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日本を震撼させた八百屋お七の物語!丙午の迷信はなぜ生まれたのか?🌈

今年は、60年に一度巡ってくる特別な干支『丙午(ひのえうま)』。

丙午は、『十干(じっかん)』と『十二支(じゅうにし)』を組み合わせた『六十干支(ろくじっかんし)』の干支。

・十干
⇒ 甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)
・十二支
⇒ 子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(いまうたなくな)

この2つを組み合わせると、

・1年目:甲子(きのえね)
・2年目:乙丑(きのとうし)
・3年目:丙寅(ひのえとら)

60年周期で巡ってくる『六十干支』になります。

丙午は、十干の『丙(3番目)』と十二支の『午(7番目)』を組み合わせた六十干支。

どちらも、陰陽五行説で『火』の性質を持っている干支です。

・『丙』:太陽のように明るく活発な火を象徴する干支。
・『午』:情熱的で生命力あふれる火の性質を持つ干支。

この2つが重なる『丙午』は、60通りある干支の中でも、特に「火の力が強い年」とされています。

そのため、丙午は、「激しい年」や「特別な年」と言われているんです。

そこから、

「丙午生まれの女性は、気性が激しく、災いを招く」

という、女性に対する差別的な『迷信』が生まれてしまったんです。

この迷信によって、前回(60年前)の丙午(1966年)の際は、大きな社会現象(出生率の急激な低下など)にまで発展しました。


丙午の迷信が広く知られるようになったのは、江戸時代。

そのきっかけとなったのが、『八百屋お七』という物語です。

「江戸の町娘・お七は、恋人に会う目的で放火事件を起こし、重い刑に処されてしまう」

この物語は、芝居や浄瑠璃(日本伝統の語りもの芸能)などで広まり、

「丙午の年は、火災が多い」

という江戸時代の迷信と結び付き、

「お七は、丙午生まれだった」

という説が定着していきます。

・丙午が火の性質を強く持つ年であること
・放火という事件内容が重なったこと

これらの要素から、

「丙午生まれの女性は、気性が激しく、災いを招く」

という迷信が生まれ、現在に至ります。

ちなみに、このお七物語に関する情報は、「お七という娘が放火し、火刑になった」という記録のみで、お七の「恋人の存在」や「生まれ年」に関しては、未だに詳しくは分かっていません。


江戸時代に広まった丙午の迷信は、明治・昭和以降も、人々に影響を及ぼし続けます。

1906年の丙午では、(統計上の)出生数が前年より約4%減少。

この年は、

・戦争
・飢餓
・災害

こういった出生数が減る要因がなかった年。

にも関わらず、出生数が減少したため、迷信が影響したのではないかと考えられています。

次の1966年の丙午では、前年と比較して、出生数が約25%も減少。

当時は、すでに迷信を信じる人もあまり多くはありませんでしたが、新聞・テレビ・雑誌などで、丙午に関するニュースや記事が大量に流れ、それが出生率に影響を与えたのではないかと言われています。

この時期、特に話題になったのは、

「縁談に破れ、丙午女死す(ある丙午生まれの女性の縁談が破綻し、自殺に追い込まれた)」

という記事。

当時は、まだ古い価値観が残っていた時代。

親族や年長者が、

「この年に子どもを産んだら、将来、不幸になる」

と、若い夫婦を脅し、妊娠回避を促す事案も多かったと言われています。

また、出生数が少なかったことから、

「受験や就職では有利に働くことが多かった」

競争が緩やかで、進学やキャリア形成の場面で、逆に恩恵を受けた人も多かったようです。

世代全体としては、「堅実な生活を築いた人が多い」と言われています。


そんな八百屋お七の舞台として知られるのが、東京の文京区にある『円乗寺(えんじょうじ)』。

参道正面にある本堂の左手には、お七のお墓があります。

「お七は、火事のあと、親とともにお寺へ避難し、そこで一人の男性と恋仲になった」

円乗寺は、このときのお寺なのではないかと言われています。

昔から、『縁結び』や『火伏せ』のご利益で知られるお寺で、今でも多くの人に親しまれています。

皆さんも、ぜひ足を運んでみてください😌

最後まで読んでいただきありがとうございました🌈
 

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