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システム思考を極めれば、「運」は消えるのか?

ポリフォニーな僕の頭に聞こえた声

僕は一つのことを考え始めると、止まらなくなる癖がある。ある考えが整理されると、反論が浮かび、その反論へのカウンターが浮かぶと別の反論が聞こえてくる。こんな面倒臭い癖がある。
頭の中はいつもいろいろな声に溢れている。ポリフォニー(多声的)と言われる状況だ。
だから、考え事をしてふと気づくととんでもない時間が経過していることもある。

今、僕の脳内では先日のnoteで書いた「システム思考」について、いろんな声が飛び交っている。とてもうるさい。
なので、その声をかき消すために、また続編のnoteを書くことにしたい。

今回のテーマは「システム思考と運」だ。

きっかけは、ある声が脳内に届いたことだった。

システム思考を極めていけば、「運」と呼ばれるものは消えるんじゃないか?

僕らが「運が良かった」「たまたまだった」と言うとき、実際に起きているのは偶然ではなく、創発現象の連鎖だ。
複雑に絡まった因果が、僕らの想像を超えた経路で回っていただけであって、世界の側に「運」という特別な力が働いているわけではない。
だとすれば、因果の円環をどこまでも広く見渡せるメンタルモデルを持つことができたら、運と呼べるものは原理的になくなるはずだ。

そして、この仮説に対する今の僕の結論は、半分正しくて、半分間違っていることがわかった。
そして間違っていた半分のほうが、はるかに面白かった。
今回はその話を書いてみたい。

運とは、弧の外側につけた名前である

前回の記事で、僕らには因果の円環の全体は見えず、メンタルモデルというハサミが切り取った「弧」しか見えない、という話を書いた。
この枠組みで考えると、「運」の正体はすぐに見えてくる。

運とは、世界の側にあるものではない。
見る人の側にあるものだ。
同じ出来事が、ある人には「運」に見え、別の人には「必然」に見える。
違いを生んでいるのは出来事そのものではなく、それを見る弧の長さなのだ。

自分の弧の内側で起きたことに、僕らは「実力」や「必然」という名前をつける。
努力したから成果が出た。戦略が当たったから勝てた。
一方、弧の外側からやってきたものには「運」という名前をつける。

だとすれば、弧を広げれば広げるほど、運の領域は縮んでいくことになる。
仮説の前半は、ここまでは正しい。

それでも偶然は消えない——九鬼周造の「瓦」

「円環さえ見えれば、運は完全に手なずけられるのか」という僕の傲慢を、立ち止まらせてくれる哲学がある。
九鬼周造の『偶然性の問題』だ。

九鬼はこの本の冒頭の一言目で、偶然をこう定義する。

偶然性は必然性の否定である

P.13

必然とは「そうでしかありえない」こと。
偶然とは「そうでなくてもありえた」ことだ。
そして九鬼がこの本で挙げるのが、瓦の例だ。

屋根から瓦が落ちてきて、軒下を転がっていたゴム風船に当って破裂させたとするならば、我々はそれを偶然と考える。

P.122

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