短編小説 : 人の巣
二つの県を貫き流れる秋間川は、日常を容易く破壊した。原因は線状降水帯。水は人の巣を洗ってしまった。自然と人間の鬼ごっこは結果の分かりきった反復だ。
水が引いた街には、泥だけが残されている。
そこへ、復興ボランティアが集まった。 森は定年を機にこのチームに入った男だ。頭髪は薄く白髪が混じり、これまでの人生を語るように、眉間には深く彫られた皺が刻まれている。 コンビを組むのは大学生、谷沢。テニス部で鍛えた体力を活かしたいと、半ば勢いで参加していた。
二人の作業は、浸水して泥水を吸い何倍にも重くなった畳を剥がして、外へ運び出すことだった。 夏の日差しが容赦なく肌から水分を奪っていく。 そんな自然の非対称性が、二人の体力を削り取る。
森は寡黙な気遣いができる男だった。 泥に足を取られ、重い畳に四苦八苦する慣れない若者を最小の声がけでエスコートしていく。煙草が溶けたような匂いのなかで、ベテランの背中を若人が息を切らせながら追っていた。
ようやく訪れた休憩時間。 二人は、ウォーターサーバーから水を汲んでキャンプ用の折りたたみ椅子に並んで腰を下ろした。テーブルの上には、冷水の入った四つの紙コップが置かれた。そのうちの三つは森が運んできたものだ。
「暑いっすね」
谷沢が首筋の汗を拭いながら呟く。
「水、一杯じゃ足りんだろ。もう一つ飲んどけ。塩飴もな」
森の差し出した飴が、問いを引き出した。
「森さんは、なんでボランティアを?」
「まあ、偽善だわ」
「ああ、『やる偽善』ってやつっすか」
谷沢の軽い返しに、森はふと視線を上げる。
「そうだ」
「結局、他人を思うことが自分を生かすんだ」
若者は返答の代わりに目尻の皴へ視線を向け、水を飲む。それが喉に落ちきるのを見て、森が言を続けた。
「俺は、その逆をさんざんやったからな」
「逆、ですか」
「他人を蔑んで生きてみろ。惨めになるだけだ。俺みたいになるぞ」
自嘲気味に笑い、いたずらに脅す森の顔を見て、若者は苦笑した。
「変な言い方ですけど、森さんのこと尊敬しますよ」
「バカ野郎。この歳になるまで分からなかったんだぞ」
「いや、まだ若いっすよ。これからじゃないですか」
その言葉に、森は今度は声を立てて笑った。広い額に何本もの皺が寄った。谷沢はそれを見て吹き出すように笑った。
「世辞なんかいいんだ。いいか、自分のために他人を大切にするんだ。お前は学があるんだろ」
「ないっすよ、そんな」
森は膝を叩いて立ち上がる。
「そろそろ行くか。昼までにあの部屋の畳を出し切れば御の字だ。頼むぞ」
「了解っす。頼んます」
二人は再び、上流から運ばれてきた生乾きの泥を踏みしめ、家の中へと戻っていく。一度水没し、役に立たなくなった黒い畳をバールで剥がし、呼吸を合わせて持ち上げる。畳を支える二人は息を合わせて敷居を跨ぐ。そのとき、畳は橋だった。二人の息は対等に噛み合ってきた。
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