職場いじめ加害者を、自分の人生という舞台に立たせない生き方
Aさんは、月曜の朝礼で名指しされました。「先週の件、また同じミスですね。本当に困ります」。実際には、Aさんの担当ではないミスでした。けれど、その場にいた誰も訂正しませんでした。Aさんは俯いたまま「すみません」とだけ言い、自分の席に戻りました。
その日の帰り道、Aさんはふと思ったそうです。「私は、今日も自分の人生の脇役をやらされている」と。誰かに理不尽な台詞を押しつけられ、反論する台本も与えられず、ただ「すみません」という一言だけを繰り返す役を演じさせられている。そんな感覚だったといいます。
人生には、リハーサルがありません。台本の読み合わせも、撮り直しも、NGを出してからのやり直しもできません。今日という一日は、一度きりの本番です。そして、その舞台の監督も、脚本を書く人も、主演を演じる人も、本来はすべて自分自身のはずです。誰を舞台に登場させ、誰にどれだけの出番を与えるか。それを決める権利は、本当は自分の手の中にあります。
しかし、職場いじめやパワーハラスメントの渦中にいると、この当たり前の権利を忘れてしまいます。理不尽な言葉を投げてくる上司や同僚が、いつのまにか自分の人生という舞台の主要キャストになってしまう。毎晩その人の顔を思い出し、言われた言葉を反芻し、次に何を言われるかを恐れて眠れなくなる。気づけば、自分の物語なのに、相手が主役を演じているような錯覚に陥ってしまうのです。
その晩、Aさんは天井を見ながら、朝礼での一言を何度も再生していました。「本当に困ります」という声、周囲の視線、自分の「すみません」という声。まるで同じシーンを繰り返し上映する映画館の中に閉じ込められているようだったといいます。
翌朝も、その翌朝も、同じことが続きました。出社前になると胸がざわつき、上司の姿を見かけるだけで身体がこわばる。休日になっても、ふとした瞬間にあの声が蘇ってくる。Aさんは、自分の一日のかなりの部分が、たった数秒間の出来事によって支配されていることに、少しずつ気づき始めていました。
なぜ理不尽な人が「主役」になってしまうのか
これは意志が弱いからでも、性格の問題でもありません。人間の脳は、恐怖や不安を感じた対象を強く記憶するようにできています。危険を察知して生き延びるための、ごく自然な仕組みです。理不尽な言動を受けたとき、脳はそれを「重要な情報」として優先的に処理し、繰り返し呼び戻します。だからこそ、加害者の言葉は何度も頭の中で再生され、逆に自分を支えてくれた人の言葉は記憶の片隅に追いやられてしまいがちです。
Aさんも、そうでした。同じ職場に、Aさんの仕事ぶりをきちんと認めてくれる先輩がいました。前の週にも「Aさんの資料、わかりやすくて助かったよ」と声をかけてもらったばかりでした。けれど、朝礼で浴びせられた理不尽な一言のほうが、何倍も鮮明に記憶に残っていたそうです。先輩の言葉は一度聞いただけで記憶の奥にしまわれ、上司の一言は何十回も再生される。この差は、Aさんの受け止め方が偏っているからではなく、脳の防衛システムがそのように働いているからです。
「配役」という視点で見れば、これは加害者に無理やりオーディションで主演の座を奪われているようなものです。Aさんが望んで与えた役ではありません。恐怖という力によって、強引にねじ込まれた配役なのです。しかも厄介なことに、この配役は一度決まると、まるで長期公演のように毎日繰り返されてしまいます。朝、出社する前から今日はどんな一言を言われるだろうかと身構え、帰宅してからもその日の言動を反芻する。気づけば、一日のうちのかなりの時間を、その人物のために「上演」してしまっているのです。
だからこそ、まず知っておいていただきたいのは、理不尽な人物が頭の中で大きな存在になっているのは、あなたの心が弱いからではないということです。それは、脳が正常に危険を記憶しようとしている結果であり、同時に、まだ「配役権」を自分の手に取り戻していないだけなのです。この事実を知るだけでも、自分を責める気持ちが少し軽くなる方は多くいらっしゃいます。
出来事と、その出来事に与える役割は別のもの
ここで大切な視点があります。それは、実際に起きた出来事と、その出来事に自分がどれだけの重みを与えるかは、別々に考えられるということです。朝礼で理不尽なことを言われた。これは出来事です。しかし、その出来事を一日中反芻し、その人物のことばかり考え、自分の一日という舞台の大半をその人に明け渡してしまうかどうかは、また別の話です。
出来事そのものを、なかったことにはできません。起きたことは起きたこととして、記録に残し、必要であれば然るべき窓口に相談することも大切です。けれど、その出来事をどれだけ長く自分の心の舞台に留めておくか、その人物にどれだけの台詞と出番を与えるかは、時間をかけて自分の手に取り戻すことができる部分です。
Aさんは、その日の帰り道に気づいたことがもうひとつありました。「私は今、あの人に無料で出演料を払い続けているようなものだ」という感覚です。仕事終わりの時間、家族との夕食、休日の心の余白。本来なら自分や大切な人のために使うはずだった時間を、理不尽な一言の反芻のために差し出していたことに気づいたのです。
考えてみれば、これはとても不思議なことです。理不尽な言葉を投げた本人は、おそらくその日の夕方には別のことを考え、家に帰れば別の話題で過ごしているでしょう。にもかかわらず、言われた側だけが、何時間も、時には何日も、その一言を上映し続けてしまう。相手は一度きりの出演で報酬を得ていないにもかかわらず、こちらが勝手に長期公演のギャラを払い続けているようなものです。この非対称に気づくことが、配役を見直す最初のきっかけになります。
「舞台に乗せない」とは、どういうことか
理不尽な人を舞台に乗せないというのは、その人を無視することでも、問題をなかったことにすることでもありません。むしろ逆です。出来事はきちんと記録し、必要な対応はとる。そのうえで、その人物に与える心理的な出番を、自分の意思で調整していくということです。
具体的には、まず起きたことは日時と言動をできるだけ客観的な言葉でメモに残しておきます。感情的な評価を書く必要はありません。「何月何日、何時ごろ、誰が、何と言ったか」という事実だけを淡々と記録します。これは、後々の相談や交渉の場面で自分を守る材料になると同時に、頭の中でぐるぐると反芻する代わりに、一度紙の上に出来事を「置いておく」という効果もあります。頭の中に住まわせておく必要がなくなるのです。
次に、帰宅後や休日には、その人物の話題を意識的に別の場所へ置いていく練習をします。難しく考える必要はありません。信頼できる友人と話すときに「その話はもう十分したから、今日は別の話をしよう」と自分から区切りをつける。趣味の時間には、その人物のことを考えない時間として意識的に確保する。こうした小さな線引きの積み重ねが、少しずつ配役を変えていきます。
そして、Aさんが実際に行ったのは、心の中で理不尽な上司に「端役」の札を貼り直すという作業でした。毎晩の反芻をやめる代わりに、その日あった良いこと、支えてくれた同僚の言葉、自分がうまく対応できた場面を一つだけ書き出すようにしたのです。理不尽な人物の出番を減らし、自分を支えてくれる人や、自分自身の頑張りに、少しずつ出番を戻していく作業です。
もうひとつAさんが試したのは、物理的な距離の調整でした。休憩時間に理不尽な上司と同じ空間で過ごす必要がない場合は、少し場所を変えて過ごす。業務連絡以外の会話は必要最低限にとどめる。これは相手を無視することが目的ではなく、自分の一日の中で、その人物と関わる時間の総量そのものを減らすことが目的です。関わる時間が減れば、自然と反芻する材料も減っていきます。
はじめのうちは、こうした距離の取り方に罪悪感を覚える方も少なくありません。「大人げないのではないか」「もっと歩み寄るべきではないか」という思いがよぎることもあるでしょう。けれど、理不尽な言動を繰り返す相手に必要以上の出番を与え続けることは、歩み寄りとは違います。自分の心身を守るために出番を調整することは、正当な権利なのだと、Aさんは少しずつ自分に言い聞かせていったそうです。
配役を変えることは、現実を否認することではない
ここで誤解していただきたくないのは、配役を変えるという考え方が、理不尽な扱いを我慢することや、なかったことにすることとは違うという点です。Aさんは記録を取り続け、最終的には人事の窓口に相談し、状況の改善を求めました。現実に対応することと、心の中でその人物にどれだけの重みを与えるかということは、両立できます。むしろ、心の舞台から相手を降ろすことができたからこそ、Aさんは冷静に記録を整理し、感情に流されずに相談の場で事実を伝えることができたのです。
理不尽な人物を主役の座に居座らせたままだと、判断も対応も、その人物の顔色や機嫌に振り回されてしまいます。今日は機嫌がいいだろうか、今日は何を言われるだろうかと、常に相手を中心に一日の予定を組み立ててしまう。反対に、その人物を舞台の端に静かに退場させ、自分自身が監督席に戻ることができれば、次にどう動くか、誰に相談するか、どんな記録を残すかを、自分のペースで決めていくことができるようになります。配役を変えることは、逃避ではなく、むしろ現実的に対応するための土台づくりなのです。
人事に相談する場面でも、この違いははっきりと現れます。感情が高ぶったまま、理不尽な人物を主役に据えた状態で話をすると、話が要点からそれてしまったり、感情的だと受け止められてしまったりすることがあります。一方で、事実を淡々と記録し、自分の中でその人物の出番をある程度整理できていると、必要な事実だけを簡潔に、落ち着いて伝えることができます。相談の場での伝わりやすさという意味でも、配役の整理は現実的な効果を持っているのです。
Aさんが人事の窓口で話をしたとき、担当者から日時や具体的な言動を尋ねられる場面がありました。感情のままに訴えていたら、うまく答えられなかったかもしれません。けれど、日々の記録をつけていたAさんは、いつ、どんな場面で、何を言われたのかを落ち着いて説明することができました。担当者の表情が、途中から真剣なものに変わっていったのを、Aさんは今でも覚えているそうです。事実に基づいた記録は、感情に流されない自分を支える台本にもなるのです。
沈黙していた周囲の人たちを、どう扱うか
Aさんが朝礼で名指しされたとき、その場には他の同僚たちもいました。けれど、誰もAさんの担当ではないと訂正してくれませんでした。この「誰も助けてくれなかった」という記憶もまた、理不尽な上司の言葉と同じくらい強く心に残るものです。
こうした周囲の沈黙は、必ずしも悪意によるものとは限りません。自分が次の標的になることを恐れて口をつぐんでしまう人もいれば、そもそも状況を正確に把握していなかった人もいます。もちろん、だからといって沈黙が許されるという意味ではありません。ただ、周囲の一人ひとりに、理不尽な上司と同じだけの重い役を与えてしまうと、舞台はますます息苦しいものになってしまいます。
Aさんは、少し時間が経ってから、その場にいた同僚の一人に「あのときは驚いたよね」と話しかけてみたそうです。すると、その同僚は「本当は違うと言いたかったけれど、その場では言えなかった」と打ち明けてくれました。全員が敵ではなかったという事実に気づけたことで、Aさんの心の舞台は、少しだけ風通しがよくなったといいます。すべての観客席を敵で埋め尽くしていたつもりが、実は味方になり得る人も座っていた。その発見だけで、舞台に立つ足取りは少し軽くなるものです。
誰を舞台に招き入れるかは、これからも選び続けられる
配役の見直しは、一度やって終わりというものではありません。Aさんも、最初のうちは何度も理不尽な上司を心の舞台に呼び戻してしまったといいます。ふとした瞬間に、また朝礼での場面が頭に浮かび、悔しさや怒りがこみ上げてくることもありました。それでも、そのたびに「この人に今、また出番を渡すかどうか」を自分で選び直す。この繰り返しこそが、少しずつ配役権を自分の手に取り戻していくプロセスです。
大切なのは、完璧に忘れることを目指さないことです。理不尽な出来事の記憶を完全に消し去ろうとすると、かえってそれにとらわれてしまいます。そうではなく、その記憶が浮かんできたときに「今日はもう十分な出番を渡したから、ここまでにしよう」と、自分で区切りをつける練習を重ねていく。これは筋力トレーニングに似ています。一度で劇的に変わるものではありませんが、繰り返すたびに、少しずつ配役を切り替える力がついていきます。
そして何より、あなたの舞台には、まだ出番を十分に与えられていない人たちがいるはずです。あなたを支えてくれる家族、信頼できる友人、そして何より、日々を懸命に乗り越えているあなた自身です。理不尽な人物に割いていた出番を、少しずつこうした存在に戻していくこと。それが、この舞台の監督としてのあなたにできる、最も大切な仕事なのかもしれません。
今夜、寝る前にできること
今夜、布団に入る前に、一度だけ試してほしいことがあります。今日あった理不尽な出来事を思い浮かべたら、心の中で「今日の上映はここまで」と区切りをつけてみてください。声に出す必要はありません。ただ、意識の中で幕を下ろすような感覚を持つだけで構いません。
そして、その直後に、今日という一日の中で、ほんの少しでも自分らしく過ごせた瞬間を一つだけ思い出してみてください。うまく対応できた場面でも、誰かと交わした何気ない一言でも構いません。理不尽な出来事の幕を下ろした直後に、自分自身の場面を思い浮かべる。この順番こそが大切です。上映の主導権が、相手からあなた自身へと戻っていく感覚を、その瞬間に少しだけ味わえるはずです。
明日の夜も、同じことを試してみてください。毎晩の小さな儀式として続けていくうちに、理不尽な出来事を思い浮かべてから幕を下ろすまでの時間は、少しずつ短くなっていきます。そして、その分だけ、あなた自身の場面に使える時間が増えていきます。上演時間の配分を取り戻していく作業は、今夜のこの一瞬から始めることができます。
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