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近代和風建築考察:松村貞次郎再考

木造建築技術の黄金時代はいつか?

▢建築の意匠・造形の面からすれば、

:薬師寺東塔は凍れる音楽といわれた白鳳時代。
:重源の東大寺再建、大仏様の設計思想のバイタリティ溢れた鎌倉時代。
:桂離宮の江戸初期。と評価は分かれるだろうが

▢技術の面では、明治から大正、昭和にかけてが面白い。

歴史的に見れば、
「近世建築」の主流である古典主義のルーツはギリシャ・ローマ、一方
「近代建築」のルーツは産業革命(鉄やコンクリートの量産)であり、

日本では1900年頃(明治33年)「近世建築」と「近代建築」がほぼ同時に流入して建築の西洋化≒近代化が始まった

まったく新しい「西洋建築の様式」に触発され、伝統の日本建築を「和風」という建築様式として認識した。
「和風」という様式が西洋を相手に、相対的に確立した。

明治から大正昭和にかけての時代は、日本の伝統木造技術の黄金時代、そして最後の頂点、滅びの寸前、落日の輝き、長い伝統と蓄積の職人技術の最後の花。江戸のほんとうの滅びでもあった。

▢「ジャポネスク」は、(第二和風)外国育ちの和風

として今日、回帰している「外国育ちの和風」西洋的教養の下で育った近代主義建築家たちの、いわば「第二和風」

小出邸 建築家・堀口捨己(東京都指定有形文化財)
ピラミッドのような仏堂に用いられる宝形造りの大屋根とシャープな軒が印象的。オランダ住宅のデザインを日本の素材で試みたようだ。水平線と垂直線、色彩による空間構成は、オランダの造形運動(デ・ステイル)の影響。

▢「近代和風」は、(第一和風)日本の内なる和風

旧久保田家住宅(萩市指定有形文化財)
旧久保田家住宅は、江戸時代から続く萩の町屋建築の典型例
漆喰で仕上げられた白壁や、装飾性と耐火性を兼ね備えたなまこ壁が特徴的

江戸の流れを汲む職人たちの手によるもので、西洋を見据えて成立した近代日本の、言わば、第一の前の「内なる和風」

明治維新は、根底から封建制の打破があった。

松陰塾

職人の世紀と謳われた江戸を引きずりながら、商業主義に引き込まれ、技能労働者への転身を余儀なくされた。旺盛な建築需要、職人も活況の地に自由に国内を移動。資本主義経済の成長とともに豪族も出現。建築的教養の不足が狂い咲きのような珍建築を生むこともあったが、腕自慢の職人の世界は拡大していた。可能性を拡大した江戸の延長・発展であった。

西洋建築の意匠と技術が刺激となり、
「木造建築技術の黄金時代」が築かれた。

西洋から専門家を招き、国会議事堂などの設計を依頼します。明治10年に来日したコンドルは、大学の講師になり次世代の建築家を数多く育成します。コンドルは政府の要請を受け博物館や鹿鳴館、岩崎邸などを手がけます。日本は長い間木の文化を継承し続けてきましたが、ヨーロッパは煉瓦と石の文化です。遥か昔のギリシャローマ時代に古典様式が生まれゴシックやルネサンスを経て現在に至ります。日本は短期間に西洋の建物を学び実現しています。明示20年になるとコンドルの弟子が活躍して日本銀行本店や迎賓館、東京駅を残します。住宅にも西洋文化が徐々に浸透し、当時の高官の住宅は洋館と日本家屋の併設がよく見られます。紙の障子からガラスを使った建具に代わり、部屋の照明は電灯へと変化します。日本は地震が多い国なので地震についての研究も進み、耐震構造が強化されます。日本における近代建物の歴史は幕末から明治にかけてスタートします。

「近代建築史の研究」が本格的に展開を始めたのは戦後の昭和30年代半ば。

明治村も開村し、近代建築に対する国の重要文化財の指定も活発になる。当時の近代建築は、大浦天主堂やグラバー邸等、一連の西洋建築を対象とするものであり、近代和風建築は除外された。

明治初期からの建築教育は、

医学が漢方を、数学が和算を排したのと同様、伝統の木造建築は大工に任せ、石や煉瓦の西洋建築、鉄筋コンクリート、超高層建築といった具合に

西欧化の近代化路線をつき進んで今日に至る。

伝統の木造建築は放置され、無視され、後進の象徴として蔑視

され敵視すらされた。建築教育の近代和風無視のツケが今、我々に回ってきている。評価の方法がわからない。自己顕示型の洋風建築に対し、庭木の影に身を隠す和風建築は、発見も調査も難行を極めることが多い。

「近代和風建築」「内なるジャポニズム」
は日本の近代の歴史の中から厳然として生まれてきた新しい様式の建築。

洋と和の文化的伝統の混在と折衷の中から今日の日本人の生活様式が成立していることと同様。

前川國男邸 1942年竣工
 寝室、書斎ともにシンプルだが、大きな開口、下枠の天板が飾り棚にもなり、木わくと漆喰のバランスが、とても綺麗。

重要な意味を持つ「近代和風建築」が急速に姿を消している。… 

→ ヘリテージ活動へと繋がる 🚶

1▢▢▢近代和風建築の流れ▢▢▢

西洋の「洋風建築」が入ってきて、「和風建築」なるものが意識化された。

日本では1900年頃(明治33年)「近世建築」と「近代建築」がほぼ同時に流入して建築の西洋化≒近代化が始まった。
この「和風建築」は江戸時代以前の伝統的建築を核としてつくられてはいるが、伝統的建築と異なるのは認めておく必要がある。

近代和風建築には大きく分けて、三つの流れがある。

洋風建築と和風建築を対立的にとらえた「伝統の継承」「和風の構築」、一方、明治維新を迎え、封建的な建築規制がなくなり、自由な建築が建てられる。社会的地位の象徴となっていた要素を取り込んだり、西洋建築も新しい時代の象徴として、一つの要素として吸収してしまう傾向が見られる。洋風建築と和風建築を対立的にとらえない、職人や庶民によって多く建てられた、次元の異なる流れとして「要素の集積」の流れである。

▢▢▢ 近代和風建築の流れ ▢▢▢

▢「伝統の継承」

伝統的建築を継承していくことに価値を見出している姿勢
建物の形態・意匠だけでなく、その建物の中で営まれる生活様式においても伝統が大切にされる例が多い。
建物の構造が木造であることにこだわりを見せる。

旧山村家住宅は、江戸時代後期に建てられた大型の町家で、2棟の主屋、2棟の土蔵、離屋から構成されています。1階前面入り口に蔀戸(通風・採光を確保しながら外部の視線を遮り、商売のために開閉で柔軟に空間を演出できる建具)、厨子2階(天井が低い2階)に虫籠窓(虫かごのような窓)があります。

 <伝統の維持>

西洋建築が圧倒的な勢いで流入してくる中、できる限り伝統的建築に手を加えることなく維持し後世に伝えていくことに積極的な価値を見出した建築。古い形式をそのまま維持していく例はほとんど見られず、新しい時代になると、ガラス戸や洋間を用いるのが一般的となる。

万徳旅館:「出桁造」「杉皮葺」「栗の木を使用したトチ葺き」
「与次郎組」と呼ばれる登り梁の小屋組

 <伝統の発展>

伝統的建築を継承することに価値を認めつつも、時代の進歩の中で、伝統的建築に手を加え、その発展を試みたものを指す。
メートル法を取り入れたり、洋風小屋組や基礎部分の煉瓦、木材を補強する鉄筋など、洋風建築技術を始めとする新しい手法を取り入れた例が入る。建築家や建築教育を受けた技術者によって設計されたものが多い。
見えない部分に洋風要素を取り入れている例が多い。

田園調布の家(大川邸):「居間中心型の平面形式」大正後期に成立し、昭和初期に浸透

▢「和風の構築」

西洋文化の良い面を積極的に取り入れ、伝統建築を乗り越えて、新しい時代の日本にふさわしい、西洋建築に匹敵する日本の様式を作り出そうとする動き。伝統的な生活様式にこだわらず、洋風化など、時代の移り変わりの中で必要とされた新しい形式を積極的に取り入れている。
近代化に伴い必要とされた、ホテル・裁判所・銀行など、新しい用途の建物でありながら、意匠的な面において日本的なるものにこだわりつくられた建築もある。鉄筋コンクリートなど積極的に新しい構造方式を用いたり、西洋建築の設計手法などを取り入れることに対してなんの抵抗もない。むしろ、伝統的建築の要素と洋風建築の要素とを組み合わせ、建物の全体的な雰囲気において、日本的なる建築をつくろうとしていた。

伝統的建築でもない、かといって洋風建築でもない、新しい様式をつくりだそうとする意識がはっきり読み取れる。

前川國男邸 1942年竣工(東京都指定有形文化財)
前川國男は1928年にフランスに渡り、ル・コルビジェのもとで2年間働いている。

<和風の様式化>新しい様式の造られた明治期

新しい和風建築をつくろうとする意識が明確化するのは明治中期頃、背景にナショナリズムがあったのは確かであるが、建物の建てられる場所的・地域的特性などが果たした役割も大きかった。明治20年代から30年代にかけてつくられた建物によって一つの基本的な形式がほぼ完成された。その後の建物の中には、用途や機能を超えて同じ形式もつ建物がいくつもみられ、このような形式がつくられていく過程の建築を称して<和風の様式化>と呼ぶ

常盤台写真場:文化住宅(戦前期の都市建築)「搭状エレベーター」「数寄屋風」「勾配天井」

<和風様式の展開>発展展開させた大正昭和期

「和風の構築」は、大正・昭和期により大きく展開し裾野をひろげていく。この頃には、建物の建つべき場所や環境、用途を考慮して和風建築を建てるということは一般化している。その形態は、明治期の建物を形骸化したような建物が建てられる一方で、駅舎や劇場など、建物の具体的な場所性・環境や用途などを考慮して、明治期につくられた形式とは異なった意匠を持つ新しい和風建築もつくられている。と同時に、この頃には耐震・耐火に新しい構造体である鉄筋コンクリート造を用いて、和風建築をつくるということが課題となる。これらの建築をまとめて<和風様式の展開>と呼ぶ。

東京駅 丸の内駅舎 1914年(大正3年) 
すでに日本でも鉄筋コンクリート造の建築物がつくられていましたが、あえてレンガ造の様式にしたのです。明治政府の威光を世に示す必要がありました。
旧岩崎邸:岩崎弥太郎の長男、岩崎久弥の旧邸
英国では、洋館をレンガで造るけど、これは木造。コンドルは親日家。
この和洋併置式の邸宅形式は、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えている。

<日本趣味への傾倒>

一方、昭和期にはナショナリズムが昂じて極端な国粋主義をも生み出した。その時代に生まれた、昭和初期の競技設計でつくられた

「帝冠様式」

はよく知られているが、建物の特徴として、場所性や建物用途に関係なく和風意匠が用いられている。同じような状況下でつくられた建物を含め、<日本趣味への傾倒>としている。

九段会館
「帝冠様式《ていかんようしき》」と呼ばれる、コンクリート造の建物に瓦葺きの勾配屋根を塔屋とパラペットに冠したもの。大正末期から昭和初期にかけ公共機関の庁舎などによく用いられた建築様式であり、縦方向を強調した表現と数々の装飾の調和など、近代建築史においても貴重な史料と言えます。
「旧下関英国領事館」1906年建造(明治39年)、煉瓦造2階建、設計:ウイリアム・コーワン
クイーンアン様式で赤煉瓦と白い窓枠が特徴、自由でアンシンメトリカル(東京駅と同じ)。屋根の前部3面に階段状の装飾(ステップゲーブル:スコットランド建物の特徴)が目を引く。
煉瓦造に瓦の屋根。日本融合美。西洋建築を学んだ日本人建築家の習熟度を測る指標となる建物だそうだ。なんと、我が国最古の現役郵便局舎と聞いて驚く。「下関南部町郵便局庁舎」1900年建造(明治33年)、煉瓦造2階建、設計:三橋四郎(鉄網コンクリート工法考案)
愛知県庁本庁舎

▢「要素の集積」好みの要素のみ用いる傾向

社会的地位の象徴(ステイタスシンボル)の要素を取り込んだ自由な建築。幕末から明治初期にかけて建てられた

「擬洋風建築」

は、技術的には伝統的な木造技術に基づいて建てられた、洋風要素が強く表現されたもの。

明治9年に建築された旧開智学校校舎は、日本でも最も古い学校の一つで、漆喰系の擬洋風建築を代表する建築です。

外国人の東洋への憧れや異国趣味を持つ外国人によって建てられた建物。
伝統的建築から即物的に好みの要素を抽出し、素材化することによってつくられたものが多い。

<豪華さへの志向>

あらゆる建築が自己判断で自由に建てられるようになった時、まず現れたのが豪華さの追求であった。建築が要素の組み合わせによってつくられると認識されていた。部分の主張が強く、統一のとれた形態をもつ建物は少ない。豪華に見せたい点では、和風建築の要素であろうと洋風建築の要素であろうとかまわない。唐破風、銅板葺、煉瓦、大理石、三階、塔屋、大広間で圧倒する。洋風要素を用いる場合でも、意匠的な面に留まり、生活スタイルは伝統的な形式をとる。主に外から見える部分に洋風要素を取り入れている。

三井八郎右衛門邸
随所が洒落ている。畳の上に絨毯を敷き、椅子やテーブルを置く和洋折衷スタイルもあるかと思えば、櫛形窓など桂離宮の意匠も混在している。

<ジャポニズム>

形としての和風にこだわり、比較的わかりやすい形態が用いられる場合が多い。どんな和風要素を用いようとも、意匠的な部分に留まり、生活様式はベッドと椅子に固執する。

歌舞伎座

2▢関東・東京からみた近代和風建築▢

①比較的早くから類型化された建物がつくられている。
➁大正末期から昭和にかけて、建築的な高まりがみられる。
➂明治期と昭和期とでは、昭和の時代の方が意匠的に派手になる傾向。
④豪華さを競うようにしてつくられた建物が多くみられる。
⑤新しい技術や材料を取り入れている例も多い。
⑥外国人を対象とした用途の建物に寺院建築の意匠的影響が強くみられる。

近代和風建築:松村貞次郎、大江榮

①明治期に類型化された建物

のうち、最も顕著な類型は、木造建築で軒高が高く、総二階建で入母屋屋根を載せた形式をもち、入口部分には伝統的建築の向拝を変形したような屋根の車寄せを付している形式の建物。また外壁は、漆喰塗りの真壁もしくは下見板張りとし、壁面をすべて壁とせず、縦長の上げ下げ窓をつけている。この形式の原型は、おそらく明治28年の奈良県庁舎や、明治32年の日本勧業銀行まで遡る。
尚、学校や武道場では縦長の窓を用いず、引き違い窓とする場合も多くみられるが、この場合でも伝統的な建物と違って、腰までを壁とし開口部を床まで設けていない。また、中には平屋建の例もある。
明治20年代は伝統に対する意識が非常に高まった時代。明治初期は「文明開化」の名のもと欧米制度や文化を積極的に導入。しかし欧化主義が行き過ぎた反動で、「日本らしさ」や「伝統文化」を見直す動きが強まった。さらには、幕末に結ばされた不平等条約の改正日清戦争(1894-1895)勝利を通してのナショナリズム高揚などもあった。
美術界においても伝統が見直され、西洋一辺倒の工部美術学校は閉鎖され、古建築に対する認識も深まり、古社寺保存会が内務省に設けられた。このような状況下で、新しい和風建築の様式がつくられたいった。
類型化された建築様式は邸宅にもみられ、共通点は正面玄関に唐破風の屋根をもつ車寄せをもち、二階はあっても総二階とはせず、さらに配置を伝統的建築にみられた雁行型を踏襲し、庭園との一体化をはかっている。

高橋是清邸:「和洋折衷」「火灯窓」「桟唐戸」(禅宗様、大仏様)「床の間」「ガラス」

➁近代和風建築の高まり

➁の大正末期から昭和にかけての高まりを示すものとしては、まず量的に和風建築が多くつくられている点。さらに質的にもすぐれている建物が多い。
昭和初期は、和風建築をつくることが、一般的に広く認められており、日光・鎌倉など、特殊な地域に建つ建物も、由緒ある神社・寺院に近い駅舎のほか劇場などにも和風建築が建てられている。建物の形式も、明治期に類型化された和風建築とは異なり、桃山風・書院風など多様で、建物の性格に合った独自の意匠をもつ傾向が見られる。鉄筋コンクリート造で和風建築をつくることも課題になっており、和風建築に対する考え方が大きく展開していった時代。いずれにせよ、和風建築の多くが、伝統的建築から要素を抽出してつくる手法を用いていた点は明治期と変わらない。しかし、昭和初期には、唐破風など伝統的建築の具体的形を用いることを「葬儀自動車式」と言って嫌い、伝統的建築の再解釈を通じて合理主義建築と伝統を結びつけた建物も建てられている。
昭和初期の特徴として、質の高い数寄屋建築が多く建てられている。昭和初期は、伝統的建築に対する関心が高まった時代。昭和4年には、古社寺保存法を発展させた国宝保存法が公布されている。この法律により、寺院や社寺が所有する以外の建築も国宝指定と修理が可能になり、城郭や洋風建築、民家なども指定されはじめた。伝統的建築に対する、幅広い関心が寄せられていた時代であり、このような関心が、和風建築に十分影響を与えた。

会水庵:宗徧流(そうへんりゅう)茶室、
桟瓦葺の屋根と銅板葺の庇が大正から昭和にかけての特徴を現している

➂派手になる意匠(豪華さの指向)

③については明治期の建物よりも昭和期の方が衣装的に和風であることがより強調され、比較的派手になっている。
明治時代には、目立った派手な衣装がなく、和風であることを特に意識しなかったと思わせる簡素な役所の建物なども見られたが、昭和期になると木鼻や蟇股など比較的手の込んだ寺院建築の要素を数多く用い、いかにも「和風建築である」と主張しているような建物の例が増える。出入口部分の庇や車寄せにも手の込んだ重厚な唐破風が好まれたようで、明治期に比べ、むくり屋根や反り屋根よりも唐破風をもつ例が増えている。
旅館や浴場、郡役所や博物館・資料館などに和風であることを強調した例が目立つが、これらの中には、ナショナリズムが高揚し、国粋主義化した建築観の中でつくられたと考えられる建物もある。

子宝湯:震災後に建てられた銭湯建築、伝統建築と西洋が混在する東京型銭湯の特徴。
銭湯は地域社会の重要な「場」の一つであった。入母屋造りの大屋根と、その下に張り出す玄関の唐破風、そして多彩な彫刻。入母屋造りの妻飾りとして格子を縦横に組んだ「狐格子(木連格子、妻格子ともいう)」、破風には「蕪懸魚鰭付(かぶらげぎょひれつき)」が取り付く。賑やかな装飾と寺社建築を思わせる外観は、震災後に建てられた銭湯建築の特質をよく現している。

④豪華さの主張

④の豪華さを主張する傾向の建物については、特に庶民の、あるいは庶民を対象とした建物に数多く見られる。「銅(あかがね)御殿」と呼ばれた建物や、土蔵造り商家・寺院風の浴場などがここに入る。土蔵造り商家などは、明治期にも見られるが、銘木や良材、細かに細工した建具、螺鈿(らでん)(貝飾り)などを多く用いる傾向は昭和初期から顕著になる。この点において③の昭和期の方が明治期よりも意匠が派手になるという傾向の一つとして豪華さへの指向がみられたといえる。
寺院風の浴場は、特に東京の公衆浴場に多く見られる。大正12年の関東大震災以降のことで、建物をつくる事の出来る大工も限られていたようである。この時期には各地の温泉旅館などで、木造3,4階建の建物や大広間をもつ建物が数多く建てられている。これらの旅館は、銘木や細工の凝った装飾などを多く用いており、建物の全体的な印象を豪華なものにしている。豪華さを演出することが、お客様となる庶民の素朴な欲望を満足させると同時に経営的に社会的信用を得る上でも≒だったのであろう。高度な建物への指向は、結果的に高度な職人技術をも必要とした。
豪華さの点から、もう一つ注目されることは、新しい技術や材料などを積極的に取り入れている例がみられる点である。大谷石の産地で知られる栃木県大石付近では、大谷石を用いた住宅・店舗・倉庫などの例が数多くみられ、煉瓦の生産地である埼玉県深谷付近には煉瓦を用いた建物がみられる。大谷石や煉瓦が用いられ始めるのは明治末期頃からで、その用いられ方は、隣地と接する側の防火壁や、土蔵造りの外壁などに多い。これらの新しい材料はよく目立つ部分に用いられ、中には大谷石で凝った洋風意匠をつくり出している例もある。新しい材料を用いることが建物の価値を高めることにもなったのであろう。

高橋是清邸:7度の大蔵大臣のほか総理大臣も経験
「和洋折衷」「火灯窓」「桟唐戸」(禅宗様、大仏様)「床の間」「ガラス」
「ガラス」は建築史上も初期で、表面のゆがみをもつ。

⑤新たな技術・材料の導入

⑤は見える部分には伝統的建築を頑(かたく)なに踏襲していながら、見えない部分、目立たない部分に西洋建築技術やその手法を用いている建物のこと。宮内庁、社寺関係の建物や邸宅に多く見られ、洋風小屋組やメートル法の使用、さらに和風庭園へ芝を張るなど、伝統的建築を逸脱しない範囲内で洋風建築の要素を用いている例が見られる。大広間をつくるために、木造の梁の中に鉄筋を組み込んだ例もある。
見えない部分に洋風建築技術を積極的に用いるという方法は、近代和風建築の特徴の一つでもある。

近代和風建築考察:松村貞次郎、大江榮

三井財閥の総領家、三井八郎右衛門高公氏の第二次大戦後の邸宅。中廊下式は、大正期に成立した平面形式。南側が木造で、北側が鉄筋コンクリート造。庭に面する南側の外観は、柱、長押、欄間、障子などの伝統的要素で構成される。
大和屋本店(乾物屋):「出桁作り」の「看板建築」銅板を意匠的に用いるのも看板建築の特徴
鰹節という金文字の看板が目立つ。「出桁作り」という江戸以来の商店建築形式を踏襲しながら、間口に対して軒高が極めて高い、関東大震災後の東京に建てられた3階建ての「看板建築」。構造材小口以外に銅板を意匠的に用いるのも看板建築の特徴。店舗前面にたばこやの造作もある。

⑥寺院建築意匠と外国人施設

⑥については、ホテル・古美術商店・外国人別荘などに見られる。ベッドに椅子という生活が営まれる室内空間を持ちつつ、建物外部・内部の個々の細部意匠には、好んで寺院建築の要素が用いられている。また、時代的にみると、他の和風建築と同様に、古い物よりも昭和初期の建物のほうが和風であることが強調される傾向がある。昭和初期は、外国人観光客を誘致することが国策として進められた時期でもある。日本的な雰囲気を強く出す必要性から、より和風建築らしくつくられたホテルも多い。

3.▢▢▢ 総 括 ▢▢▢

①から⑥までのそれぞれの項目は互いに関連した内容を持つが、関東地方に存在する建物からその特徴をみてきた時、明治期と昭和期とで、和風建築に対する人々の捉え方や考え方に大きな違いがあったらしいことが指摘できる。と同時に、この時が共に、近代和風建築の盛り上がりを成していた時期であったことも確かであろう。さらに厳密に言えば、その二つの時期とは、

▢「明治後期」

が新しい和風建築の様式をつくる
「様式化の時代」

とすれば、

▢「昭和初期」

は、いろいろな和風建築を手法として駆使することの出来た
「展開の時代」

であったと言えよう。そして昭和初期は、近代和風建築の裾野が広がり、広い範囲で社会的に一般化した時代でもあった。

▢近代和風建築のピークをどこかに見るとすれば、やはり
「昭和初期」がそれにあたるだろう。

■最後に…

明治以降、日本建築が多様になっていきます。セセッションの始まりともいえます。流れを整理して考えると新しい発見に繋がります。それが近代建築の面白さだと思います。※「セセッション」とは分離を意味。従来の日本様式からの分離。

日本建築史(原始、古代、中世、近世、近代、現代)|伝統建築ラボ|耐震研究ラボ




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