今更ながらの告白…30年前からのちょっとした話し。
8月はトランスジェンダー・ヒストリー・マンスです。
そこで今回は、普段あまり語らない、あたし自身の話を少しだけ書いてみようと思います。
「トランスジェンダーカフェ」を作った理由
1996年、あたしはインターネット黎明期に「トランスジェンダーカフェ」というホームページを開設した。
その目的は、とてもシンプルだった。
トランスジェンダーについて、一緒に調べたり、考えたり、語り合える仲間が欲しかった。
当時、ニューハーフデビューして間もないあたしは、TGAP(TransGender AIDS Project)の代表だった友人から「トランスジェンダー」という言葉を教わった。でも、その頃のあたし自身は、その意味を十分理解していたわけじゃない。
ちょうどWindows95が発売され、風俗で貯めたお金で新しいパソコンを買い、インターネットにつないでみると、海外にはトランスジェンダーに関する情報が山ほどあった。
でも、そのほとんどが英語。
「これを一人で調べるのは無理だ。」
そう思った。
だからまず、一緒に調べる仲間を作ろう。
それが「トランスジェンダーカフェ」の始まりだった。
1990年代、世界のトランスジェンダーを取り巻く状況
当時の世界の状況を知らない人も多いと思うので、少し説明したい。
時代は、ハリー・ベンジャミン性別違和研究所(現在のWPATH)がSOC(Standards of Care)Version 4を出していた頃。世界中のジェンダークリニックでは、今よりずっと厳しいゲートキーピングが行われていた。
そんな中、ニュースグループ alt.transgendered では、世界中の当事者が「どうすればジェンダークリニックを通過できるのか」を真剣に議論していた。
今から見ると少し奇妙に感じるかもしれない。でも当時のみんなにとって一番切実だったのは
「早くホルモンを始めたい。」
「できれば手術も受けたい。」という願いだった。
もちろん、お金の問題もある。
だから、ジェンダークリニックに通っている人から情報を集め、SOCを読み込み、「医師に認められるには、どんな答え方をすればいいのか」というQ&Aまで、みんなで作っていた。
まだSRHRという言葉が広く使われるより、ずっと前の話だ。もちろん、「なぜ医師が私たちの人生を決めるのか」という反発はあった。でも、それ以上に「医療へたどり着きたい」という切実さが勝っていた時代でもあった。
だからあたしは、その頃から海外の資料を翻訳したかった。ホルモンや手術についてもっと知りたかったし、何よりトランスジェンダーという存在そのものをもっと理解したかった。
「専門家」は、本当に専門家だったのか
その後、五反田ニューハーフレディで働き始める頃になると、一気に情報が入ってくるようになる。
同じ頃、「TGTSを支え得る人々の会」が動き始め、日本で最初のガイドライン(答申)が発表された。正直に言えば、この内容には強い違和感を覚えた。
まだSRHRという考え方を知らなかった頃だけれど、
「なぜ、トランスジェンダーのことをほとんど知らない医師が、突然『専門家』として私たちを判定する立場になるのだろう。」その疑問は、とても大きかった。
だから今でも、ジェンダークリニックという仕組みそのものには懐疑的だし、日本の医療者や専門家に対しても、あまり良い印象を持てない部分がある。
性同一性障害特例法への違和感
2004年、性同一性障害特例法ができる流れになった。
その頃には、ジェンダークリニックからニューハーフが排除される流れも強くなっていた。信用できるとは思えない医師の診断書が必要で、手術も必要。
結婚していたらだめ。
子どもがいてもだめ。
あたしには、そんな法律を作る意味がどうしても理解できなかった。当時のTGCにも、似たようなことを書いた記憶がある。当時のあたしは、むしろ戸籍法の中で家庭裁判所へ申し立てる仕組みの方が自然なのではないか、と考えていた。
もちろん簡単には認められないだろう。でも、今の同性婚訴訟のように、多くの人が司法を通じて社会を変えていく方が健全ではないかと思っていた。
そして実は、当時のあたしは、公的性別変更そのものを最優先課題とは考えていなかった。
あたしが一番大切だと思っていたこと
それよりも大切なのは、「トランスジェンダーは社会の中で普通に生きている。」その認知が広がることだと思っていた。
1970年代からテレビには夜職のトランスジェンダーが出演していた。社会の偏見はあったけれど、「女子トイレを使う犯罪者だ」というような言説は、ほとんど聞かなかった。
だからまずは存在を知ってもらうこと。差別が減れば公的的性別の問題も、いずれ社会は向き合うようになる。そう考えていた。
そして、その不安は現実になった
一方で、特例法には大きな不安もあった。
これほど厳しい選別を行えば、そこから排除される人たちは、今よりもっと厳しい差別の中へ置かれるのではないか。
その予感は、SNS時代になって現実になった。
「声を上げる前にチンコ切ってこい。」
そんな言葉が、当たり前のように飛び交うようになった。
歴史から消えてしまった人たち
日本では医療統計や性別変更件数を見ると、トランス男性の方が多く見える。でも、肌感覚では、ニューハーフを含めればトランス女性はもっと多い。その多くが、医療や制度の数字には現れない。
先日のLGBT Historyブックのイベントでも、トランスジェンダーの話題が出ていた。でも、あたしには「そこに出てこない人たち」がいることの方が気になってしまった。それは、最初の答申で夜職の当事者が排除されて以降、医療の場からも、そしてPrideなどの運動の場からも、多くの姉さんたちが姿を消してしまったから。
問題の本質は、公的性別だけではない
今では、公的性別変更の問題も変えなければならないと思っている。
でも、それでもなお、問題の本質はそこではないという考えは変わらない。「生得的なトランスジェンダー」なのか。
「本物のトランスジェンダー」なのか。
そんな線引きを始めた瞬間に、大切なものを見失う。それは、在日外国人を「同じ社会で暮らす人」と認識できない構造にも、どこか似ている。
本当に必要なのは、公的性別のマークではない。トランスジェンダーが、この社会で一緒に生きている。その当たり前の認知が広がることだと思っている。
日本のトランスジェンダー文化は続いている
亡くなられた美輪明宏さんがテレビに現れ、その生き方に憧れてカルーセル麻紀さんやピーターさんが家を飛び出した。情報なんて、ほとんど無かった時代だ。それでも、それぞれが自分の生き方を模索してきた。
ニューハーフの夜の世界も、そうした日本のトランスジェンダー文化の歴史の延長線上にある。けれど2026年になった今でも、その人たちがPrideの場で一緒に歩いている姿を見ることは、決して多くない。
今日生まれたトランスジェンダーのために
正直に言えば、これから何かが変わったとしても、あたしが生きている間に劇的な変化を見ることは難しいのかもしれない。
それでも、今、声を上げなければ、今日生まれたトランスジェンダーの未来は変わらない。
30年前も、あたしは同じことを思っていた。
明日、社会は変わらない。
でも、今日声を上げれば、10年後、20年後には少しだけ景色が変わっているかもしれない。
子どもを育てる機会のなかったあたしたちにとって、
未来のトランスジェンダーが少しでも幸せに生きられる社会を残そうとすること。
それこそが、あたしたちなりの「子育て」なんじゃないかと思っている。
