僕が「新年の抱負」を語らない理由
新年明けましておめでとうございます。
noteでも今日から書き始めていくよ。
さて、新年初のnoteで多くの人が書くことは、「新年の抱負」なのかも知れない。
SNSのタイムラインでも「今年はこれにチャレンジする」「こういうことを実現する」と言うような抱負で埋め尽くされる。まるで、1月1日という日付そのものに、人を生まれ変わらせる魔力があるかのように。
しかし、僕は新年に抱負など語る必要はない、と思っている。
そもそも「抱負」という言葉を、我々はあまりに軽く扱いすぎているような気がする。
辞書を紐解くまでもなく、この語の成り立ちを見れば、その重さは歴然としている。
「抱負」とは、「抱(いだ)く」と「負(お)う」が合わさった言葉だ。
単に到達すべき地点を示す「目標」とは異なり、そこにはそれを成し遂げようとする「心の中の決意」と、結果を引き受ける「責任」が内包されている。
心に抱き、背に負う。
それは、本来、覚悟を伴う重い行為であるはずだ。
古代ギリシア人は、時間を表すのに二つの異なる言葉を持っていた。
それは「クロノス」と「カイロス」だ。
「クロノス」とは、時計やカレンダーが刻む、過去から未来へと一定速度で流れる量的な時間のことだ。1月1日という日付は、人間が天体の運行に合わせて便宜的に区切っただけの、単なるクロノスの通過点に過ぎない。
対して「カイロス」とは、一瞬にして過ぎ去る、質的な意味を持つ「タイミング」や「機会」を指す。人生を変えるような決断や、心の底から湧き上がる衝動は、カレンダーの日付とは無関係に訪れる。それは、何かを喪失して深く絶望した夜かもしれないし、不意に天啓を授かった瞬間かもしれない。
抱負を語るべきは、カレンダーが替わった時(クロノス)ではない。
自分の内側で機が熟したその瞬間(カイロス)であるべきだと思う。これが僕の持論だ。
機械的にやってきた1月1日に、インスタントな決意を言葉にすること。それは、自らの内なるカイロスを無視し、外部のシステムに魂を明け渡すことに他ならない。(大袈裟だな!)
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