神社の門番 第一話「はじまりの風」【一話読切】
«人は、自分の中にあるものほど、見失う。今日、忘れられていたのは「本気」。»
「今日は良い風が吹いている。」
朝から狛犬が、何度もそう言っていた。
私は石だから、風の良し悪しはわからない。
まあ、あいつは春になると毎年そう言う。
私は、この神社の門番だ。
石になって、どれほどの年月が流れたのかは覚えていない。春には桜が舞う。夏には蝉が鳴く。秋には落ち葉が石段を埋める。冬には雪が、私の肩に静かに積もる。そんな季節を、私はただ静かに見つめ続けてきた。
ここには、毎日さまざまな人が訪れる。願いを口にする人。何も言わず手を合わせる人。泣きながら帰る人。笑顔で石段を下りる人。私は話すことも、歩くこともできない。できるのは、人の心を見つめることだけだ。
ある日の午後、一人の男性が境内へやって来た。五十を少し過ぎた頃だろうか。背筋は伸びている。けれど、その背中には長い年月の重さが乗っていた。
賽銭を入れ、静かに手を合わせる。願いの言葉は聞こえない。それでも、心の揺れだけは伝わってくる。
「もう、遅いですよね。」
誰かに問いかけた言葉ではない。自分自身に向けた、小さなため息だった。
若い頃、本当は挑戦したかったことがあった。生活のため。家族のため。仕事のため。そう言い聞かせるうちに、夢は引き出しの奥へしまわれた。諦めたつもりだった。いや、諦めることに慣れてしまったのだ。
私は、その人の心を見つめた。勇気は残っている。元気もある。努力する力も失ってはいない。足りないものなど、一つもなかった。ただ、自分の中にある「本気」を、長いあいだ見失っていただけだった。

そのとき、一陣の風が吹いた。境内の木々が静かに揺れる。一枚の葉が枝を離れ、男性の足元へ舞い降りた。
男性は、その葉を拾った。ふと空を見上げる。空は、驚くほど青かった。
その表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
私は風を起こした覚えはない。
……ただ、あとになって思えば、あの日は確かに良い風が吹いていた。
数日後。
男性は部屋の片づけをしていた。本棚の奥から、一冊の古いノートが出てくる。若い頃に書いた夢や目標が、少し照れくさい字で並んでいた。
しばらく見つめたあと、机に向かう。新しいページを開き、一行だけ書き足した。
「まだ、終わっていない。」
それだけだった。
大きな決断ではない。人生が劇的に変わったわけでもない。けれど、人はそんな一行から歩き始めることがある。
本人は、自分で決めたと思っている。
それでいい。
その方がいい。
今日もまた、石段を上る足音が聞こえる。
忘れられていた「気」は、人の数だけある。
だから私は、今日もここで見守っている。


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