頭の中にちいかわの映画があって、原作者で脚本も書いているナガノさんのメッセージがジワジワ染み込んできた。
翌朝にはYouTubeで考察を見たのですが、映画が99分だったのに、54分の考察動画を見るという、いつもはやらないようなことまでしちゃっていました。
「羅生門構造」
この言葉を初めて知ったのは、是枝裕和監督の『怪物』を観た時でした。
「羅生門構造」という名前の由来は、黒澤明監督の『羅生門』です。
まさか『ちいかわ』を観たあとに、黒澤明監督の『羅生門』のことを考えるとは思わなかった。
もちろん、ナガノさんが『羅生門』を意識して脚本を書いた、と言いたいわけではありません。
でも、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観終わったあと、なぜか僕の中でこの二つがつながったんです。
そして、もうひとつ。
映画の中のある場面を観て、かなりゾッとしました。
そこから考えていくと、これは映画の中だけの話ではなく、普段の自分にも返ってくる話なのかもしれないと思った。
なぜ『ちいかわ』から『羅生門』を連想したのか。
そして、何にそんなにゾッとしたのか。
ここから、そのことについて書いてみたいと思います。
※ここから『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の内容に触れます。ネタバレを含みますので、まだ映画を観ていない方は、ぜひ鑑賞後に読んでいただけたらと思います。
セイレーンから見た島民
セイレーンから見れば、島の人たちは大切な人魚を奪った存在だ。
自分の大切な存在が奪われてしまった。
その視点に立てば、セイレーンの怒りはとても自然なものに見えます。
ところが、視点をヒトハに移すと景色が変わる。
セイレーン自身は気づいていないけれど、その行動がフタバを死の淵まで追いやる原因になってしまった。
ヒトハから見れば、セイレーンは自分の大切な存在を奪おうとした側になる。
セイレーンは、大切な存在を島民の誰かに奪われた。
そして今度は、自分が誰かの大切な存在を奪おうとしてしまった。
被害者だったはずの存在が、別の誰かから見れば加害者になる。
では、どちらが悪いのか。
そんなふうに簡単に答えを出せないところに、この物語の怖さがある。
誰の視点から見ているのか
ここで僕が思い出したのが、「羅生門構造」という言葉でした。
ひとつの出来事も、誰の視点から見るかによって、まったく違って見える。
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』が、そのまま黒澤明監督の『羅生門』と同じ構造だと言いたいわけではありません。
ただ僕には、ひとつ共通して感じるものがありました。
誰の視点から見るかによって、同じ出来事の意味が変わってしまう。
セイレーンから見た島の人たち。
ヒトハから見たセイレーン。
視点をひとつずつ動かしていくと、「悪いのはこの人」と簡単には言えなくなってくる。
誰が正しいのか。
誰が悪いのか。
というより、
自分はいま、誰の側からこの出来事を見ているのか。
ナガノさんの描いた『ちいかわ』から、黒澤明監督の『羅生門』へ。
一見まったく違う二つの作品が、自分の中では「視点」という一本の線でつながったんですよね。
「人を食べちゃってる?」と思った
そして、僕が特にゾッとしたのが、人魚を食べる場面でした。
まるで金目鯛の煮付けのように料理された人魚を見た瞬間、
「人を食べちゃってる?」
と思ったんです。
でも、その直後、もっと嫌なことを考えてしまった。
“人魚” の煮付けを食べていると思ったからゾッとしたけど、もし映画の中のキャラクターが “ただの魚” だったら、その魚を煮付けにして食べていても、僕はここまでゾッとはしなかったと思うのです。
じゃあ、その違いはなんなんだろう。
ナガノさんがキャラクターとして「ただの魚」ではなく「人魚」を登場させたことで、普段は意識しない「食べる側」と「食べられる側」の境界線を、急に意識させられました。
映画を観た人はわかると思いますが、「人魚」と「人形」がかけられていて、「炭酸」と聞こえた言葉が「単三(電池)」で、そこが「人形」につながっていったりと、言葉の仕掛けもよく考えられている。
でも僕はそれ以上に、「魚」ではなく「人魚」にしたことで、そこに「人」を感じさせるナガノさんのセンスがすごいと思ったんです。
人魚ならゾッとする。
魚ならゾッとしない。
その境界線って、いったい何なんだろう。
もちろん、この映画が「魚を食べることは残酷だ」と言っているわけではないと思います。
でも考えてみれば、僕たちは普段、魚を食べている。
それを「食べ物」として見ているから、金目鯛の煮付けを見ても「おいしそう」と思う。
でも、そこに「人」という要素が加わった瞬間、「食べ物」ではなく「誰か」に見えてしまった。
そう考えると、ここにも「視点」があるんですよね。
島の人たちから見れば、食べる対象だったのかもしれない。
でもセイレーンから見れば、
「自分の大切な存在を奪われ、食べられてしまった」
という出来事になる。
そして、食べられた人魚の側から見たら?
映画の中で「誰の視点から見るか」と考えていたはずなのに、気がつけば、観ている自分自身の視点まで揺さぶられていました。
それにしても、セブンイレブンすごいコラボするなぁ。
食べずらいよね笑

そして、ちいかわだけが知っている
そして最後に、もうひとつ気になったことがあります。
ヒトハとフタバが人魚をセイレーンから奪って食べたことに気づいたのは、ちいかわだけでした。
ハチワレもうさぎも知らない。
そして、ちいかわはそのことを誰にも言わない。
ここが、僕にはすごく印象的でした。
この映画では、セイレーンから見える世界と、ヒトハから見える世界が違う。
そして最後には、同じ冒険をしてきたはずのちいかわ、ハチワレ、うさぎの間にも、「知っていること」の違いが生まれる。
ちいかわだけが、知ってしまった。
でも、その真実を暴くこともしない。
誰かを責めることもしない。
ハチワレやうさぎに話すこともしない。
ただ、自分の中にしまって帰っていく。
そこで流れるのが、エンディングテーマの『机さする』。
そして『机さする』を歌っているのは、ちいかわ自身です。
この曲には、何があったのかを無理に聞こうとしないことや、忘れてしまうことへの怖さ、記憶を何かの形で残しておこうとする気持ちが描かれているような気がします。
もちろん、『机さする』が「 ”ひみつ” を知ってしまったちいかわの心情」をそのまま歌った曲だ、と言いたいわけではありません。
でも、映画を観終わった僕には、どうしても重なって聴こえた。
真実を知ることと、その真実を誰かに話すことは、同じではない。
誰かの秘密を知ってしまっても、それを暴かず、自分の中にしまっておくこともある。
でも、誰にも言わなかったからといって、自分まで知らなかったことにはできない。
セイレーンには、セイレーンにしかわからないものがある。
ヒトハには、ヒトハにしかわからないものがある。
そして、ちいかわには、ちいかわだけが知っているものが残った。
そう考えると、この映画で描かれていた「誰の視点から見るか」ということは、善悪を決めるためだけのものではなかったのかもしれません。
人は同じ場所にいても、同じものを見ているとは限らない。
そして、自分にしか見えていないものを抱えたまま、また日常を過ごしていくこともある。
ナガノさんの描いた、かわいくて、ちょっと (いや、かなり) 不思議な『ちいかわ』の映画を観て、まさか黒澤明監督の『羅生門』のことまで考えるとは思わなかった。
そして映画館を出た翌日になっても、まだ考えている。
たぶん、それがこの映画にこんなにも心を持っていかれた理由なんだと思います。
