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【掌編小説】牡蠣フライの匂い

橘の前には、白湯の入った耐熱グラスがひとつ置かれていた。

テーブルの上は、それだけだった。

かつて料理動画を出せば百万回再生を連発し、日本中の胃袋を落ち着かなくさせた男の食卓にしては、ずいぶん寂しい。

軽井沢の別荘で暮らすようになった男は、五日間の「ウェルネス・ファスティング」に入っていた。

本人は、これを断食とは呼ばない。

「胃腸を休ませ、細胞を目覚めさせ、本来の自分へ戻るためのリトリートです」

断食と呼べば修行だが、ファスティングと呼ぶと、急に予約サイトが必要になる。空腹そのものは同じなのに、横文字というのは便利なものだ。

若いフリーライターが訪ねてきたのは、五日目の午後だった。

軽井沢の秋は早く、庭の木々はすでに葉先から色を変えはじめている。

「橘さん、体調はいかがですか」

橘はゆっくり目を開けた。頬は若干こけていたが、目だけは妙に生き生きしている。

「体調も何も、僕はいたって健やかですよ」

そう言ったあと、なぜか牡蠣フライの話を始めた。

牡蠣は洗いすぎてはいけない。パン粉は生パン粉に限る。油の温度は百七十度を下回ってはならず、レモンは食べる直前、それも食べる本人に搾らせるべきだという。

「勝手にレモンを搾るのは、親切ではなく介入です」

ずいぶん厳しい…

ライターは神妙な顔でスマートフォンのメモアプリに指を走らせた。

五日間、何も食べていない男から牡蠣フライの作法を教わっている。

ライターという仕事にも、いろいろある。

ガラス戸が開き、パートナーの奈美が水差しを運んできた。

橘は一瞥しただけで、手を伸ばそうともしない。

奈美は何も言わず、白湯のグラスの横に水差しを置いた。

かつて橘のレシピ本に使われた写真は、すべて彼女が撮ったものだった。料理をいちばんおいしそうに見せてきた人が、いまは白湯の減り具合を見ている。

食の仕事も突きつめると、水位の確認になるらしい。

橘の話は牡蠣フライからイタリア料理へ移り、発酵食を経由して、腸内環境とオートファジーにまで及んだ。

食べる話も食べない話も、彼の口にかかれば立派な理論になる。

ただ、胃袋だけは、どうやらその理論の会議に呼ばれていない。

ライターは次第に、話の内容よりも、この矛盾のほうが気になってきた。

食を極めた人が、最後には食べないことを語りはじめる。

本人はいたって真面目なのだろう。だから余計に、少しおかしい。

そのとき、風向きが変わった。

近くの別荘から、揚げ物の匂いが流れてくる。

熱い油とパン粉。その奥に、かすかな海の匂いが混じっていた。

牡蠣フライだ。

橘の話が、「腸は第二の脳と呼ばれていて」の「第二」で止まった。

鼻が、ほんの少し動いた。

ライターは見逃さなかった。

五日間のウェルネスも、細胞の目覚めも、本来の自分も、その一瞬だけは牡蠣フライに負けていた。

やがて日が傾き、デッキを渡る風が冷たくなった頃、橘は目を閉じたまま、ぽつりと言った。

「…今夜あたり、牡蠣フライが恋しいな」

ガラス戸の向こうにいた奈美は、聞こえなかったふりをした。

ライターは、その言葉をどう記事にすればいいのかわからなかった。

編集部が用意した仮題は、「食べないことで見えてきた、本当の豊かさ」だった。

少なくとも今日見えたのは、豊かさではない。

牡蠣フライに反応する鼻だった。

帰り道、彼女はスーパーへ寄った。

惣菜売り場には、牡蠣フライが一パックだけ残っていた。

彼女はそれを買った。

記事の見出しは空欄のままだったが、夕食だけは、先に決まった。

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