学校のいじめで命を落とした子供たちについて思うこと
息子は今も生きている。
だから私は、まだ救われているのだと思う。
もう何年も前の出来事になる。
それでも、いじめ隠蔽のニュースを見るたびに、胸の奥がざわつく。
もし、あの時――。
そんな思いが、今でもどこかに残っている。
世の中は、子どもが命を落として初めて動き始める。
「いじめた子が悪い」
「隠蔽した学校が悪い」
「対応しなかった教師が悪い」
そして今度は、SNSで顔写真や個人情報が拡散され、誰かが激しく非難される。
もちろん、責任は問われなければならない。
けれど私は、一人の人を徹底的に追い詰める社会の姿にも、どこか「いじめの連鎖」を感じてしまう。
誰かを悪者にして終わるだけでは、また同じことが繰り返されるのではないだろうか。
そして、そのような社会の空気が、学校現場の「ことなかれ主義」や「逃げるが勝ち」という姿勢につながっているようにも思う。
息子のいじめ問題を通して、私は学校がいじめを認めたがらない現実を知った。
いじめを認めれば、学校や教師の責任が問われる。
だから、「お互いに原因がある」「話し合いをしたから解決した」と、表面的な解決で終わらせてしまうことも少なくない。
しかし、それでは苦しんでいる子どもの気持ちは置き去りにされてしまう。
むしろ、加害側が学校の対応を甘く見て、いじめがさらにエスカレートし、被害者を追い込んでしまうことさえある。
私は、息子の経験と旭川の事件を通して強く思う。
いじめが学校で起きたとき、それを隠すのではなく、「いじめは起こりうるもの」として正面から向き合わなければならない。
そして同時に、いじめた側への支援も必要なのではないかと考えるようになった。
学校の先生は忙しい。
だから、一人でいじめ問題を抱え込むことは、とても大変なことだと思う。
いじめの解決には、多角的な視点が必要なのではないだろうか。
スクールカウンセラーが加害者の心の問題に向き合うことも、大切な命を守ることにつながると思う。
また、我が家の経験を通して感じることがある。
学校側との認識が食い違ったとき、学校だけで解決しようとしないことも大切だ。
いじめに詳しい弁護士や教育委員会、第三者機関などと情報を共有することが、子どもを守ることにつながる場合もある。
むしろ、いじめを「学校だけで完結させない」ことが、命を守るためには必要なのではないかと思う。
日本では、いじめられた側が不登校になったり、転校を余儀なくされたりする現実がある。
しかし本来なら、いじめる側の心の歪みや苦しさにも目を向けなければ、同じことは繰り返されてしまう。
旭川の廣瀬爽彩さんは、学校に助けを求めても十分に守られず、誰にも救われないという絶望の中にいたのではないか。
そう思うと、今でも胸が痛む。
あれほど大きな事件となり、隠蔽がいかに深刻な問題かが社会に知られた。
それでも今なお、いじめ隠蔽のニュースは後を絶たない。
何も変わっていないのではないか。
そう感じてしまうことがある。
私にとって、息子のいじめ問題は、時間の上では終わった出来事になっている。
それでも、こうした出来事の積み重ねが、生きることへの絶望を深めることにつながっているように感じる。
また、私が安楽死の問題について考え続ける理由の一つも、こうした社会のあり方にあるのかもしれない。
生きることを支えるはずの場所で傷つき、助けを求めても届かない。
そんな経験の積み重ねが、人を「生きたい」という気持ちから遠ざけてしまうのではないだろうか。
私は、そんなことを考え続けている。
【最後に】
私は、すべての教師が悪いとは思っていない。
実際には、子どもの声を真剣に受け止め、いじめを止めようと必死に動く先生もいる。
だからこそ、そのような対応が特別なことではなく、当たり前になる学校であってほしいと思う。
最後に紹介する動画は、私が考える「学校のあるべき姿」に近いものとして載せたい。
