見出し画像

1945年は、まだ終わっていない。——マンガーノの脇毛から、国連憲章まで

私は映画が好きで、中でも特に古い映画にはたまらない魅力があると思っている。

映画史を勉強したとかではなく、まず、好きな俳優が出ているから観る。それだけで十分…と言いたいところだけれど、この「十分」がなかなか曲者で、観終わるころには映画の感想ではなく、まったく違うことを考えている自分がいる。

人が感動した場面とは別のところで立ち止まり、どうでもいいものを拾ってしまう。だから映画を観ても、主人公の名ゼリフより、通行人の歩き方が気になったりする。

マルチェロ・マストロヤンニは、立っているだけで、その男が何度か人生に失敗し、それでも何とか今日までたどり着いたことまで伝わってくる俳優だった。

『ひまわり』を観れば、一面に咲くひまわり畑まで切なく見えてしまう。花には何の責任もないのに、映画は、ときどき植物にまで風評被害を与える。

そしてシルヴァーナ・マンガーノの『にがい米』

北イタリアの水田で、大勢の女性たちが泥に足を取られながら働いている。汗も、貧しさも、欲望も、画面の中にちゃんとあり、私は最初、その物語を追っていた。

ところがマンガーノが腕を上げた瞬間、物語は頭の中からきれいに消えた。

脇毛。それもちょろちょろではなく、「そんなに!」という感じで、軽いカルチャーショックを受けたし、当時の日本人も同じだったのではないかと思う。

そこかい、と言われそうだが、そこだ。

壮大な物語を観ていても、脇毛に全部持っていかれ、頭の中に「脇毛担当」が現れてしまうと、もうダメ。恋愛も犯罪も、しばらくチラつく。

けれど、不思議だったのは、見れば見るほど、その脇毛が美しく思えてきた。もちろん、脇毛そのものが美しいと言っているわけではなく、あそこには、汗をかき、泥にまみれた人間がいた。

1949年。戦争が終わって、まだ4年しか経っていない。
国全体が、ようやく立ち上がろうとしている頃、その時代に、女優の脇だけ完璧につるつるだったら、むしろそちらのほうが嘘っぽかったと思う。

『にがい米』はネオレアリズモ映画と呼ばれている。
難しそうな名前だけれど、映っているものは難しくなく、働かなければ食べられない人がいて、明日が見えない人がいる。

映画が現実へ近づいたというより、現実のほうが映画へ入り込んできた時代で、同じ1949年、日本では黒澤明の『野良犬』が公開されている。

焼け跡があり、闇市があり、汗だくで歩く人がいる。イタリアの水田と、日本の焼け跡。遠く離れた国なのに、どちらも「戦後」「敗戦国」という同じ匂いがしていた。

そして、ふと思った。
日本は、いつまで敗戦国なのだろう。

焼け跡には高層ビルが建ち、水田で働いていた女性たちは白黒映画の中だけの存在になった。

日本もイタリアもドイツも、いまでは経済大国として並び、時代はすっかり変わったように見えるが、世界の仕組みを眺めていると、1945年という年は案外しぶとい。

国連憲章には今も旧敵国条項が残っている。
実際には時代遅れの規定とされ、これを理由に日本へ武力行使ができるわけではないが、それでも条文そのものは消えていない。

人間なら80年経てば顔も体も変わる。
ところが世界の書類は、驚くほど物持ちがいい。町内会の回覧板ですら「新しい様式になりました」と言われるのに、国際社会の書類はなかなか捨てられないらしい。

世界は変わってきたけれど、世界を決める仕組みは、思っているほど簡単には変わらない。だから敗戦という出来事も、一日で終わったとは言えない。制度、条約、安全保障になり、私たちの知らないところで、ずっと息をしている。

そして、ここでまた別の違和感が顔を出した。

私たちは子どもの頃、「歴史」を習ったが、今になって思う。
あれは歴史そのものではなく、その時代に「歴史として教えられていたもの」だったのではないか、と。新しい史料が見つかれば、それまでの定説が見直されることは珍しくないし、研究が進めば、昨日まで見えていなかったものが見えてくる。

だから私は、学校で教わった歴史を否定したいわけではないけれど、100%完成されたものだとも思っていない。

歴史は、過去そのものというより、人間が過去を理解しようと積み重ねてきた営みなのだと思う。

また、歴史を多角的に見つめ直すうちに、あの戦争に至るまでの経緯には、これまで語られてきたのとは別の側面もあったのではないかと思う。

もちろん、これにはさまざまな考え方があるし、触れづらい問題でもある。だからこそ、一つの見方だけで歴史を閉じてしまうのではなく、自分でも資料を読み、考え続けたいと思う。年齢を重ねるほど、余計そう思うようになった。

答えをひとつ増やすことより、問いをひとつ増やすほうが面白い。

考えてみれば、今回だって私は映画を観ていたのに、気になったのは脇毛で、その脇毛が戦後イタリアを思わせ、戦後イタリアが日本を思わせ、日本を考えていたら国連憲章へたどり着き、最後は教科書のことまで考えていた。

マンガーノの脇毛は、とっくに白黒映画の中へ消えたけれど、本当に消えなかったのは、あの脇毛ではなく、1945年という時代だった。

映画にはエンドロールが流れるが、歴史にはそれがない。

だから私は今日も古い映画を観ているつもりが、いつの間にか時代を眺め、人間を眺め、そしてまた、どうでもいいようでいて、どうでもよくない違和感をひとつ拾ってしまう。

困ったことに、それが結構楽しいことにも気づいた。


参考・出典

・にがい米(監督:ジュゼッペ・デ・サンティス)
・野良犬(監督:黒澤明)
・国際連合憲章(旧敵国条項、第53条・第77条・第107条)

※本文中の歴史に関する考察や解釈は、筆者個人の見解を含みます。

いいなと思ったら応援しよう!