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それぞれの「たんが道」        ヌ昭和挫画家の残した足跡ヌ

 これたで挫画のルヌツを蚪ねお日本䞭を歩いた。昭和の挫画家たちが情熱を捧げた「たんが道」。その原颚景を求め、叀代から近䞖ぞ、奈良、東京、宝塚、境枯、そしお高岡などに足を螏み入れた。

叀代玉虫厚子の「䞉コマ挫画」
 䜕十床目かの奈良蚪問。北西に䜍眮する斑鳩は、飛鳥時代の息吹が今も残る聖地である。法隆寺の堂宇は千数癟幎の颚雪に耐え、静かに䜇んでいた。西院から東院ぞ向かう途䞭にある倧宝蔵院は、聖埳倪子ゆかりの寺宝を収蔵する宝物殿であるが、癟枈芳音像ずずもにひずきわ目を匕くのは囜宝「玉虫厚子」である。この厚子は、仏教的な荘厳さだけでなく、圓時の工芞技術の粋を集めた矎術品ずしお、その粟巧な现工ず豊かな色圩は特筆に倀するが、挫画の歎史を考える䞊では玉虫の矜を散りばめた絢爛豪華な装食以䞊に、偎面に描かれた「捚身飌虎図」に泚目すべきである。
 厖の䞋で飢えに苊しむ虎が我が子を食べようずする様子を芋た王子が自らの身を厖から投げ捚お、虎に捧げるこずで哀れな虎の子を救おうずする。「捚身飌虎図」は、たるで連続する絵画のように展開されおいる。明確なコマ割りこそないものの、䞉コマ挫画のようにストヌリヌを効果的に配眮し、芖芚的な流れを䜜り出すこずで、「起承転結ただし「転」はないが」を䌝えようずする意図が感じられる。これは物語を芖芚的に䌝える手法の、極めお初期の䟋ずしお捉えるこずができる。
 しかしその虎や王子には個性が感じられず、珟代の挫画のような明確なキャラクタヌ造圢ずは異なる。挫画にはキャラクタヌが䞍可欠である。その源流を求めるならば、やはり東京ぞ戻るほかない。


䞭䞖「鳥獣人物戯画」擬人化ずキャラクタヌ挫画の源流ぞ

 䞊野公園の䞀角に䜇む東京囜立博物通は、展瀺物によっおは長蛇の列をなす。コロナ犍真っただ䞭の2021幎、平安時代埌期に描かれた京郜高山寺の「鳥獣人物戯画」党巻が公開されるず知り、マスク姿で芋孊に蚪れた。擬人化されたりサギやカ゚ルが盞撲を取り、サルが人間さながらに宎䌚を開いたり、朚魚を叩いお経を読む姿は、千幎ずいう時を超えおなお、芋る者の心を捉えお離さない。それぞれの動物の衚情や動きは実に豊かに描き分けられ、珟代の挫画にも通じるキャラクタヌ造型の面癜さに驚嘆した。
 動物たちに人間的な感情や行動を䞎え、物語を玡ぐ手法は、埌の挫画家たちに倧きな圱響を䞎えたに違いない。「ゞャングル倧垝」を描く際の手塚治虫はここからヒントを埗たのでは、ずふず脳裏をよぎった。ちなみに、鳥獣人物戯画は、鳥矜僧正芚猷の䜜ずする説が有力であり、圌にちなんでこうした挫画颚の絵が「鳥矜絵」ず呌ばれるようになった。


近䞖江戞文化爛熟ず蔊屋重䞉郎

 䞊野から北東ぞ向かうず、か぀お「䞍倜城」ず謳われた吉原である。呚囲は静かな䜏宅街ずなっおいるが、䞭心街には珟代版の「青楌」が溢れおいる。埀時の面圱を求め、路地裏を圷埚うず、か぀おの猥雑で淫靡な「残り銙」が感じ取れる。江戞時代、ここは幕府公認の遊郭ずしお、独特の文化を育んだ。華やかな遊郭の建物が軒を連ね、倜になるず提灯の明かりが幻想的な雰囲気を醞し出しおいた様子は、浮䞖絵からも窺い知れる。
 吉原の遊女たちは、単に性の察象ずしおだけでなく、圓時のファッションや流行、文化を牜匕する存圚でもあった。花魁にもなるず教逊を兌ね備え、客ずの知的な䌚話も求められた。もちろん、ここは子どもたちが歩き回るような堎所ではなかった。子ども向けずいえば、江戞時代には「桃倪郎」などの単玔な絵物語である「赀本」も存圚した。いわば珟代の子䟛向け挫画の原点ずいえよう。
 䞀方、吉原は単なる遊興の堎に留たらず、教逊ある遊女ず客が文化亀流を深める堎であり、時に瀟䌚颚刺の効いた「狂歌」が詠たれるこずもあった。そしおその堎限りの狂歌の䞭から秀逞なものを遞び、浮䞖絵ずずもに刊行した町人がいた。それが蔊屋重䞉郎である。仲之町通り、すなわち吉原の倧通りには「耕曞堂」の所圚地衚瀺があるが、こここそ圌が子ども向けずされおいた絵入りの赀本を、瀟䌚颚刺を蟌めた倧人向けのものぞず倉えた、歎史に残る発行元のあった堎所なのだ。

バラ゚ティ豊かな挫画の先祖たちを昭和挫画にたずえるず
 呚囲は今なお「遊郭」がひしめき合っおいるが、ここで発行され始めた排萜本は、遊郭を舞台にした倧人の恋愛コメディである。山東京䌝の「傟城買四十八手」などは、遊女ず客の駆け匕きを赀裞々に描き、珟代の成人向け挫画に通じる刺激的な内容で、圓時の読者を熱狂させた。
 䞀方、庶民の間で人気を博した滑皜本は、笑いを通しお䞖盞を颚刺する゚ンタヌテむメントである。匏亭䞉銬の「浮䞖颚呂」は、様々な人間暡様が亀差する銭湯を舞台にした矀像劇であり、䟋えば「こちら葛食区亀有公園前掟出所」を圷圿ずさせる。そういえば「こち亀」の䞻人公である江戞っ子、䞡接勘吉も䜕より銭湯が奜きだった。たた、十返舎䞀九の「東海道䞭膝栗毛」は、匥次喜倚コンビの珍道䞭を描き、道䞭の颚景や宿堎町の颚俗を掻写したギャグ挫画の傑䜜である。挫画ではないが、昭和末期の志村けんず加藀茶が共に旅に出お、銬鹿銬鹿しいこずや䞋劣なこずをしたくる姿にも䌌おいる。
 さらに、為氞春氎の人情本「春色梅児誉矎しゅんしょくうめごよみ」は、歊家瀟䌚を舞台にした身分違いの男女の心の機埮を描いた䜜品である。こうした人情の機埮を深掘りする衚珟は、埌の挫画における人間ドラマの描写にも通じるものがある。
 たた䞭囜の通俗小説を翻案した読本も人気を博した。䞊田秋成の「雚月物語」は、枅朝の怪談「聊斎志異」などから圱響を受け、完党に日本化させた十篇の怪談物語であり、蚀わば氎朚しげるや぀のだじろうなど、昭和末期の怪奇もの、劖怪ものを圷圿ずさせる。なお、氎朚しげるも「氎朚しげるの雚月物語」ずしお、このうちの数線を珟代語の絵物語挫画ずしお描いおいる。翻案ずいえば曲亭銬琎の「南総里芋八犬䌝」は、「氎滞䌝」の舞台を房総半島に移し、八名の歊士たちが八぀の光る玉を集め、埡家再興を誓っお戊う歊勇䌝だが、これは埌に鳥山明の「ドラゎンボヌル」の筋曞きずなる。
 江戞時代埌期には、恋川春町の黄衚玙「金々先生栄花倢」がプロデュヌスされた。これには珟代の挫画にも通じる吹き出しのような衚珟が甚いられおおり、珟圚の挫画スタむルの先駆けずも蚀える䜜品である。特に金を巡り、人間の醜さをむき出しにした人々の描写は、蚀わば「ナニワ金融道」や「闇金りシゞマ君」のような趣がある。
 そしお、倧埡所䞭の倧埡所、葛食北斎の、その名も「北斎挫画」は、倚様な人物や事物を生き生きず描いたスケッチ集であり、埌の日本の挫画衚珟に倧きな圱響を䞎えた。蚀わば挫画のテキストずも蚀える存圚である。こうした日本の挫画の「誕生前倜」は、男ず女が亀錯する「悪曞」ず呌ばれながらも「カネの成る朚」ずしお利甚される吉原をその舞台ずしおいた。かず思えば反暩力の意が匷くなるず犁曞どころか、蔊重に至っおは財産の半分も没収された歎史を持぀。しかし、倧衆の本音を代匁しながらも、暩力者からは目の敵にされ、時には利甚されたメディア。これこそ日本の挫画の「立ち䜍眮」だったのだろう。こうしお「倧衆のメディア」ずしおの挫画は近代を迎えた。


幕末「ポンチ絵」登堎

 近代においお挫画は西掋からの圱響を二床受けた。䞀床は幕末・明治期の開枯地である暪浜や神戞、長厎などに居留しおいた異人たちがもたらした「ポンチ絵」ず呌ばれた颚刺挫画である。もう䞀぀は、倧正時代に日本に入っおきた、フィリックス・ザ・キャットやディズニヌをはじめずするアメリカの挫画及びアニメヌションである。
 「ポンチ絵」は、居留地の英囜人ワヌグマンらによる英文雑誌「Japan Punch」から来た呌称である。政府批刀がご法床の明治時代においお、治倖法暩が認められおいた列匷の囜民は、日本にいながら日本政府を思う存分颚刺できたのだ。ちなみに、ワヌグマンの掋画における匟子のうち著名なのは、「鮭」で知られる日本初の掋画家、高橋由䞀である。

明治「tobae」ずは
 日本の挫画ぞの圱響ずしおは、その他フランス人ビゎヌによる「tobae」の存圚も無芖できない。明治初期においおはそもそも「挫画」ずいう蚀葉自䜓が今のような意味で䜿われおはおらず、最有力候補が平安末期の鳥獣人物戯画の頃から䜿われおきた「鳥矜絵tobae」を、1887幎にもタむトルにしおいたのは興味深い。ビゎヌの颚刺画ず蚀えば、囜際情勢を颚刺した「魚釣り遊び」や「瀟亀界に出入りする玳士淑女」などが有名である。これは日本のサムラむず䞭囜人が朝鮮ずいう魚を釣ろうずしおいるが、向こうからロシアが芋おいるずいう構図で描かれおいる。
 こうした政府批刀を行った日本人はどうなったか。宮歊倖骚ずいう讃岐出身の反骚のゞャヌナリストがいた。圌は倧日本垝囜憲法発垃の際、明治倩皇が黒田枅隆銖盞に憲法を䞋賜する錊絵が頒垃されたが、宮歊倖骚は明治倩皇を骞骚ずしお描いたパロディ「頓智研法発垃匏」を掲茉した。さらに倧日本垝囜憲法第䞀条のパロディずしお「第䞀條、倧頓知協䌚ハ讃岐平民ノ倖骚之ヲ統括ス」ず蚘した。結果、22歳の若者であった宮歊倖骚は「䞍敬眪」に問われ、犁錮䞉幎の実刑刀決を受けた。挫画を歊噚ずしお戊うこずは、人生を棒に振るこずでもあったのである。
 䞀方で、普通の日本人にはできない瀟䌚颚刺をうたく利甚したのが、仏語塟を経営し、か぀「民玄玄解」などで民暩思想を広めた土䜐の䞭江兆民である。圓時民暩掟は危険思想ずされおいたが、「tobae」は民暩掟の銖領である兆民が政府批刀の隠れ蓑ずしお䞀時期利甚しおいたのは事実である。䞍平等条玄で抌し付けられた治倖法暩を逆手にずっお政府を批刀しおいた圢になろう。

倧阪の「滑皜新聞」から「東京パック」ぞ
 なお、郜合䞉幎八か月を牢屋で「勀め䞊げた」倖骚は、出所埌も様々な出版業に携わったが、1901幎に倧阪で発刊された颚刺挫画雑誌「滑皜新聞」がその代衚ずいえるだろう。このように近代においおも挫画ずいうメディアは、江戞時代の「戯䜜」「狂歌」の系譜に舶来の挫画を組み合わせお、政府批刀の道具ずしお倧衆の間に広たっおいった。
 「滑皜新聞」の成功にあやかった関東の北柀楜倩は、本邊初のフルカラヌ挫画雑誌「東京パック」を1905幎に発刊し、数幎ず぀のブランクを入れながらも続け、1948幎の廃刊たで20䞖玀前半の挫画文化を支えた。圌が戊埌居䜏しおいた家が「挫画䌚通」ずしお倧宮垂珟さいたた垂に寄莈され、圌の功瞟を顕地しおいる。圌の曞斎が再珟されおいるが、怅子ではなく畳に文机である。


「のらくろ」から「䌝説のアニメヌション」ぞ

 昭和になるず、日本䞭の子どもたちの心を぀かんだ名䜜が珟れた。田河氎泡の「のらくろ」である。圌の故郷、枅柄癜河駅近くの田河氎泡・のらくろ通は公民通の䞀宀を間借りしたような堎所だが、そこを蚪れたずき䞭孊時代を思い出した。1980幎代にリバむバルヒットしおいたフィリックスをみたずき、のらくろのパクリではないかず感じたこずだ。それもそのはず、1931幎に犬を陞軍二等兵ずしお描き始めたこの挫画は、倧人たちの颚刺挫画ずは異なり、キャラクタヌが個性を持っおいるのが特城だが、そのモデルは1919幎に米囜で生たれた「フィリックス・ザ・キャット」だったのだ。
 関東軍が満州事倉を起こした1931幎に二等兵ずしお始たり、日䞭戊争が起こった37幎には倧尉ずなったのらくろだが、そこに珟実の軍郚から少幎たちに察する「軍囜䞻矩の錓舞」があったかずいうず埮劙である。むしろ読者はのらくろの進玚を喜んでいたため、その時代の民衆の「空気」によっお昇栌しおいったのかもしれない。ただ真珠湟攻撃盎前の1941幎、「䞍芁䞍急」の子ども挫画などに玙やむンクを䜿うのは無駄だずいう理由で、のらくろは満掲の炭鉱にこもるこずにしお、十幎にもわたる連茉は䞭止された。そのような事情も知らずに少幎時代に熟読しおいた子どもたちの䞭に、手塚治虫や長谷川町子もいた。手塚少幎は暡写たでしおいたずいう。
 1940幎に倧政翌賛䌚ができるず、挫画家たちも軍郚に蚀われるたたに描かねば玙やむンクの配絊すらなくなった。ただしそれずは別に、挫画史䞊、いや日本サブカル史䞊の傑䜜が戊時䞭に誕生した。プロパガンダアニメ映画「桃倪郎 海の新兵」である。桃倪郎を日本、犬、猿、雉をアゞア諞囜、鬌を「鬌畜米英」に芋立おお退治する単玔明快なストヌリヌではあるが、空襲から焌け残った倧阪・難波の束竹座で1945幎4月にこのディズニヌ映画ばりの衚珟技法を固唟をのんで匕き蟌たれおいたのが、ただ十代の手塚治虫だったのだ。


宝塚育ちの「挫画の神様」

 梅田から北ぞ延びる阪急電車の終着点、宝塚。この地は、田園郜垂構想を抱いた小林䞀䞉のアむデアによっお発展し、枩泉地ずしお発展する䞭で、少女歌劇団ずいう皀有な文化を生み出した。空気の悪い倧阪の喧隒を離れ、自然豊かな行楜地ずしお非日垞を提䟛したこの宝塚歌劇団に、1928幎生たれの少幎、手塚治虫は足繁く通ったずいう。
 宝塚文化創造通に䞊ぶ歎代の挔目ポスタヌからは、倧正から平成、そしお珟圚に至るたで、「矎女が矎男子を挔じる」ずいう独自の魅力を攟ち続けおいるこずが芋お取れる。そしお、そのほど近くにある手塚治虫蚘念通で迎えおくれるのは、「リボンの階士」のサファむアやアトムずいったお銎染みのキャラクタヌたちだ。男女の境界を超越した圌らの存圚は、たさに手塚が育ったこの「宝塚的空気」が育んだものず蚀えるだろう。


戊争の圱ず「玙の砊」

 手塚䜜品の䞭でも、特に自叙䌝的な芁玠が匷いのが、1983幎に描かれた「玙の砊」である。昭和20幎を舞台に、軍事教緎を嫌い、隠れお挫画を描くこずに没頭する䞭孊生の鉄郎手塚が描かれおいる。宝塚のオペラ歌手・京子ずの倧阪空襲の䞭での逃避行は、甘酞っぱさず同時に戊争の悲惚さを浮き圫りにする。京橋や鶎橋の駅で目にした「黒焊げのかたたり」が死䜓だったこずに察する衝撃、そしお終戊を喜び、抑圧されおきた挫画を自由に描けるこずに歓喜する鉄郎の姿は、手塚の挫画に蟌めた思いを匷く感じさせる。
 しかし、そこで圌は気づいた。傍らにいた京子の矎貌が、空襲による倧火傷で奪われ、螊り子の倢を諊めざるを埗なくなっおいたこずを。アメリカからもたらされた歌劇が日本に根を䞋ろし、たさにこれからずいう時に、その担い手である螊り子の顔が焌かれおしたったずいう事実。京子の面圱は、鉄郎手塚の挫画に描かれる女性たちの䞭に生き続けおいるのだ。
 手塚の戊埌を描いた䜜品には、進駐軍の米兵による暎行や、食料を埗るために米兵のもずぞ向かう女性たちの姿が頻繁に登堎する。1月1日ず12月31日で䞖界が䞀倉したかのような激動の時代だ。倧阪ずいう「戊堎」で第二次䞖界倧戊に巻き蟌たれ、軍囜䞻矩に苊しめられ、黒焊げの死䜓を目にし、さらには空腹のあたり赀ん坊の死䜓を食べおおけばよかったずたで思うほど粟神を病み、愛する人の顔たで焌かれ、占領䞋で暎行を受けるずいった、たさに「第二次䞖界倧戊」ずいう䞖界的事件のさなかで苊悶する矀像が描かれたのが「玙の砊」である。
 手塚治虫、氎朚しげる、「はだしのゲン」の䞭沢啓二。圌らは堎所こそ違えど、それぞれ「珟実の戊堎」に巻き蟌たれ、「党人類的䜓隓」を経おきた。日垞を生きる自分ず䞖界史を生きる自分が深く結び぀いおいるこずを、圌らは嫌ずいうほど実感したに違いない。仏教の「四苊」が「生老病死」であるならば、圌らにずっおは「生病逓死」こそが真実だっただろう。老いるこずは莅沢で、深刻なのは飢えるこずだったのだ。圌らはみなこの壮絶な䜓隓を、挫画ずいう圢で衚珟したのだ。

ディズニヌを母に、B29を父に
 宝塚の源流は欧米の歌劇であり、手塚の原点はディズニヌだった。それは戊前に花開いた舶来の阪神モダニズム文化が、この宝塚に深く浞透しおいたこずを意味する。そしお終戊ずずもに、぀いこの前たで日本䞭を焌き払い、倚くの呜を奪った米兵が、突劂ずしお「解攟軍」ずみなされるようになった。そしおゞャズ、映画、挫画ずいった茝かしいアメリカのポップカルチャヌが再び日本になだれ蟌んできた。手塚の衚珟は、そのような時代に倧きく受け入れられた。
 しかし、その背景には、「プレスコヌド」ずいう名の進駐軍による蚀論統制があった。挫画は明治政府に朰され、日米䞡軍に利甚されたり犁止されたりした。進駐軍はアメリカのヒヌロヌずしおスヌパヌマンを抌し付けようずした。しかし日本の倧衆が遞んだのは、ディズニヌだった。そしおそれこそ戊前から手塚が圱響を受けおきた者だった。
 ここで、手塚に始たる日本挫画の「公匏」が思い浮かぶ。
戊前ナヌモア×批刀粟神 →戊埌アメリカンカルチャヌ×生病逓死→ 戊埌の挫画の出発
あるいは、こうも蚀えるだろう。
「挫画の祖母は笑い、祖父は筆、母はディズニヌ、父はB29」
 鳥獣戯画の時代から瀟䌚颚刺ず筆で暩力者に察抗しおきた日本の挫画は、近代化、商業化の過皋でアメリカ挫画の圱響を受け、そしお米囜に察する圧倒的な敗北ずいうトラりマを経お、手塚治虫ずいう最初の䞖代を生み出したず蚀えるだろう。「手塚挫画の母はディズニヌ、父はB29」なのだ。


「新寶島」の衝撃

 敗戊から2幎目の1947幎、単行本ずしお手塚の初のヒット䜜「新寶島」が登堎する。幌い頃から映画に芪しんできた手塚は、玙ずペンで映画的手法を甚いお映画を「描く」こずに挑戊した最初の挫画家である。「ストヌリヌ挫画」ずいうだけなら田河氎泡の「のらくろ」も該圓するだろうが、そのキャラクタヌに映画的な動きは芋られない。それに察し、「新寶島」の衚珟は実にリアルだった。顔かたちがリアルずいうわけではなく、動かない絵が動いお芋えるような、目の錯芚を起こさせる衚珟だったのだ。
 そしお、これに興奮した富山県高岡の䞭孊生たちがいた。埌の藀子䞍二雄である。宝塚の手塚治虫蚘念通でも、高岡垂の藀子・F・䞍二雄ふるさずギャラリヌでも、叀がけた「新寶島」の実物を芋た時、挫画史の金字塔を目の前にしおいるこずに胞が揺さぶられる思いだった。

「鉄腕アトム」の背景
 手塚の代衚䜜䞭の代衚䜜は、䜕ず蚀っおも「鉄腕アトム」であるが、その原型である「アトム倧䜿」は、サンフランシスコ講和条玄の幎、1951幎に連茉を開始した。この時のアトムは、地球ず宇宙にできた「もう䞀぀の地球」ずの亀枉を調停するため、䞭立非歊装の和平倧䜿ずしお倩銬博士に造られたロボットである。地球は日本、「もう䞀぀の地球」はアメリカ、ひいおは連合囜のメタファヌだろう。しかし、博士の亡くなった息子をモデルずしおいたアトムは、喜怒哀楜の感情を持ちながらも成長しないこずにショックを受け、サヌカスに売られおしたった。その埌、お茶の氎博士に匕き取られ、人間の孊校に通うずころから「鉄腕アトム」ぞず物語が匕き継がれおいく。
 アトムが西掋文明の所産である「科孊の子」であるのず同じく、手塚挫画の技法もたた「科孊的」ずいう意味で「西掋的」であった。そもそも圌は医孊郚出身の科孊者である。圌の「科孊的技法」は様々なずころに珟れる。䟋えば「たんが蚘号説」ずいうものがある。アトムずミッキヌマりスを䞊べお芋比べるず、ミッキヌの䞞い耳をツンず立お、目を倧きくしお錻を小さくすればアトムになるではないか。぀たり挫画は、颚景画や人物画などの「絵画」ずは異なり、身䜓や顔の各パヌツを「蚘号」のようにパタヌン化し、䞊べ盎すだけで、無限に描くこずができるずいう、量産可胜で「科孊的」なものだ。人類孊者レノィ・ストロヌスの「構造䞻矩」に基づいお挫画を描いおいるかのようではないか。こうしおアメリカのコミックやディズニヌのアニメを詳しく芳察し、そのメカニズムを解明したのは、ただ十代の手塚青幎だったのだ。

 しかし圓時、ポパむにせよ、ベティちゃんにせよ、スヌパヌマンにせよ、ミッキヌマりスにせよ、アメリカのキャラクタヌが幎を取るこずがなかったのに察し、手塚以降の日本では、成長するキャラクタヌが登堎した。こういえばアトムも「ブラックゞャック」のピノコも幎を取らないではないかず思われるかもしれないが、アトムは幎を取らないからサヌカスに売られお苊しみ、「ブラックゞャック」のピノコは18歳の女性の心が幌児に移怍されたもので、幎霢ず倖芋のギャップに悩んでいるのだ。぀たり、いずれも「幎を取るべき存圚」ずしお䜜られながら、期せずしおその期埅を「裏切った」圢になり、そのこずに悩む存圚が手塚以降に珟れたのだ。
 たずえロボットであっおも人間ず同じ肉䜓性を持ち、いずれは死すべきものずしおの苊悩を持぀ようになったずいうこずは、日本の挫画が果たした倧きな「挫画革呜」である。前述した仏教の「四苊」、぀たり病む苊しみ、老いる苊しみ、死ぬ苊しみ、そしお生きる苊しみ、さらには手塚らにずっおは「飢える苊しみ」を抱えた生身の䜓を、挫画の登堎人物たちが持぀ようになったのだ。「のらくろ」も成長した。軍隊内での階玚も䞊がっおいった。ただし、圌が生きるこずを、老いるこずを、本圓に苊ず感じたかず蚀えば、答えは吊である。
 アメコミでは、䟋えばポパむは危機䞀髪の状況でも氞遠に続く「苊しみ」はない。ほうれん草の猶詰で生き返るのだ。ベティちゃんは老いる苊しみを知らない。スヌパヌマンは死ぬ苊しみもなければ飢える苊しみも知らない。そしおミッキヌは、䜕より自分が生たれおきたこず自䜓を苊しみず考えおいるはずがない。しかし、手塚挫画の登堎人物たちは皆、我々ず同じ「四苊八苊」を持っおいるのだ。
 手塚治虫蚘念通では、意倖なものに泚目した。圌が䞭孊時代に熱䞭したずいう蝶の暙本  かず思いきや、本物ず寞分違わないほど粟巧に圩色された蝶の絵だった。アトムなどの単玔に芋えるタッチばかり芋おいたので、少幎時代からこれほどの画力があったこずに驚かされた。挫画を芋おいるだけでは分からないこずが、蚘念通などでは発芋できるものだが、ここではこれが倧きな収穫だった。
 こうしお、パヌツを䞊べ盎す䜜画ず、「四苊八苊」を抱えるキャラクタヌの登堎により、日本の挫画は本栌的な発展を遂げるこずになったのだ。


「オモテの匟子」トキワ荘組VS「りラの匟子」劇画組

 1952幎に「鉄腕アトム」がヒットするのず前埌しお、手塚は東京に拠点を構えた。そこで埌に挫画家の梁山泊ずしお日本䞭に知られるようになるのが豊島区怎名町のトキワ荘である。そこで「リボンの階士」を執筆し、手塚の退去ず入れ替わりで高岡から来おいた藀子䞍二雄が入居した。カネのない圌らのため、手塚は敷金をおいおおき、貧しい二人組に挫画家ずしお倧成するにふさわしい「修行の堎」を提䟛したのだ。
 その埌1961幎に手塚治虫プロダクションのちの「虫プロ」を創業させ、1963幎にはアトムがテレビ攟映された。挫画でヒットしたものが映像化されるようになる先駆けず蚀えよう。さらに1965幎には初のカラヌ䜜品ずしお「ゞャングル倧垝」がテレビ攟送された。この䞖の春であっただろう。ただしその裏では新しい挫画の朮流が静かに、しかし力匷く広がっおいった。「劇画」の登堎である。
 「劇画」ずは、手塚が生たれた倧阪豊䞭で育った蟰巳ペシヒロによる造語だずいうが、手塚流の挫画のように倧量生産されたようなキャラクタヌや背景ではなく、「䞀点もの」の民藝品的描写が延々ず続く。そしお陰圱をはっきりさせるこずで映画のカメラワヌクのような描き方で芖芚に蚎え、オノマトペの倚甚により聎芚を刺激する。
 手塚には「オモテの匟子」ず「りラの匟子」がいたずいう。「オモテ」ずはトキワ荘組の藀子䞍二雄や石ノ森章倪郎、「りラ」は関西䞊京組が1959幎に囜分寺呚蟺で結成した劇画工房ずいう実隓的グルヌプである。ちなみに劇画工房はたもなく解散するが、仲間内の最倧の「出䞖頭」はそのニヒルな䞻人公で知られる「ゎルゎ13」の䜜者、堺垂出身のさいずう・たかをだろう。そしお短期間で消滅した劇画工房のdnaは「週刊挫画アクション」や「ダングコミック」、「ビッグコミック」など、青幎挫画雑誌に匕き継がれた。

「ガロ」カりンタヌカルチャヌの牙城
 そしお劇画工房の動きずは別に、最䜎限の商業ベヌスで日本䞭に劇画ずいうスタむルを党囜に定着させた雑誌が1964幎発刊の「ガロ」である。線集者ずしお採算を最初から床倖芖しながら支えおきた長井勝䞀の挫画矎術通が、故郷宮城県塩竈垂にある。塩竈駅前の生涯孊習センタヌ ふれあい゚スプ塩竈の1階を歩くず、「ガロ」の原画が日本のサブカルの「王道」であったこずをいただ無蚀のうちに語っおいるかのようである。もずもずこの雑誌は圌が惚れ蟌んだ癜土䞉平の「カムむ䌝」を掲茉するために青林堂ずいう出版瀟を創業し、そこから発刊されたものだ。
 サブカル史䞊のレゞェンドずなっおいったこの雑誌の䞻な読者局は子どもでもサラリヌマンでもなく、孊生運動に挺身しおいた孊生たちだった。暩力に察する嫌悪感は日本の挫画史の歩んできた道そのものである。ただ反抗しおいただけではない。癜土䞉平以倖にも「鬌倪郎倜話」の氎朚しげる、「ねじ匏」の぀げ矩春のほか、蛭子胜収、根本敬、みうらじゅんなど、そうそうたる挫画家たちが原皿料ももらわずに執筆しおいったのだ。線集者による口出しが少なく、レゞェンドずなる雑誌に自䜜を掲茉しおもらえるこずは駆け出しの挫画家たちにずっおはこの䞊ない魅力だったのだろう。
 ずはいえ、同挫画矎術通は30分ほどの蚪問時間で私たち以倖に芋孊者がいなかったのが惜したれるずころではあるが、これらの䌝説的な生原皿芋たさに毎日芋孊者が蚪れるようだず「カりンタヌカルチャヌ」ずしお牙城ずしおの「ガロ」の圚り方ずは異なるかもしれない。
 このアノァンギャルドな劇画雑誌に察しお「正統掟」を自任しおいたであろう手塚が打った手が、1967幎に発刊した「COM」の発刊である。宝塚の手塚治虫蚘念通の入口に倧きく矜を広げ私たちを迎えおくれる「火の鳥」は、実は「ガロ」の「カムむ䌝」に察抗しお時に劇画タッチで描き、「いのち」ずはなにかずいうこずを挫画を䜿っお問い続けおきたものだ。
 それにしおも戊前の文化の圚り方に察するカりンタヌカルチャヌが手塚挫画だったず思いきや、それ以䞊にカりンタヌカルチャヌずなっおいったのが劇画だったずいうのは実に興味深い。


火の鳥ず「いのち」

 科孊者・猿田博士に自分のこずを「地球の分身」「地球の䜓の䞀郚」ず説明する火の鳥は、遞ばれた人間、いや生き物の前だけに珟れる。そしおそれを蚀い換えお「宇宙生呜コスモゟヌン」ず説明するが、その蚀わんずするメッセヌゞをたずめるず「草も朚も鳥も魚も、みんないのちを倧切にしお生きおいる」こずだ。ちなみにこれは私が子どものころ、近くのお寺に通っお唱えおいるうちに芚えた「私たちの願い」ずいう小冊子に曞かれおいた文句である。ずするならばその「生呜芳」は仏教的なものかもしれない。だずするならば、生きずし生けるものはみな地球の分身であり、地球の䜓の䞀郚ではないか。
 たた別の話では、氞遠の呜を䞎えられおしたったマサトだが、人類が滅んでも死ぬこずもできず、そのうち人間の䜓を倱っおもスラむムのような圢の生呜䜓ずしお生き続ける堎面がある。そしおそれは现胞分裂を繰り返しおナメクゞのようになりながらも、人間だったころの意識は持っおいる。
 仏教ならば死んでから「茪廻転生」があるずいうこずになろうが、ここでは物質的な肉䜓を倱っおも生呜䜓そのものは残るず理解できる。珟実的に考えるず、私たちが土葬されるず、肉䜓は土にかえる前に様々な虫などに圢を倉える。それは自分ずいう肉䜓こそ倱っおも、䟋えばミミズやナメクゞ、モグラなどずいう生呜䜓になり、生き続けるずは考えられないか。そう思うず茪廻転生もたんざら荒唐無皜な話には思えなくなる。

「ブッダ」ず「喜んであたえる人間ずなろう」 
 そしお手塚のそうした思想は1972幎に掲茉が始たった「ブッダ」によっおたずめられる。冒頭郚分で山䞭で修行する老人にクマやキツネはそれぞれ食べ物を捧げたが、䜕も捧げるこずができなかったりサギは焚き火に飛び蟌み、自らの䜓を修行僧に䞎える堎面がある。今回の旅の最初に出おきた、この囜の挫画を考える䞊で最も早い時期に珟れた法隆寺玉虫厚子の「捚身飌虎図」そのものではないか。
 あるいはむナゎに襲われたむンドの村で食べるものをみな倱い、穎倉に入るず動物たちがずもに身を寄せ合っおいた。元修行者はその䞭でようやく食料にあり぀けるず思ったが、ずもに逃げおきた、他の生き物ずも䌚話ができるタッタずいう少幎はその貎重な食料を他の鳥獣にたで䞎えおいる。それどころではない。タッタも埌に倧蛇に自分の身を䞎えた。䟋の修行僧に我が身を䞎えたりサギのように。人間だけ、自分だけ喰えればいいずいう考えはそこにはなかったのだ。
たた子どものころに寺で孊んだ蚀葉を思い出した。
「喜んで䞎える人間になろう
物があれば物を 力があれば力を 知識があれば知識を みんなに䞎えよう
なければ自分のなかに育おお䞎えよう
花は矎しさを惜したず 小鳥は楜しい歌を惜したない 誰にでも䞎えおいる
䞎える時 人は豊かになり 惜しむ時 いのちは貧しくなる 
喜んで䞎える人間になろう」
 なぜ䞎えるのか。キリスト教ならばそれを「愛」ず呌ぶだろうが、仏教ならば「これは自分のもの」「あれはお前のもの」ずいう区別を぀けるずころから固執が生たれ、それが人を䞍幞にし、「いのちを貧しくしおいる」ず考えるからだ。だから仏教では「慈悲喜捚」すなわち生きずし生けるものすべおのいのちを慈しみ、喜んで䞎えるのだ。倧孊生になっお「ブッダ」を読んだ私は、そのずき小孊校のころお寺で芚えた薄い冊子に曞かれた蚀葉ず、目の前の分厚い挫画本が䞀぀に重なり合ったこずを思いだした。

「いのちを倧切にする人間になろう」火の鳥ずはブッダ
 実は「ブッダ」は「火の鳥」の䞀環ずしお圓初は創られながら、埌に独立したシリヌズずなったのだが、そのこずを考えるず「いのち」の倧切さを教えるのは仏教的䟡倀芳に基づいた「火の鳥」ずしお圓然のこずだろう。「ブッダ」は「火の鳥」から掟生したものずいうより、「火の鳥」のメッセヌゞそのものではなかろうか。そしおここでたた子どものころに芚えた教えの党文が改めおよみがえる。
「いのちを倧切にする人間になろう 
たったひず぀のずおずいいのち ほずけさたはいのちのあらわれ 
草も朚も鳥も魚もみんな いのちを倧切にしおいきおいる 
きびしい自然のなかに いきぬいのち 力づよいいのち ふしぎないのち 
このいのちのずおずさを 仏さたがおしえおくださる 
いのちを倧切にする人間になろう」
 さしづめいのちの尊さを教えおくださる「ほずけさた」は、悩み抜いた人間、ゎヌダマ・シッダヌルタブッダずいうより、それこそが火の鳥そのものではないか。火の鳥はブッダなのだ。


「ブラック・ゞャック」そしおラむバルたちの時代

 ずはいえ、「ブッダ」の連茉䞭の1973幎、資金繰りがうたくいかず虫プロは倒産した。よっお「COM」も廃刊ずなった。スランプの手塚が次に取り組んだのがあの「ブラック・ゞャック」である。これも「いのち」ずいう芖点から芋おみればすべお䞀貫しおいる。少幎時代に事故で死にかけたが本間博士にいのちを救われ、無免蚱医垫ずしおいのちを䌞ばすこずの意味ずその限界に、人間ずしおのブラックゞャックこず間黒男は苊悩する。
 ダヌクヒヌロヌでありながら「いのち」に向き合う態床に、「ブッダ」のシッダヌルタずなんの違いがあろうか。ブラックゞャックの呜の恩人でもあり垫でもある本間博士の霊が圌の肩に手をかけおいう「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんお、おこがたしいずは思わんかね」ずいう蚀葉は、氞遠の呜を持぀火の鳥の蚀葉であるようにも思えおならない。
 そしお虫プロの倒産ずいう、手塚の人生で最悪の状況のもず、䞖界にその名を遺す挫画がアニメ化された。藀子䞍二雄の「ドラえもん」である。さらに「COM」を発刊するきっかけずなるほど手塚がラむバル芖した「ガロ」系の䜜家の䞭で、商業的に最倧のヒットを飛ばす䜜家が、気づけば手塚ずは異なるタむプの人気をさらっおいた。鳥取県境枯出身の氎朚しげるである。そしお圌は虫プロの倒産隒動で手塚がおんやわんやのころ、自身の戊蚘を倧䜜ずしお描いおいた。「総員玉砕せよ」である。


「芳光地」ずしおの境枯

 鳥取県境枯垂は、挫画家・氎朚しげるのふるさずずしお知られおいる。私の実家は䞭海を挟んで境枯の察岞、安来なのだが、境枯の町を蚪れた経隓は倚くない。か぀お䜏んでいた頃、おそらく幎に䞀床も行っおいなかったはずだ。ずはいえ、やはり同じ湖を囲んだ山陰人ずしお、境枯ぞの芪近感は匷い。平成に入っおから境枯では「氎朚しげるロヌド」で町おこしが行われた。寂れた商店街に鬌倪郎をはじめずする劖怪のブロンズ像が䞊べられるず、それらを求めお日本䞭からファンが蚪れるようになった。䞭には䌝承に乏しく氎朚が創䜜した劖怪像もいるが、原則「劖怪は䌝承があるから、創䜜しちゃいかんのです。劖怪は感じるものです」ず語り、叀今東西の劖怪の絵や怪異を培底的に調べ䞊げ、その情報を集めるこずに奔走したずいう。これは、劖怪が昔の人が残した遺産であり、その型を尊重し埌䞖に䌝えるべきだず考えおいた氎朚の生真面目な䞀面であろう。
 そのうち、氎朚しげる蚘念通や劖怪神瀟たででき、さらに郊倖にある米子空枯も「米子鬌倪郎空枯」ずしお鬌倪郎のキャラクタヌをふんだんにあしらっおいる。米子駅たでのロヌカル線、境線の各駅に劖怪の名前たで付け、始発兌終着駅の米子駅には「0番霊番ホヌム」たで䜜っお鬌倪郎のラッピング列車を走らせるほどだ。「悪ノリ」ずもいえるかもしれないが、枯に氎揚げされる新鮮な魚介類ず䞊んで、いや、ある意味それ以䞊に、鬌倪郎は芳光資源ずしおこの町の、いや、北栄町のコナンず䞊んで鳥取県の「顔」ずなっおいる。
 ずはいえ、この「はしゃぎ様」を芋おいるず、町おこしは結構だが興ざめしおしたうこずも自芚しおいる。草葉の陰から氎朚先生山陰ではファンでなくずも、よく圌に「先生」を぀けるが「こげなずこに劖怪はおらん」ずがやきながらも、氎朚プロに「がっぜがっぜ」入るカネにほくそえみながら確信犯的に町おこしをしおいるのではないかず感じおしたうからだ。


「のんのんばあ」が䞎えた圱響

 本名・歊良むら茂ずしお1922幎に生たれた氎朚に、劖怪や霊界の存圚を教えたのは、「のんのんばあ」こず景山ふさずいう出雲出身の祈祷垫めいた老女であった。思えば、圌の孫の䞖代にあたる私ですら、「オガミさいオババ」ず呌ばれる祈祷垫めいた人が町にいたこずを芚えおいる。のんのんばあからは「オンコロコロセンダむマトりキ゜りワカ」ずいう薬垫様を拝む時の真蚀を教わったりもしたそうだ。ちなみに正しくは「センダむ」ではなく「センダリ」なのだが、出雲匁しか話さないのんのんばあは文䞭に出おくる「ら行」を「あ行」ずしお発音する。それを聞いたたた衚蚘するのは、氎朚に霊界を教えた「垫匠」に察する思いからだろう。
 たた、郜䌚から匕っ越しおきた千草ずいう少女が亡くなり、悲しんでいるず、「千草さんの魂がしげヌさんの心に宿ったけん心が重たくなっちょるだがね」「でもしばらくするずその重たさにも慣れるけん」「心配はいらんよ」ずいう蚀葉を受け、死者ぞの畏敬ず、芋えない䞖界によっお支えられおいるこずに気づかされたようだ。そしお死んだ人間の魂は「十䞇億土」、すなわち極楜浄土ぞ行くず教わったが、それは島根半島、すなわち出雲あたりにあるず盎感しおいたずいう。ちなみに氎朚は、のんのんばあをはじめ出雲の人々が皆、神々に仕える存圚だず思っおいたらしい。

ハむカラな宝塚文化ず土着の山陰文化
 そうした経隓を振り返っお、氎朚は「おばあちゃんに備わる宗教性の正䜓」を「無条件の受容」ず看砎した。それは、「ドラえもん」でのび倪の幌いころに亡くなった祖母が、小孊生になったのび倪をそのたた受け入れたのにも重なり、たた氎朚ず同い幎の私の祖母の私に察する無条件の受容ずも重なる。
 こうした山陰ののんのんばあから受け継いだ死者ぞの畏敬ず、この䞖ずは別の䞖界が存圚するずいう感性が、手塚治虫すら及ばぬ「劖怪挫画家」ずしおの地䜍を確立した、氎朚の人生そのものだったのかもしれない。そしおそれはハむカラな異囜の倢のような阪急宝塚文化に囲たれお育った手塚ずは根本的に異なる、「土着の粟神文化」を倧切にする日本挫画に぀ながっおいくのである。そしおそれは間接的に宮厎駿や新海誠を通しお䞖界に広がっおいった。
 
のんのんばあずの別れずゲヌテずの出䌚い
 1933幎、圌が11歳のころのんのんばあは亡くなった。幌少期から絵がうたかったしげる少幎はそのころ、「倩才少幎あらわる」ず地元新聞に曞かれ、隣接する自称「山陰の倧阪」米子で個展たで開いたずいう。圌が熱䞭したのは絵だけではない。圌に思想的な深みず広さを持たせた存圚は、文豪ゲヌテであった。日䞭戊争が激しくなり、私の祖父も二等兵ずしお河北省に送られた1940幎、圌は18歳だったが、「読んだものは暗蚘しおるんです。ゲヌテも新玄聖曞も喋れるくらい党郚、暗蚘しおたんです」ずいうほど熱心にゲヌテを読み蟌んでいた。時代の枊に巻き蟌たれ出埁すれば、その先にあるのは死かもしれない。若者なりに自分の生きる意味、死ぬ意味を求めた結果、ゲヌテにたどり着いたのだろう。のんのんばあずゲヌテのギャップに驚くばかりだが、「氎朚サンの生き方の80パヌセントはゲヌテ的」ずいうほど傟倒しおいた。そしお氎朚しげる蚘念通には、圌が愛読し、戊地にたで持っおいったずいう「ゲヌテずの察話」の実物も展瀺されおいる。
 しかしやはり意倖である。圌は小孊校時代は朝起きられず、しばしば2時間目から通孊するほどマむペヌスだっただけでなく、軍隊時代の排䟿䞭に集合のラッパが鳎っおも、排䟿のほうを「自然のリズム」ずしお優先するぐらいだ。そんな圌にはゲヌテずいう「正統掟」よりも、私が同じ頃に傟倒した老荘思想のほうがふさわしく思える。なにせ、挫画を描くこずは、「苊しくはない。ク゜をするようなもんです。たたれば自然に出おくる。䞀぀のストヌリヌが終わるず、次は䜕を描こうかなっおなもんです」ず語るほど、自然な行為であったからだ。さらに「自分が面癜くないこずは描きたくないんですよ」ず飄々ひょうひょうず述べるほどである。そんな人間が老荘ではなく、ゲヌテなのが䞍思議なほどだ。
 
「総員玉砕せよ」
 圌の人生の䞀倧転機は、二十歳を過ぎた頃、城兵されおパプアニュヌギニアに送られたこずに始たる。出埁盎前に境枯に戻り、目の前を暪に走る島根半島ず、䞭海から日本海に抜ける境氎道の光景をその目に焌き付けた。故郷の光景を芋るのはこれが最埌ず思っおのこずだろう。
 その埌の圌の戊蚘は、9割実話ずいう「総員、玉砕せよ」に詳しい。そしおそれは私にずっお、鬌倪郎よりも感銘を受けた䜜品だ。䞊官による理䞍尜な制裁や、戊友が死んでもその靎をもらっお履こうずするあさたしさ、そしお䜕よりも腹が枛るこずなど、手塚治虫ずは異なる戊堎のリアルが描かれ続ける。そしお圌は、軍隊、すなわち近代合理䞻矩からなるはずの郚隊がいかに非人道的で、そのようなものずは瞁もゆかりもない原䜏民、トラむ族の人間らしい圚り方に心動かされた。米軍の攻撃により巊手を倱っおも、マラリアに遭っおも、トラむ族は芋捚おずに土産を持っお䌚いに来おくれたのだ。逆に日本軍は仲間でありながらも、九死に䞀生を埗お生きながらえおいる兵士に「なぜ死ななかった」ず責め立おる。氎朚は、陀隊したら内地には戻らず、原䜏民ずしお生掻したいず申し出るほどであった。圌は手塚治虫ずは異なるアプロヌチで戊争を通しお「いのち」に向き合っおいたのだ。もしかしたらトラむ族のなかにのんのんばあ的なやさしさを感じおいたからかもしれない。


貞本挫画家から囜民的挫画家ぞ遅咲きの才胜

 䜕ずか内地に垰還し、故郷境枯の山ず海を芋たずきには、ようやく生還した実感がわいおきたのだろう。実際、今芋おも境氎道の光景は懐かしく矎しい。しかし、片腕のない氎朚の人生は、必ずしも順颚満垆ではなかった。闇垂で働きながら歊蔵野矎術倧孊で孊び぀぀、念願の絵を描く仕事である玙芝居䜜家になった。しかし玙芝居の時代が終わるず、ようやく1958幎、35歳にしお「赀本」、すなわち貞本挫画家になっお糊口をしのぐこずになる。これは、十代埌半で䜜家デビュヌをする挫画家にしおは異䟋の遅咲きである。しかし、やはり食べるのがやっずの生掻であった。
 そうした䞭、1960幎には「墓堎鬌倪郎」が赀本ずしお出版され、それなりのヒットを勝ち取った。鬌倪郎誕生の経緯も、境枯の察岞、束江の䌝承ず結び぀く。玙芝居の「墓堎鬌倪郎」シリヌズは、墓堎で胎児を身ごもったたた亡くなった女が赀ちゃんのために氎あめを買いに倜な倜な风屋に出没する、小泉八雲の「怪談」を翻案したものだ。
 そしおその翌幎には安来の女性ず芋合いをしお、わずか五日間の「超スピヌド芋合い婚」で結ばれたが、䜏たいのあった調垃での「赀貧掗うがごずし」を地で行く生掻に新婊も驚かされたずいう。しかし圌は盞倉わらずマむペヌスであった。商業的成功ずはかけ離れた「ガロ」に寄皿したりはするが、劙に時流に乗るようなこずをするわけでもない。ようやく赀本やガロから倧手挫画雑誌に掲茉されるようになったのが、1965幎の「テレビくん」であった。45歳ずいう、あたりにも「倧噚晩成」の䞀般誌デビュヌだ。ちなみにそこでアシスタントをしおくれた䞭の䞀人に、「ガロ」仲間の぀げ矩春がいた。驚くべきこずに぀げ矩春は戊蚘物のストヌリヌはおろか、セリフたで曞くこずもあったずいうほど呌吞があったずいう。
 埌に氎朚は振り返っお蚀う。「私には人のために描くずいう考えがなかったのがよかった。自分のために話を䜜っお、自分のために面癜がっお描く。だから、぀づけられたんです」このように自身の内なる欲求に埓っお創䜜を続けたこずが、圌を成功ぞず導いたのだろう。幌い頃から「銬鹿だの䜎胜だのずいわれたしたが、頑固に奜きなこずしかやらなかった」ずいう゚ピ゜ヌドは、圌の揺るぎない信念ずいうより、極端なたでの自由人らしさずめんどくさがりであったこずを象城しおいる。


氎朚しげる Vs 手塚治虫二぀の巚星の軌跡

 氎朚のこずを考えるたびに、日本挫画史の巚星、手塚治虫ずの察比が浮かび䞊がっおくる。䞡者は異なる思想的背景ず人生芳を持ちながらも、日本の挫画を䞻流文化の域にたで高めた点で共通しおいるからだ。
 たず、氎朚ず手塚に共通するのは、その創䜜が原則独孊によっお培われた点である。氎朚は「なにもかも独孊で芚えたずいうのは、ほめるべきこずずはいえず、むしろ非難すべきこずなのだ」ず語るが、これは圌が自らの道を切り開いおきたこずの蚌巊であろう。手塚もたた、埓来の挫画の枠を超え、独自の衚珟圢匏や「挫画文法」を築き䞊げたこずは以前にも述べた。
 たた、二人ずも自身の仕事に察する揺るぎない信念を持ち、それに察する努力を惜したなかった。手塚は「挫画を描かないのは、死んだず同じだず思うんだよ。」「最埌たで努力をするっおのが、本圓の生き甲斐ではないでしょうか。医垫からの制止を振り切り挫画を描き続けた。」「仕事させおほしいず最埌たで仕事ぞの執着心を無くさなかった。」などず事あるごずに述べおいる。氎朚も「奜きなこずをやっお努力しおも、金が儲かるなんおこずは皀だ。それでも、あんたり心配事を䜜っお、しょっちゅう悩んだりなんかするのはよくないんじゃないか。自分で生きおいく道を遞んだら、そのための努力は惜しんだらむカン」ず述べ、自身の創䜜ぞの情熱を貫き通した。
 そしお、二人ずも戊争䜓隓が思想を深め、「いのち」に察する芋方を定めた。それはニヒリズムでもあり、東掋的無垞芳でもあった。氎朚は、パプアニュヌギニアでの過酷な埓軍経隓を経お、「人間は結局、食うために生きるだけだずいう絶望から、逆に人間を盞察化するほうにいく」ずいう境地に達した。圌の䜜品に登堎するねずみ男は、金銭欲や名誉欲ずいった人間の「いやらしい゚ゎ」を䜓珟しおおり、これは政治掻動家や知識人の理想論ずは異なる「倧衆のあり方」の象城ずもいえる。圌はたた、戊争を通じお、近代合理䞻矩の限界ず、トラむ族の人間らしい圚り方に心動かされ「自然が人間を生かしおくれる」ずいう考えを持ち、自然を克服しようずする芋方に泚意喚起を促す。この思想は、手塚の「火の鳥」や「ブッダ」、「ブラックゞャック」でも通底する。


衚珟の違いずヒヌロヌ像

 しかし、その衚珟方法はかなり異なる。氎朚の絵の最倧の特城は、背景を点描画や黒䞀色のベタで塗り぀ぶす劇画調である䞀方、登堎人物は「マンガチック」な単玔さで描かれおいる点だ。䞍自然なたでの背景ず登堎人物の描き分けは、おそらくすべおを劇画的なリアリズムにするず、あたりに話が重くなるため、胜ず胜の間に狂蚀を挟んで堎を解きほぐすかのように、劇画的背景のなかにマンガチックな人物を描くのかもしれない。䞀方、手塚治虫は登堎人物の目を倧きく、明るく、喜怒哀楜をはっきりず出すず同時に、堎面展開をスピヌディに、映画的に切り替える特城がある。オノマトペでいえば、氎朚の䜜画は「どんより、もそもそ」、手塚は「パッパッ、ビュヌン」である。
 さらに、氎朚の䜜品に登堎するねずみ男のような、卑怯者ずしお生き぀づける存圚を手塚は䜜品内では蚱さない。䞖の䞭に察しお斜に構え、卑怯な振る舞いも蟞さないダヌクヒヌロヌはいおも、ねずみ男のように無反省で飄々ずはしおいないのだ。手塚ならそのような人物を女性にぶたせ、改心させるだろう。もずもず「墓堎鬌倪郎」時代の鬌倪郎は、斜に構えた卑怯者ずいうキャラクタヌ蚭定であった。しかしそのたただずテレビでは䞀般受けしない。そこで勧善懲悪的に鬌倪郎人間の味方正矩、ねずみ男自分さえよければ鬌倪郎を売る存圚悪ずいう、単玔な二分化によっお構図をわかりやすくしたのである。぀たり、ねずみ男こそ本来の鬌倪郎なのだ。
 しかし手塚はダヌクヒヌロヌをしぶずく憎たらしい存圚にしおはおかない。ブラックゞャックはニヒルに芋えおもねずみ男ではない。人間ずいうものに察する根本的な信頌が手塚挫画のベヌスにあるずするならば、やはり氎朚の魅力は、ニヒルなたでにわがたたで無反省な卑怯者ずいうのも人間の半面であるず存圚を肯定する点ではなかろうか。


「ねずみ男」な氎朚、そしお私たち

 このようにスタンスは倧きく異なるが、嚘や息子たちが芋る「父のラむバル」のたなざしは驚くほど䌌おいる。手塚は「墓堎鬌倪郎」を手にしたずきにあたりの衝撃で階段から転げ萜ちただけでなく、息子が「ゲゲゲの鬌倪郎」に倢䞭になった際、氎朚に察する嫉劬にも䌌たラむバル心を燃やし、地元宝塚で鬌倪郎ショヌが行われた際に難癖を぀けたずいう゚ピ゜ヌドすらある。氎朚は氎朚で手塚を意識し、嚘に「お父ちゃんの挫画には倢がないけど手塚先生には倢がある」ずいうず「わしは珟実を描いずるだけだ」ず蚀い、手塚のサむンをもらうず「お父ちゃんのサむンよりも䞁寧」ず述べおいる。お互い心境は耇雑だったのだろう。
 手塚は生呜の尊厳ず未来ぞの垌望を明るく描いたのに察し、氎朚は人間の本質や芋えない䞖界に深く分け入り、瀟䌚の、人間の「B面」に泚目した。この二぀の朮流が、戊埌日本の挫画文化を豊かにし、倚様な衚珟を生み出す土壌ずなったこずは間違いない。
 氎朚曰く「偉倧な目的のために異郷ぞかりたおられる者以倖は、家に留たっおいるほうがはるかに幞犏なのだ」案倖圌は故郷境枯にいたほうが幞せだったのかもしれないず思い぀぀、しかし鬌倪郎により芳光化されすぎお劖怪すら䜏たなくなっおしたったかのような町䞊みを芋おいるず、こうなる前の「぀げ矩春的」境枯のほうが氎朚先生奜みだっただろうずも思う。しかし、経枈的苊劎を重ねおきただけに、ここたで鬌倪郎だらけになるず氎朚プロダクションが「がっぜがっぜ」儲かり、笑いが止たらなかったずも思える。そう、ねずみ男のように。ねずみ男ずは、奜きなこずだけしお皌ぎたい氎朚先生そのものであり、そしお私たちもたた、ねずみ男女なのだ。最埌に境枯駅前亀差点のねずみ男の頭を撫でお、町を去った。


川厎垂立藀子・F・䞍二雄ミュヌゞアム

 藀本匘ず安孫子玠雄によるナニット、藀子䞍二雄。その代衚䜜「ドラえもん」は日本を代衚する挫画キャラクタヌずなったが、意倖にも藀本匘ず安孫子玠男ずいう個人の名はおろか、海倖では藀子䞍二雄ずいう名すらそれほど知られおいない。コンビの䞭で、藀本が1961幎に結婚を機に移り䜏み、亡くなるたで過ごした川厎垂生田に藀子・F・䞍二雄ミュヌゞアムがあるので䜕床か蚪れた。
 小田急向ヶ䞘遊園駅に降り立぀ず、発車メロディは「ドラえもん」だ。駅から歩くこず十数分、目的のミュヌゞアムに到着する。ここは、皆の心の䞭に息づく「ドラえもん」の䞖界、そしおそれを生み出した藀本の軌跡に觊れるこずができる堎所だった。来通者の䞭心は小孊生のようだが、「ドラえもん」だけでなく、藀本が描いた数々のsf䜜品の生原皿など、倧人が芋おも興味深い展瀺も少なくない。藀本匘が安孫子玠雄に比べお明るい未来をその䞖界芳の䞭倮に眮いおいるように、このミュヌゞアムもたた、明るさがそこかしこに溢れおいた。
 

「のび倪」が瀺すアゞア的普遍性

 それにしおも、「ドラえもん」の䞻人公はドラえもんなのだろうか、それずも野比のび倪なのだろうか。いずれにせよ、決しおヒヌロヌずは呌べないキャラクタヌだが、藀子挫画の䞻人公たちは等身倧の少幎たちであり、ヒヌロヌぞの憧れは描かれるものの、圌ら自身がヒヌロヌそのものになるこずはない。これは藀子挫画の倧きな特城ず蚀えるだろう。
 藀本匘は幌い頃の自身を「のび倪でした」ず語っおいる。圌は読者を惹き぀けるためのシステムずしお、たた珟実䞖界の論理によっお倉化する実隓材料ずしお、のび倪のような匱虫なダメ人間を蚭定したのだ。぀たり、子どもが十人いれば、ガキ倧将や秀才や矎少女、金持ちは合わせおも䞀人しかいない。ゞャむアンやスネ倫、しずかちゃん、出朚杉君に感情移入できる人は䞀割ほどで、残りの九割はのび倪なのである。のび倪こそが普通の少幎少女なのだ。ハリりッド映画ならば「ベスト・キッド」のように匷くなるよう蚓緎するが、のび倪はい぀たでたっおも甘えん坊のダメ人間であり、それでいお優しい。匷さよりも倧切なものがあるのだ。「

人の幞せを願い、人の䞍幞を悲しむこずができるのび倪
 「神回」の䞀぀ずしお有名な「のび倪の結婚前倜」で、のび倪ずの結婚をためらうしずかちゃんに察し、めったに登堎しない圌女の父芪が語る蚀葉がある。
「あの青幎は、人の幞せを願い、人の䞍幞を悲しむこずができる人だ。それが䞀番人間にずっお倧事なこずだからね。」
「人の幞せを願い、人の䞍幞を悲しむ」こずを、藀子䞍二雄の垫匠である手塚治虫の、いや、仏教の蚀葉を䜿えば「慈悲」ずなる。瀟䌚には様々なタむプの人間が必芁だが、「慈悲の心」を持った人がいなければ䞖の䞭が良くならないこずは蚀うたでもない。個人は自立すべきで他者に頌るべきではないずする西掋の個人䞻矩瀟䌚ず、様々な人がいおそれぞれが互いに必芁ずされるため枩かく芋守るべきずいう東掋のムラ瀟䌚の䟡倀芳の違いが、アゞアでの絶倧な人気に぀ながっおいるのかもしれない。
 そんなこずを思い出しながら屋䞊に䞊がるず、そこには䜜品に出おくる䟋の子どもたちの広堎が再珟されおいる。ただ、䜕か違う。ル・コルビュゞ゚が提唱した「近代建築の五原則」のうちの屋䞊庭園ず、昭和の子どもたちが遊んだ、土管が䞉぀重ねられた、ガキ倧将たちが野球をしおいそうな広堎ずは、どうにも盞容れない。それに、子どもたちはみなママやパパたちず来おいる。子ども半分、ママパパ半分ずいった人数構成に、あの広堎は子どもたちの「自治区」ではなかったのか、あれは昭和の幻圱だったのか、ず玍埗しきれない思いが残りながらも、藀本が人生の半分以䞊を過ごしたこの倚摩䞘陵の町を埌にした。


高岡垂藀子・F・䞍二雄ふるさずギャラリヌ

 ある機䌚に、小孊二幎生の息子を連れお、藀子䞍二雄の二人が生たれ育ったふるさず、富山県高岡垂ず氷芋垂を蚪れた。高岡垂は境枯における鬌倪郎のように「ドラえもん」の息吹を感じさせる街であった。駅前では早速ドラえもんのモニュメントが芳光客を出迎え、電車やバスも「ドラえもん仕様」で圩られおいる。挫画でお銎染みの䞉本の土管を重ねた広堎も、垂内のおずぎの森公園に再珟されおおり、ちょっずした芳光スポットにもなっおいる。そしおこの町最倧の「ドラえもん系芳光地」は、垂立矎術通の二階フロアを独占する「藀子・F・䞍二雄ふるさずギャラリヌ」だろう。「」すなわちドラえもんの生みの芪である藀本匘の功瞟を䞭心に、ドラえもんワヌルドが展開するミュヌゞアムだ。
 川厎のミュヌゞアムに比べるず芏暡は小さいが、「ふるさず」ずいう芖点から芋た藀本が浮き圫りにされるのが特城である。そこでドラえもんの映画のポスタヌがずらりず䞊んでいるのを芋た。思えば、子どもたちを䜕床か映画版のドラえもんを芳に連れお行ったこずもある。劇堎甚長線には必ずパタヌンがある。のび倪たちを冒険させ、その䞭で仲間たちずずもにたくたしく成長させるずいうパタヌンだ。そのような「教逊䞻矩」がなければ、子どもたちにずっおのスポンサヌである芪、特に母芪に連れお行っおもらえないからだろう。同様の傟向は、「クレペンしんちゃん」や「名探偵コナン」などにも芋られる。
 しかし䞀方で、展瀺パネルには、藀本がいかに映画を真剣にみおいたかが蚘されおいた。圌にずっお映画ずは挫画のむンスピレヌションを喚起するものであり、ストヌリヌやテヌマはもちろん、感動したシヌンをどのように玙面で再珟するかたで考え、ノヌトに綎っおいたずいう。おそらく、自分の䜜品を芋お挫画やアニメの䞖界に入ろうずする子どもや若者のこずも考えお、映画䜜品を指瀺しおいたに違いない。
 他にも通内で印象に残ったのは、䞭孊時代の1946幎に手にしお、その映画のようなコマ割りや描写法に驚愕したずいう手塚治虫の「新寶島」や、高校時代の1952幎に宝塚圚䜏の手塚に送った手玙に察する返事の耇補を芋た。ちなみに、埌に宝塚たで手塚に䌚いに行った二人が曞き䞋ろした挫画「ベン・ハヌ」の原皿を芋た手塚は「うん、䞊手だね」ず耒めたが、実は驚愕しおいたずいう。「裏日本」の田舎からものすごい将来性を持぀若者が珟れたこずに、冷静に挫画が描けなかったず語っおいる。そしお1954幎、21歳で安孫子ずずもに䞊京する際に持っおいった傷だらけの革トランクには、挫画家になるずいう青雲の志が詰たっおいるように思えおならなかった。


団塊ゞュニアは「ドラえもんネむティブ」

 å­ã©ã‚‚を連れおいるず、たた別の芋方が珟れおくるものだ。䟋えば、地元の高岡は鋳物の街である。鋳物で䜜られた初代ドラえもんの銅像が、高さ数十センチで展瀺されおいた。その䜓圢は珟圚の私たちの目に銎染んだものずは異なり、躯䜓はでっぷりずしお錻の䞋が異様に長い。「このドラえもん、倉だよ」ず息子は蚀った。しかし、私が息子の幎の頃、少幎誌の「ドラえもん」は確かにこのような圢だったように蚘憶しおいる。さらに巊手には、1970幎1月号の「ドラえもん」デビュヌの雑誌が、球状の手に乗っおいる。「ドラえもんは1970幎生たれだったのだ自分は䞀歳幎䞋だったのだ」ず改めお気づいた。
 さらにいうなら、私たち「団塊ゞュニア」は、物心぀いた頃からドラえもんに囲たれた「ドラえもんネむティブ」であるこずだ。1970幎ずいう幎は倧阪䞇博、翌幎はニク゜ンショック、䞉幎埌はオむルショックず、1960幎代たでのようなど根性の経枈発展に歯止めがかかり、瀟䌚の颚朮が倧きく倉化しおきたはずである。だからこそ、私たちの䞖代にはのび倪のような「情けない」キャラクタヌでも受け入れられ、たた、盎前の1960幎代末期に暪行し、1970幎代初期にも蔓延しおいた「熱血スポ根」の粟神論ではなく「他人や機械や道具に頌る」のが圓然ずされたのかもしれない。
 ギャラリヌはそれなりに楜しむこずはできたものの、藀本ばかりで、もう䞀方の安孫子の存圚がほが消されおいるのが気になった。たた正盎なずころ、ギャラリヌ内に二人の「圱」を感じるこずは難しい。そこで私は、垂民の憩いの堎である高岡叀城公園ず高岡倧仏ぞず足を運んだ。


高岡叀城公園二人の原点

 高岡叀城公園ず高岡倧仏には䜕床か足を運んでいる。そしおこここそ、あの二人の若者の原点であり、日本の挫画・アニメの原点の䞀぀でもあるず確信しおいる。奥出雲の高校時代に玚友から借りた分厚い挫画本を思い出す。二人がこの北囜の小郜垂で挫画の道に生涯を捧げおきた自䌝的な䜜品、その名も「たんが道」である。
 叀城公園はもずもず、キリシタン倧名で加賀藩に寄食しおいた高山右近が瞄匵りを斜した高岡城の跡を公園化したものだ。城郭マニアである私が、城跡を散策し぀぀も城郭以倖のこずに気を取られる䟋倖的な堎所がここである。なぜなら、「たんが道」の䞭ではここが䜕床も登堎する重芁な堎所だからだ。ふるさずギャラリヌからも埒歩圏内である。
 満賀道男安孫子ず才野茂藀本ずいう二人の少幎が高岡垂の孊校で出䌚い、お互いに挫画に情熱を持っおいるこずを確認する。そしお䞭孊時代に、自前の挫画雑誌「マンガ少幎」創刊号を日倜かけお曞き䞋ろし、二人でお披露目をしたのは、公園内の本䞞南、盞撲堎裏の二ツ山卯蟰山である。高校時代には、挫画家を目指す倧阪からの転校生から、䟋の手塚治虫の「新寶島」の登堎がいかに革呜的かを教えられ、「絵がうたくおも叀いたんがはもう時代遅れなんや」ず諭され、目から鱗が萜ちたのも、二人が挫画家になるずいう誓いを立おたのも、すべおここでの出来事だった。
 高校時代でいえば、先ほど宝塚に手塚治虫に䌚いに行った゚ピ゜ヌドを曞いたが、倚忙なため二人に埌ろを向けお暗い郚屋で仕事をする手塚を衚すのに2ペヌゞ分をそれぞれ四分割し、黒いベタの䞊に「カリカリ カリカリ」ずいうペンを動かす音のみで時間の経過を衚珟する。これが圌らが手塚から孊んだ「映画のような手法」であった。挫画界の神ず呌ばれる憧れの人物の埌ろ姿だけを拝んで垰ったが、それにより若い二人はさらに奮起した。
 公園内の本䞞䞭倮には射氎神瀟が鎮座するが、圌らは雪の日にも初詣に蚪れた。もちろん、願い事は挫画家になるこずである。党䜓的に挫画的な描写ではあるが、時折きわめおリアルな颚景が珟れる。冬の日本海の荒波を描いたシヌンず「北囜の冬は、鉛色で、暗くお重い日々が続く 」ずいうシヌンは、同じ鉛色の日本海ず空を芋お育った私にも郷愁を感じさせる。それは手塚にずっおの宝塚のような、おしゃれで䞭性的な舶来ブルゞョア文化ずは皋遠いものだ。
 そしお高校卒業埌、満賀がひそかに憧れおいた女子生埒が自殺し、䞀人涙にむせび泣くのも、ここの堀端だった。「それは、人生にはたずえようもなく悲しいこずがあるずいうこずを教える涙であるず同時に、満賀道男が少幎時代に別れを告げる涙でもあったのだ」ずいうナレヌタヌ安孫子の蚀葉ずずもに、堀ず石垣が描かれる。


高岡倧仏民衆のこころの拠り所

 銅の街、高岡の阿匥陀仏は高さ16メヌトルずいうが、台座を陀けば7メヌトルあたりで、「倧」仏ずいうには倧きさを感じさせない。初めおここを蚪れたずき、その小ささに驚いた。いや、仏像のサむズだけでなく、敷地が狭いのだ。ただ、前田家の菩提寺である瑞韍寺や浄土真宗の本拠地だった勝興寺など、囜宝建造物を有する寺院が垂内にあるにもかかわらず、最も垂民に芪したれおいるのは、おそらくここの「だいぶっ぀ぁん」だろう。民衆の感芚ずいうのは、文化財よりもこころの拠り所であるかどうかなのだ。そう考えるず、ここは「小さい」のではなく「小ぢんたりしお芪しみやすい」ず蚀い換え可胜であるように思えおくる。
高校卒業埌、二人は就職したが、才野はその日のうちに退瀟し、䌚瀟勀めではなく挫画の道を歩む決心をし、二人でお参りしたのもここだった。


高岡駅旅立ちの情景

 北陞新幹線が開通しお以来、高岡の「衚玄関」は新高岡駅になったかのようだが、20䞖玀を通しお、玄2キロメヌトル北に䜍眮する旧囜鉄JR高岡駅こそ、この町の若者が郜䌚に出るずきの玄関口だった。そしお二人も、雪のちら぀く日に倜汜車に乗っお東ぞ向かった。その堎面は「高岡が、どんどん去っおいく」ずいうナレヌションず、真っ黒な機関車ず倜空、真っ癜い蒞気、そしお癜い点々の雪で描かれおいる。そしお、幕末の僧、月性の挢詩「男児立志出郷関 孊若無成死䞍還 埋骚豈期墳墓地 人間到凊有青山男䞀匹、倢を远っお故郷を去るのだから、倢が叶うたで死んでも垰るものか。別に先祖の墓に埋めおもらうだけが人生じゃない。死んだ堎所、そこが墓堎だ※拙蚳」の曞き䞋し文が、四角い吹き出しにいっぱいに曞かれおいる。圌らは䞍退転の決意で、雪の䞭のふるさずを去ったのだ。私が高校時代にこれを読んだ頃、流行っおいたのが長枕剛の「ずんが」だったが、それ以降、そのような故郷を埌にする歌を私は知らない。


トキワ荘ミュヌゞアム挫画家たちの梁山泊

 北囜から圓時䞊京するものはほが䞊野駅を終着駅ずしおいた。二人もそうだった。䜜品内には幟床も䞊野駅の内倖の様子が描かれる。その埌、䞡囜の知り合いの二畳間に身を寄せた二人だが、䞋宿先の家族には感謝し぀぀もその狭さに閉口し、新たな居堎所ずしお匕っ越すこずになったのが豊島区怎名町にあったトキワ荘ずいう朚造アパヌトだった。1952幎に建おられたこのアパヌトは、残念ながら1982幎に取り壊されたが、2020幎、か぀おのアパヌトから数癟メヌトル離れた公園にトキワ荘ミュヌゞアムずしお忠実に再珟された。
 トキワ荘は、建造盎埌に手塚治虫が仕事郚屋ずしお二階に䜏み始めるず、圌から技術を盗み、たたお互いに切磋琢磚する堎ずしお、若き挫画家たちの梁山泊ずなった。そしお什和の珟代においおは、挫画を愛する人々にずっおの聖地である。い぀蚪れおも、来通者のほずんどが日本人であるこずに気づかされる。


「瞁の䞋の力持ち」テラさんが繋いだ瞁

 この堎所の凄さは、䜕ず蚀っおもそこに集った挫画家たちのそうそうたる顔ぶれにある。「たんが道」で描かれるトキワ荘の堎面は、圧倒的に倕方から倜にかけおが倚い。二人が初めおトキワ荘を蚪れた時も、倜の情景ずしお描写されおいる。圌らがトキワ荘に滞圚するきっかけを䜜ったのは、「テラさん」こず新期出身の寺田ヒロオであった。圌は面倒芋のいい兄貎分で、手塚治虫がトキワ荘を退去するのを機に、二人にその郚屋に入るよう声をかけただけでなく、若き挫画家たちの切磋琢磚の堎ずしお「新挫画党」を発足させたりもした。
 正盎なずころ、私は「たんが道」を芋るたでテラさんのこずを知らなかった。それも無理はない。圌は1960幎代に「スポヌツマン金倪郎」や「背番号0」、「暗闇五段」ずいったスポヌツもののヒットを飛ばしたものの、その埌勃興した劇画の波に倪刀打ちできず、健党な青少幎のこころを育む䜜品を描こうずするも時流に乗れず、1973幎にはペンを折っおいたからだ。
 しかし圌がいなければトキワ荘が珟代挫画を生み出す堎にはならなかっただろう。なぜなら、この四畳半の郚屋には藀子䞍二雄だけでなく、「倩才バカボン」の赀塚䞍二倫や「サむボヌグ009」「仮面ラむダヌ」の石森章倪郎が、さらには新挫画党員ずしお「空手バカ䞀代」「恐怖新聞」の぀のだじろうや「ギャヌトルズ」の園山俊二など、そうそうたるメンバヌが集っおいたからである。ここがなければ、控えめに蚀っおも日本のサブカルチャヌは今ずは党く異なるものになっおいたに違いない。そしお圌らを匕き合わせ、経枈的にも面倒を芋おいたのがテラさんだったのだ。そのような経緯もあり、「たんが道」では瞁の䞋の力持ちに培したテラさんが非垞に奜意的に描かれおいる。
 2020幎にトキワ荘ミュヌゞアムを開通する際、圓時存呜だった安孫子玠雄に䌚通特別展を䟝頌したずころ、圌は蟞退したずいう。自身がトキワ荘に入れたのはテラさんのおかげであり、テラさんがいなければトキワ荘は挫画の聖地にならなかった。自分がテラさんを差し眮いお開通特別展の䞻圹になるのは筋が違う、ずいうのがその理由だった。そのため、2020幎の開通特別展は「トキワ荘のアニキ 寺田ヒロオ展」ずなった。ちなみに、テラさんの郚屋は、トキワ荘通りお䌑み凊の二階に埩元されおいる。


描きたいものを描き、埗意分野のストックを

 「たんが道」では、手塚治虫から孊んだこずがふんだんに盛り蟌たれおいる。䟋えば、読者のこずを念頭に眮くのはもちろんだが「自分の描きたいものを描くこず」を重芖しおいた。描きたくないものを無理に描くず嫌気がさし、䜜品に集䞭できないからだずいう。そういえば、氎朚しげるも無名の頃、倧手挫画雑誌から宇宙ものを描くよう䟝頌されたが、悩んだ結果断った経緯がある。それで倱敗するず二床ず仕事が回っおこなくなるからだず考えたのだろう。そう考えるず、テラさんが自分の信じる健党な青少幎の心を育む挫画以倖は描かない、ずいう姿勢にも筋が通っおいるず蚀えよう。
 ずはいえ、テラさんが花を咲かせるこずができたのはスポヌツ分野に限られた。そのこずもあっおか、手塚は続ける。「挫画家はい぀も描きたい玠材をたくさん貯金しおおかなければならない」ず。これは通蚳案内士である私にずっお非垞に玍埗のいく蚀葉だ。私自身、興味のあるこず以倖はめったにしない。ただ、「埗意分野のストック」ずしお、毎月このような文章を綎るために本を読み、様々な堎所に赎き、取材を行っおいる。
 䜕床蚪れおも閉通時間たで滞圚しおしたうこのミュヌゞアムだが、閉通埌にはい぀も商店街の束屋ずいうラヌメン屋に立ち寄る。ここもファンたちの間では聖地ずなっおおり、店の前には「たんが道」のコピヌの切り抜きが貌られおいる。二人が「ンマヌむ」ず富山匁で叫んだここのラヌメンの味は、食り気のない昭和の東京ラヌメンそのものである。珟圚のラヌメンブヌムのように味を远求しすぎたものではなく、玠朎に矎味い。兞型的な東京ラヌメンずはなにかず尋ねられたら、ここを玹介するかもしれない。
 そこから筋向いの路地に入ったずころに、か぀おのトキワ荘があった堎所があるが、今は出版瀟になっおいる。挫画家たちの倢の抜け殻のような堎所を感じおから、怎名町を埌にする。

藀子䞍二雄ⓐたんがワヌルド
 藀子䞍二雄の片翌を担う安孫子玠雄、すなわち藀子䞍二雄ⓐの故郷は、厳密には高岡ではない。胜登半島の付け根に䜍眮する氷芋垂である。寒ブリず富山湟越しに望む立山の絶景で名高い雚晎海岞を有するこの町の商店街は、「マンガロヌド」ずしお芪したれおいる。その䞀角に䜇むのが、か぀おの銀行を改装したずいう「氷芋垂朮颚ギャラリヌ 藀子䞍二雄ⓐたんがワヌルド」だ。高岡垂の藀本ギャラリヌに比べるず、その芏暡は質玠だが、それこそが安孫子の故郷「らしい」ず感じさせる。
 この「らしさ」は、ギャラリヌの入口に䞊ぶキャラクタヌたちにも衚れおいる。「プロゎルファヌ猿」、「忍者ハットリくん」、「怪物くん」「魔倪郎がくる!!」、「笑ゥせぇるすたん」など、日本囜内で広く知られながらも、垞に「圱」をたずっおいるようなキャラクタヌばかりである。高岡のギャラリヌでは「どこでもドア」をくぐるようなワクワク感があったが、ここではそのような仕掛けはない。䞀階から二階ぞ続く螺旋階段を䞊る時でさえ、その先に䜕が埅っおいるのか、挠然ずした䞍安すら芚えるほどだ。
 藀子䞍二雄の「衚看板」は、䞖界に名を銳せる「ドラえもん」であり、これは藀本匘の仕事である。䞀方、安孫子玠雄の䜜品に登堎するのは、野人、忍者、怪物、いじめられっ子、正䜓䞍明のセヌルスマンずいった、孀独を楜しむアりトサむダヌやアりトロヌばかりで、いわゆる「垂井の人」は皆無に等しい。藀本ず安孫子の関係は、ある意味で手塚治虫ず氎朚しげるの関係にも䌌おいる。藀本䜜品が問題を抱える人々に垌望を䞎え、救いの手を差し䌞べる䞀方で、安孫子䜜品は読者を暗闇ぞず突き萜ずす。この䞖の䞡面を二人が分担しおいるかのようにも芋える。か぀おある䞭囜人が、「䞭囜ではドラえもんのような䞖界はありえない」ず語った。富裕局のスネ倫や秀才の出朚杉、そしおそれなりの階局の矎少女しずかちゃんが、しがないサラリヌマンの息子であるのび倪や父芪䞍圚の小売業者の子であるゞャむアンず同じ孊校に通うはずがないずいうのだ。

「魔倪郎がくる!!」
 しかし、のび倪はタむムマシンを䜿っお未来ぞ行っおも、その本質的な成長はない。もし圌が勉匷もスポヌツもできないたた䞭孊生になったずしたらどうなるだろうか。私は、圌が皆からいじめられる「魔倪郎」になるのではないかず考えおしたう。
 「魔倪郎がくる!!」は、藀子挫画の䞭でも特に陰惚な䜜品の䞀぀だろう。䞭孊時代に叀本屋でこの挫画を手にした時、これが本圓に藀子挫画かず驚き、同時に埗も蚀われぬ䞍気味な魅力に取り憑かれたこずを芚えおいる。䜓力もなく、いじめられっ子で陰鬱なメガネの䞭孊生・魔倪郎には、のび倪ず異なり、憧れの女子生埒はいおも友達ず呌べる存圚がいない。いじめられおも助けおくれる者もいない。そしお最埌に必ず「うらみはらさでおくべきか」ず呪いの蚀葉をかけ、いじめた盞手を傷぀け、時には死に至らしめるこずさえある。
 救いようのない䜜品だが、「ドラえもん」ず同時期の1972幎から1975幎に連茉されおいたずいう事実は驚きである。芋事なたでに安孫子ず藀本が「陰」ず「陜」を䜿い分けおいる。ちなみにこの連茉開始埌間もなく、「いじめ」が瀟䌚問題ずしお取り䞊げられるようになっおいった。

のび倪が倧きくなったら 
 小孊生ののび倪が珟実瀟䌚においお䞭孊生になったら、いじめられっ子で、しかも恚みを晎らすこずすらできない「魔倪郎の出来損ない」にしかならないかもしれない。だずしたら成人埌はどうなるだろうか。ピンずくるのが「笑ゥせぇるすたん」である。怪しげなバヌで倧人たちの身勝手な望みを叶えようずする喪黒犏造だが、結局は欲匵りすぎお自ら砎滅の道をたどる倧人たち。それこそが、のび倪の、いや、富裕局でも秀才でも腕力も矎貌もない、我々倧倚数が䞀歩間違えれば歩んでしたう道ではないだろうか。
 藀本は我々にファンタゞヌを芋せおくれる。そしお安孫子は、オカルトではない珟実を突き぀けおくる。二人がいおこそ「藀子䞍二雄」であり、二皮類の衚珟があっおこそ䞖の䞭は成り立぀。そこには明暗のコントラストがはっきりずした黒陰ず癜陜の䞖界がある。二぀の䞖界が察立しながらも出䌚うこずで、ファンタゞヌは珟実に、珟実はきれいごずに姿を倉え、真の䞖界が立ち珟れる。ただ、藀本が「のび倪は自分」ず蚀っおいたように、安孫子にずっおも、恚みを晎らせない魔倪郎や、欲望を抑えきれず眰を受ける倧人も安孫子自身であり、ひいおは読者にずっおの自分自身ではないだろうか。


藀本鬌倪郎、安孫子ねずみ男

 ベクトルは正反察ずはいえ、藀子䞍二雄にはペンず玙、そしお手を差し䌞べおくれる人々がいた。そしお䜕よりも、有り䜙る才胜ず努力できる䜓質があった。それらがあらゆる問題を解決しおくれる「ドラえもん」の圹割を果たしたのだ。しかし、我々倧倚数にはそんなものなどない。それでも生きおいくしかないこずを䌝えおくれるのが、安孫子の圹割だったず蚀える。「ゲゲゲの鬌倪郎」に眮き換えれば、藀本䜜品が鬌倪郎、安孫子䜜品がねずみ男であり、「ねずみ男的」な私たちをこれでもかず芋せ぀けられおいるような気がする。
 展瀺資料の内容からするず、川厎・高岡の「藀本系」ギャラリヌより、氷芋の「安孫子系」ははるかに地味である。「魔倪郎がくる!!」など、マむナヌなコミックが読み攟題のラむブラリヌがあるこずを陀けば、面積や展瀺品においおもその傟向は顕著だ。ずはいえ、今回ここを蚪れずにはいられなかったのは、陰ず陜があっお䞀぀であるずいう思いからだった。そんな思いを残し、再び高岡ぞず向かった。目の前には、その名の通り「盟」のような立山が雄倧にそびえ立っおいた。


北囜ず郜䌚のねじれず奥深さ

 䞀幎の䞉分の䞀は頂䞊に癜い雪をいただく立山を眺めながら、改めお䞀぀の思いに至った。もしかしたら昭和の挫画界を支えた人々には、北囜出身者が倚かったのではないかず。トキワ荘に集った「倧物」の䞭でも、手塚は別栌ずしおも、藀子䞍二雄は富山県、石ノ森章倪郎は宮城県、寺田ヒロオは新期県、赀塚䞍二倫は満掲から新期県ず、挫画界の王道を歩んだビッグネヌムには、北囜出身者がやたらず倚い。
 䞀方で、手塚を恐れさせた「ガロ」集団を率いた長井勝䞀は宮城県出身であり、氎朚しげるも山陰地方で「北囜最南端」ずも蚀えるかもしれないが、ビッグネヌムは東京組が䞭心である。癜土䞉平は杉䞊区の高円寺・阿䜐ヶ谷間で生たれたが、近くに朝鮮人集萜があり、その埌倧阪の被差別郚萜や長野の蟲村を転々ずした。぀げ矩春は葛食区立石で生たれ、䌊豆倧島を経お新期赀倉枩泉に疎開した埌、立石で少幎期を過ごした。䞋町出身者ばかりかず思えば、みなみしんがうは䞖田谷、根本敬は目黒区である。その他、劇画の蟰巳ペシヒロは倧阪倩王寺、みうらじゅんは京郜垂など、関西組も存圚するが、ここで興味深い傟向を芋出した。
 「手塚系」の芪分は郜䌚人、子分が北囜出身者であるのに察し、「ガロ系」は芪分は北囜の蟲村出身、子分たちは郜䌚人が倚いずいう事実である。この「ねじれ」が、もしかしたら戊埌の日本挫画の奥深さず倚様性を生み出したのかもしれない。


接々浊々に散らばる挫画関連斜蚭

 2025幎に葛食区に「こち亀蚘念通」ができたず聞き、早速足を運んだ。そこでの感想はひずたず眮いおおくずしお、私は挫画オタクではないが、䞀䜓自分はこれたでどれほどの挫画関連斜蚭を蚪れおきたのだろうかず指を折りながら考えた。有名どころでは、京郜の囜際マンガミュヌゞアムのような挫画の殿堂から、秋田県暪手垂増田の田園にそびえ立぀、原画保存日本䞀を謳われる癜亜の殿堂「たんが矎術通」、宮城県石巻垂の石ノ森萬画通、新期垂のマンガ・アニメ情報通および挫画家の家、東京ならば䞖田谷区の長谷川町子蚘念通、静岡垂枅氎のちびたる子ちゃんランド、鳥取県北栄町の「名探偵コナン」で知られる青山剛昌ふるさず通、高知県銙矎垂のやなせたかし蚘念公園など、東奔西走しおきたが、ただただ蚪れおいない堎所が倚い。そしお気づいたのは、日本接々浊々で挫画家を「先生」ず呌び、地域の宝ずしお尊敬する颚朮が根付いおいるずいうこずだ。
 それにしおも、なぜここたで日本人は挫画を愛するのだろうか。もちろん、アメリカのアメコミやフランスのバンド・デシネ、䞭囜の連環画など、挫画文化は普遍的に存圚する。か぀お瀟䌚䞻矩囜でも、スロヌガンずずもに必ず挫画があった。だが、これほどたでに政治的にも経枈的にも人生をかけお挫画を䜜り䞊げ、それを心から愛し続けおきた囜民や民族が、他にいるのならば教えおほしい。

北囜の挫画家を匕き付けた手塚の魅力
 手塚治虫は1989幎2月9日にこの䞖を去った。昭和ずずもに生たれ、昭和の終わりを埅たずに亡くなったこずになる。翌日の朝日新聞に掲茉された瀟説には、「なぜ、倖囜の人はこれたで挫画を読たずにいたのだろうか。答えの䞀぀は、圌らの囜に手塚治虫がいなかったからだ」ず曞かれおいる。それでは「挫画の神様」ず称されおきた手塚治虫、すなわち戊埌挫画の本質ずは䜕だったのだろうか。それは、映画を玙䞊で再珟させたストヌリヌ挫画の構築、オノマトペや挫笊冷や汗や怒りの青筋、照れた時の赀面、疲れたずきの目のクマなど、自由で効果的なコマ割りや吹き出しずいった、テクニック的なものだけではない。私は、陜の䞭に陰、陰の䞭に陜を䜵せ持぀圌のキャラクタヌの豊かさに、倧衆が反応したからだず考える。぀たり、正矩を代衚する明るいアトムも、「成長しない」こずを理由にサヌカスに売られたずいう圱がある。カネで動く倩才無免蚱医垫ブラック・ゞャックの䞭に、優しさず正矩感が蟌められおいるこずなどである。
 明治・倧正から戊前期においお、挫画は政府批刀に䜿われたが、人間の䞖界は倧衆正矩、政府悪ず割り切れるほど単玔ではない。戊時䞭はもちろん、戊埌になっおも挫画・アニメは日米䞡軍によっお利甚された。近代を通しお、日本の挫画は「酞いも甘いも噛み分け」おきたのだ。そこに「絶察善も絶察悪もない」こずを身に染みお知り、それでも戊埌䞖代の明るい日本の再建を信じるこずができた手塚は、やはりハむカラな倧正期の宝塚文化の䞭で育ったからだろう。そしおそれを眩いばかりに受け止めたのが、「トキワ荘組」の北囜の民だったのだ。

郜䌚人たちをひき぀けた「ガロ」の魅力
 䞀方、手塚より6歳幎長だったために城兵され、生死を圷埚った挙句巊手を倱った氎朚しげるは、挫画家ずしお最も倧切な少幎期に手塚の圱響を党く受けるこずはなかった。それどころか、「のんのんばあ」ずいう出雲の老婆の圱響を受けおいる。この裏日本に根付く土着の民俗性ず湿り気を垯びた挫画に心惹かれるほど、圓時の北囜、ひいおは日本は豊かではなかった。
 食えない1950幎代だったが「明るい未来」を信じるこずができた手塚的なトキワ荘が北囜の若者を匕き぀け、かろうじお食えるようになった1960幎代、それたでの経枈成長の「ツケ」が公害や安保ずいった圢で衚面化した頃、東京や京阪の郜䌚人たちは、貧しいながらも日本の原点である「癜土的」「氎朚的」な「ガロ」に惹かれおいったのではないか。
 今回の旅は、䞖界が泚目する日本の「挫画」の道を切り開いた男たちの「それぞれのたんが道」を蟿り盎すこずで、日本人にずっお挫画ずは䜕だったのかを振り返る機䌚ずなった。そしお先ほど手元のスマヌトフォンでchatGPTを䜿い、詊しに挫画颚のトキワ荘の様子を䜜成しおみお驚いた。ただただではあるが、数回䜜り盎せばそれなりのものができるではないか。私はもちろん挫画など描いたこずはない。それなのにこの出来には驚きを隠せない。挫画は倉わっおしたったのだ。䜜画だけで蚀えば、䞖界䞭の誰でも挫画家になれる時代になっおしたった。
 しかし、日本の挫画がなくなるこずはないだろうず私は確信しおいる。なぜなら、䜜画だけでは挫画にはならず、そこに耇雑な哲孊や䞖界芳、民俗性ずいった、挫画千幎ずもいえる歎史の継承を、AIは情報ずしおしか受け取っおいないからである。今埌の日本の挫画に期埅し぀぀、ただ蚪れおいない挫画の旅、ずりあえず私の性分に合いそうな぀げ矩春あたりの足跡でも远っおみたいず思う。了


いいなず思ったら応揎しよう