絵画ミニミニミステリー 第148回「中村彝『エロシェンコ像』1920年」
中村彝(なかむらつね)という画家をご存じだろうか。わたしはつい最近まで知らなかった。この「彝」という字ですが、「つね」と読むそうで、宗廟に飾る祭器であり、人が守るべき道や法を意味するそうです。
さらにこの絵が重要文化財というのだからびっくりです。そしてこのモデルのエロシェンコっていう人物はいったい何者なんでしょうか。画家のことも絵のこともモデルのことも何にも知りません。その無知さ加減に呆れるばかりです。

ひとつずつ調べていきましょう。先ずは中村彝の人生を追ってみましょう。
彝は1887年茨城県の寒村に5人兄弟の末っ子として生まれ、11歳になった時には両親と兄妹の多くを亡くし、軍人の兄に倣い陸軍中央幼年学校に通う。
17歳のとき祖母が亡くなりこの時点で天涯孤独となる。そして彝自身も不治の病とされる結核を患う。何とも貧しく暗い生い立ちというほかありません。
転地療養のため訪れた千葉県館山で水彩画をはじめ、翌年から白馬会研究所、さらに太平洋画界研究所で洋画を習う。
そして1909年(22歳)第3回文展で初入選を果たす。絵筆を持ち始めてわずか4年での快挙であり、彝が並々ならぬ画才の持ち主であることを証明した。
翌年の第4回分展で『浜辺の村』が三等賞に選ばれ、実業家の今村繁三に買い取られる。
彝の幸運は続く。1911年(24歳)銀座中村屋の創業者、相馬愛蔵夫妻の厚意により中村屋の裏地にアトリエを与えられ、画業一筋に打ち込むことができるようになる。
1913年から翌年にかけて相馬の長女俊子をモデルにした『少女』を描き、文展で三等賞を受賞する。さらに俊子の裸体画も描いていた。ふたりの仲はパトロンの娘と画家という一線を超えたものになっており、ふたりは結婚を誓いあった。ところが彝の出自や持病が理由でその望みは叶えられなかった。
その後彝は中村屋を出、新宿下落合に画廊を移す。1920年(33歳)彝に大きな転機がもたらされる。それは、パトロンのひとりであった今村繁三宅でルノワールの作品を見たことである。彝はとてつもなく感激し、ルノワールの筆致を身につけようとする。
そんな折、ロシアの盲目で詩人のワシリー・エロシェンコ(30歳)と中村屋で邂逅する。エロシェンコはすでに世に知れた詩人で、中村屋で世話になっていた。早速、彝はモデルになることを求め、エロシェンコも了承する。エロシェンコは8日の間彝の画廊に通い、彝は魔物に憑りつかれたように没入した。できたのがこの作品で、ルノワールのタッチを感じさせる力作となった。
1920年第2回帝展に出品されると、この作品は明治以降の油絵の肖像画の中で最高の傑作と評された。彝、渾身の一枚となった。
その後の彝は満足に絵を描くことができなくなる。この作品で画家としての命を燃え尽きてしまったのだろうか、1924年、まだまだこれからという34歳で他界する。
1977年『エロシェンコ像』は重要文化財に選定される。その理由は、ルノワールの印象派的な色調と柔らかな筆致を思わせ、詩人エロシェンコの内面までも映し出した。大正期の洋画における西洋美術受容の好例である。重要文化財に指定される芸術性と歴史的意義がある、とされた。
最後にエロシェンコについて述べる。1890年ロシアに生まれ、4歳の時麻疹にかかり失明する。モスクワの盲学校でエスペラント語を学び、日本語を含め10ケ国語を話し、詩人で作家でもあり、教育者でもあった。
日本の盲目者はあんまを習い自立していることを知り、1914年に初来日し、東京盲学校に入学している。すでに日本語を流暢に操っていたという。その後、各地で盲人会の講師として公演を行ったり活動している。日本の子供たちのために童話を残している。
エロシェンコは中村屋で世話になるが、特に女将の相馬黒光に気に入られる。そのお礼にポルシチのレシピを残し、後に中村屋が喫茶店を開業する際のメニューのひとつになっている。さらに、1933年にはピロシキを発売するが、エロシェンコのレシピによっている。
ロシアに帰国後1952年、62歳で死去。晩年は不遇であったという。死因は不明。
