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顔出しの承諾とか個人情報の扱いとか




伊藤詩織監督のセルフ・ドキュメンタリー映画『Black Box Diaries』を見てから、顔出しや声の使用に関する承諾問題について、気になっている。

現在はテレビのバラエティ番組でも報道でもドキュメンタリーでも、証言をする人の顔にボカシが入るのが、普通になっている。街頭インタビューでも、ボカシの入った人がよくいる。コメントはいいけれど、顔は映りたくないという人だ。

商業施設の取材でも、タレント以外、一般のお客さんには、ボカシが入る。最近は、民家に突撃取材みたいなのでも玄関ドアだけがクリアで、壁や建物、街並みまで、ボカシが入っていることが当たり前だ。

これらのボカシは、町や家や人物といった個人情報が特定されないための処置だ。そして顔が映っている人は、テレビに出ることを、承諾した人だ。

何のドキュメンタリーだったか憶えていないが、インタビューの前後に、クリップボードに挟んだ書面にサインをもらっているシーンがあった。書面は承諾書だ。具体的な内容はわからないが、きっと二次使用についても触れられているのだろう。

昔は、街頭や街角を撮影した動画や写真には、通行人やら町の人が、普通にうつっていたものだが、今はそういう時代ではない。承諾のない人は、放映してはいけない、というのが現代だ。路上で撮影したスナップ写真など、もはや成立しないのかもしれない。

昔は、映画でも盗撮とか無許可撮影というものがよくあった。撮り逃げというか、撮ったもん勝ちで、よく撮ったと褒められることはあっても、非難されることはなかった。

その頃は始末書を書けば、それで済んだらしいが、現在は、発覚すれば、スポンサーが下りたりするから、死活問題に拡大するようだ。だから、そういう撮影は、最初からやらないようになっているらしい。

盗み撮りや無許可撮影が出来なくなったことで、作品の出来とどう関係してくるのかはわからないが、予め想定したものしか撮れないだろうし、制約が多くて、ダイナミックなものは撮れなくなる気もするが、どうなのだろうか?

何年か前に読んだ大島新の本には、自分の作品では、顔が出る人、声が出る人は、全員に承諾を取るとあった。承諾の得られない人の素材は、使えないと書いてあった。

大島新は、映画監督の大島渚の息子で、ドキュメンタリーの映画監督をしている人だ。代表作に『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』などがある。

それらの作品の中で、選挙の街頭演説の群衆などは、どんなふうに映っていただろうか、ボカシが入っていただろうか? 憶えていない。

森達也は、どうしていたのだろうか? 東京新聞の望月衣塑子を追ったドキュメンタリーでは、どういう撮影をしていただろうか?

森達也のドキュメンタリーの場合、いつも警官が顔出しで晒されていた印象があるが、とても承諾をとっているとは思えない。警官は、承諾が必要ないのだろうか、とか、色々な疑問が浮かんでくる。

『i』の予告編を見なおしたら、伊藤詩織と望月衣塑子が映っているシーンがあった。これは、森達也が側が、伊藤詩織に承諾書を書いてもらったということなのだろうか?

伊藤詩織が出ていたことも、この映画の内容も、ほとんど憶えていない。記憶にあるのは、終盤に唐突に始まった菅vs望月?のアニメションだ。もう一度『 i-新聞記者ドキュメント 』を見てみないと駄目だろうか……。


それにしても、個人情報に関する日本社会の扱いは、この20年位で大きく変わってしまった。公にされた名簿や電話帳といったものは、姿を消してしまった。必要があって、書いてもらった住所や電話番号などは、鍵のかかるところに仕舞われ、許された権限を持つ人しか、接触出来ないようになっているか、その日のうちにシュレッダーにかけるなどの扱いになっている。

世間話でも、個人情報にまつわる話題を避ける風潮が、当たり前のようになってきた。同時に、何かを言えばハラスメントと指弾されがちになってきた。

この間、テレビで明石家さんまが、昨今のコンプライアンス重視のテレビ業界について語っていた。

自分はサッカーが好きだ。サッカーにはルールがある。ルールが新しくなれば、それに従う。ルールの中で全力でやるのが好きなんだ。テレビも同じだ、みたいなことを言っていた。

さすが、さんまだと思ったが、それでいいのかとも思った。

とりあえず、大島新と森達也のドキュメンタリーをまた見ないといけない。あ、映画『国宝』の原作小説も読まないといけない。映画は、何で?が多すぎたが、原作小説では、ちゃんと描かれている気がする。いちいち確かめないが気が済まないのだ。







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